丹羽佛鑑師と洞慶院の梅園
先日洞慶院へおじゃました際に、「丹羽佛鑑師」という小冊子をコピーさせていただいた。佛庵師の先師。佛庵師を考える手がかりがあるだろうかと読んでみた。佛庵師への言及はなかったが、この中に洞慶院梅園の由来が記されていた。
その冊子は、『教の友』第14号 明治38年2月1日発行
「丹羽佛鑑師」著者は大内青巒とある。
内容は前半に佛鑑師の「講筵・薩埵行願 故丹羽佛鑑師述」があり、
後半が大内による「丹羽佛鑑和尚行状」である。
それによれば、佛鑑師は
文久2年9月19日生まれ
静岡県下駿河国豊田村曲金28番地 寺田傳右衛門 長男 才吉
明治6年2月15日 曹洞宗法蔵寺住職増田瑞明の養子となり得度を受ける(僧名・佛鑑)
明治9年5月から 洞慶院住職古知知常師の門下に入る
曹洞宗専門支校卒業の年 本師瑞明師に嗣法 ただちに曹洞宗大学林入学
明治18年 曹洞宗大学林卒業 大本山永平寺安居
明治20年5月 庵原郡袖師村龍雲院田中齢瑞師の後席として住職
明治29年春 洞慶院古知知常師が伊豆の修禅寺へ移転し、その後席として洞慶院独住三世住職
密雲環渓禅師が東京出張所へ来た時は曹洞宗大学在学中の佛鑑が身辺の世話をしていた。
環渓禅師遷化後、靑蔭雪鴻禅師のときに不老閣侍局
雪鴻禅師後の瀧谷琢宗禅師のときは縁がなかったが、
性海慈船禅師になって再び不老閣侍局
明治37年2月27日入寂 世寿43歳
以上が略歴。
いくつかのエピソードが語られているが、梅園の由来を述べているのは以下のくだり。それは、行状の冒頭に載せた大内作の漢詩について説く箇所である。
祖庭多事太匇忙 忽裘斯人亦断腸
忍見林園春寂寞 老梅千樹是甘棠
「只拙老の輓詩の結句に「老梅千樹是甘棠」と云ふておいたのは、聊か因縁のあることで是れは佛鑑和尚が洞慶院の境内に色々と種類の異なった梅を六百株あまり植込んだ、其れは何の為かと云へは第一に高祖大師は自ら老梅樹にお比しなされて、「永平拄杖一枝梅、天暦年間種植来」などと仰せられたこともなり、佛鑑和尚のかつて随侍せられた雪鴻禅師は高祖大師の讃を作って「老梅樹老梅樹」と賦せられたこともある、況んや洞慶院開山も亦た梅に深い御因縁があって、毎年の開山忌には参詣の信徒が必ず梅干しをうけて皈るといふ風習もあるのであるから、一は山門の標丰とし一は貧寺の経済を助ける為にもと云ふので、此の挙に及んだのであった、然るに今は其の数百株の梅の木を甘棠と見なさねは成らぬことに成ったのであるかと歎息した心もちであったのである。
先日訪れた梅園はちょうど冬を待つ枝だけの状態。たまたま寺に来ていた旧友のスリランカ僧(洞慶院の弟子)は「2月の末頃が花盛り」と言っていた。
「梅花流」の命名にしばし思いをはせた。
洞慶院にて
臘八のさなか、静岡・洞慶院を訪れた。
快晴の富士、寒気さえも好ましい朝。
初めてここを訪れたのは30年以上前。二十歳前後のこと。東京別院の学寮で一緒だったスリランカの友人がここの前堂頭・丹羽簾芳師の弟子。彼の法戦式に随喜したのがその時だった。記憶の中の風景と眼前の景色が重なる。
梅園には花も葉もないが、ドウダンツツジの朱が誇らしげだった。
この秋に堂頭・鉄山師が遷化。偶々静岡を梅花特派の巡回であった。巡回中出逢ったb養成所二十期の丹羽崇元師。彼が現在鑑寺として洞慶院に入っているという。その師父・儀裕師が後継として来年の晋山が予定されているという。実際にお会いすると、かつて別院でお会いしていた人だった。
崇元師の話では「先代の資料はまだ何も整理していない。私たちも手をこまねいていたところ。どうぞ自由に調べて下さい」と。
先の堂頭師の居室、不老閣の地下室、2階の物置、書棚の全て。至る所を開放し調査に供してくれた。鉄山師、簾芳師、仏庵師、三代の遺品と蔵書は膨大なものであった。特に蔵書はちょっとした研究所の質量を軽く凌駕する。
自他共に認める「梅花の発祥地」。顕彰するスペースもしっかりある。
ここを拠点に梅花流が始まった経緯を簾芳師が綴っている文章がある。
「梅花流詠讃歌の創設」
小康をえると、もうじっとしていられないのが師匠の性格でした。
昭和27年には、ご開山道元禅寺様の、七百回御遠忌が予定されていましたが、旧態然たる計画で目新しさがない。師匠の仏庵は、この御遠忌を長い戦争で荒廃した人心をいやし、あわせ宗門の復興発展をはかる絶好の機会であるととらえていました。監院時代の昭和20年12月、早くも大遠忌の第1回準備会を開くという熱心さでしたので、通り一遍の内容に満足できませんでした。
当時、曹洞宗には宗門としての詠讃歌がありませんでした。心要な時には、金剛流などから譜を借りて間にあわせていましたので、「曹洞の乞食節」と呼ばれるあわれな状態でした。
師匠はこの点に注目しました。ご遠忌までに、なんとかご開山のご和讃やご一代記をつくり、そのお徳をたたえるしんみりした譜づけを完成したいと願いました。そこで、昭和25年の小松原国乗宗務総長の時でしたが、師匠は宗務庁にご詠歌の創設を再三にわたり進言しました。
いっぽう、宗門の図書や印刷を担当している古径荘という会社が東京の青山にありますが、そこの森地明睦さんに「ご詠歌の先生を知っていたら紹介してほしい」と相談しました。
「それは、ちょうどよかった。今、埼玉県の川口市に住んでいるけれども、金剛流からわかれた密厳流という新しいお流儀があって、なかなか明るい作曲をしている」という、森地さんのお返事でした。
さっそく、高野山大学を卒業した川口市の長岡紹臣さんという、当時25,6のお若い師範をつれてきてくれました。そこで、昭和25年から毎月長岡紹臣さんを講師に招いて、密厳流の研究会を始めることになりました。
宗務庁がご詠歌の創設に躊躇しているのをみると、師匠は北村大栄師の「高祖大師御一代記」の和讃をもとに、出来上がった作詞に自ら手を加えて、「降誕」「得道」「説法」「涅槃」の四段にわけ、長岡紹臣さんの師匠にあたる小河原玄光師に作曲を委嘱し、この年の12月完成をみました。
翌昭和26年の1月から、師匠をはじめ私ども静岡県第1宗務所の大賀亮谿、安田博道、大島賢竜、丹羽鉄山等20数名の有志が、二日間泊まりこみで本格的な勉強にとりくみました。長岡さんが、観音さんの秘曲といわれる密厳流のすばらしい譜を詠じてくれましたが、そのつど感激して聞きほれたものです。
2月に入ると小松原内局にかわり佐々木泰翁師が宗務総長に就任しましたが、師匠は社会部長の山喜紹三師にご詠歌創設を引き続き進言しました。師匠の再三の進言に加え、大遠忌局企画部次長の山田義道老師の要請に刺激され、6月にいたってともかくも研究会が曹洞宗の外郭団体として発足することになりました。翌7月には、山田霊林禅師さま、堀口義一、高田儀光、山内元英、赤松月船、永久岳水、小暮真雄、関岡賢一の八師に、詠讃歌研究員が委嘱され、ここに具体的な歩みを始めました。これまで長岡師範の毎月の旅費からお礼まで、すべて師匠一人で負担しておりましたが、ようやくにむくわれたという思いがしました。
宗門としてとりくみはじめれば早いもので、10月には各研究委員が詠讃歌の歌詞の原案をもちより、山喜社会部長の骨折りで密厳流遍照講本部長でもある新義真言宗智山派教学部長石川隆淳師に作曲を依頼しました。こうして1月には、「大聖釈迦牟尼如来御詠歌」「高祖承陽大師御詠歌」「太祖常済大師御詠歌」をはじめ全19曲の完成をみました。と同時に、流儀の名前を決めるのに、最初「正伝の仏法」だから「正伝流」にしようという意見が強かったのですが、結局は「梅花流」に決まりました。ご開山の『正法眼蔵』の「梅花の巻」および中国留学時の、大梅山の「梅花一枝の霊夢」の故事、太祖常済大師の『伝光録』中の「梅花」に因んだ名前です。この時の会議には、私も出席させていただき、「それでは一番上の位の人を『正伝』としましょう」と提案し、満場一致でさいたくされました。
大遠忌の年、昭和27年、一回目は高階瓏仙曹洞宗管長臨席のもとに永平寺東京別院で、二回目は大本山永平寺で講習会が開かれました。永平寺の講習会の時、私ども役員が泊まっているところに酒を飲んだ雲水が「曹洞宗大本山永平寺でご詠歌大会を開くとは不届き至極だ。曹洞宗は坐禅していればいいんだ」ということで暴れこんでくるというような一幕もありました。
それから同年11月、最初の検定会が鶴見のご本山総持寺の紫雲台で行われました。石川隆淳師、鷲山浄隆師、小河原玄光師等、密厳竜の大師範が居並ぶなかで、私ども20数名が検定をうけ5級師範に合格しました。考えてみれば、他流の人々の検定を受けるということほど哀れなことはありませんでした。
今日になってみれば、梅花流は布教の上で大きな役割を果たしているといえます。教学部の特派布教があるので、集合するように指示してもいっこうに集まらない。それが、梅花ですると号令をかければ大勢の人が集まるというようなぐあいです。大衆の心に溶けあうことの必要さをつくづくと感じました。」
丹羽簾芳『梅花開‐わが半生』昭和55年第1刷(56年第2刷)洞慶院
この旗はどんな由来によるものか。ほとんどやつれずに2階の和室にあった。
『梅花開』には、仏庵師が洞慶院の2階で最期を迎えたことが記されている。この部屋だったろうか、と思う。
資料中眼を引いたのがこの日鑑。おそらく堂頭師の手で毎日の出来事が綴られている。できれば昭和20年代半ばのものが見たかったが、この時点では未見である。
ところでうれしい出来事が一つ。冒頭記したスリランカの友人・ビジタ師が先代住職遷化の報に接し、お寺に来ていた。別院時代、その後の院生の頃まで一緒に過ごした。今年65になるという。変わらぬ姿になつかしさがあふれた。
と
尼僧 小島賢道師
「梅花流誕生」の背景を考えている。
先般、新宿区観音庵の東堂・笹川亮宣師にお会いした折、師がこのように言われていたのが気になっていた。「私は当時、尼僧団の書記をしていたのですが、尼僧団の小島賢道さんから“あなた行ってきなさい”と言われて、先輩の野村さんや熊倉さんと一緒に行くことになったんですよ」。
くだんの話題は、梅花流発足以前に、密厳流詠讃歌を修学のため埼玉県の真言宗寺院・錫杖寺へ「留学派遣」に至った経緯をお聞きしていた時のこと。「気になっ」たのは、詠讃歌修学への志向が、丹羽仏庵師を初めとする静岡県僧侶達の慫慂によるものではなく、「尼僧団」のものらしいということ。この時点で小島師の名前は『曹洞宗尼僧史』の発行者として憶えていたくらいで、詳しい知識はほとんどなかった。
だが亮仙師のお話を伺っている際に、同席していただいた観音庵の現御住職・笹川悦道師のお話に、尼僧団の興隆に尽力された小島老師の活動に少しながら触れ、梅花の発足に関わりがあるのかもというニュアンスを感じていた。
そんな矢先、笹川悦道師からお手紙をいただき、合わせて同師が小島師について執筆されていた玉稿掲載の『花はちす』という冊子を頂戴した。
この文章によってほとんど知らなかった小島師の活動の概要を知ることが出来、非常に有難く感じている。ここに備忘の意味も込めてその全文を記し、合わせて小島師に関する少しの記事を添えて、当面の課題へのメモとしておこう。
「曹洞宗尼僧団 全日本仏教尼僧法団 創設に命をかけた小島賢道師を懐古」
笹川悦導 記
曹洞宗尼僧団並びに全日本仏教尼僧法団創設の親、小島賢道師について少しばかり懐古してみた。
師は愛知県で明治31年7人兄弟の末っ子に生まれた。正月とお盆に経をあげに来る僧侶や尼僧の姿にひかれ、もの心かついたときから「お坊さんになるんだ」と決めていた。親の反対を押し切り、12歳で隣村の観音寺に入り出家得度。関西尼学林で修行。しかし成長するにしたがい、男僧と尼僧の差別のはなはだしいことに憤慨の気持ちが絶えなかった。
学林を加藤真成師と二人でやってくれと託されるほど、大衆の頂に立ち、統率力があった。
女人禁制の駒澤大学に押し問答をして、やっと聴講生として入学を許された。後に、愛知専門に僧堂堂頭となられた加藤真成師、ルンビニ園創設者谷口節道師等と大正13年から昭和3年まで学ぶ。幸い熱心な勉学姿勢に、大学から専門部の卒業証書が出た。
昭和12年頃から戦争が始まり、名古屋駅で出征する兵隊を見る。その頃ハワイ開教師の話があり、13年6月にハワイへ赴任。16年、真珠湾攻撃から太平洋戦争勃発。最後の船で帰国できた。
法に飢えた身体を、永平寺の眼蔵会に参加して聴講した。室内に入れてはもらえず、廊下に座って拝聴。でも、有難くて法の一つ一つが感激であった。
高祖道元禅師ご征忌逮夜、行道に入れたもらって感涙にむせび経を読んだ。それが問題になり「尼僧のくせに」と、とがめをうけ、僧侶にあこがれ出家したものの差別と矛盾の壁にぶつかる。これをなんとか打破せねばと、本来の性格が燃え高ぶった。
戦時中は尼僧挺身隊として軍事工場、火薬工場に動員され、その間、監督役を申し出て宿舎で坐禅、読経と叢林と同じにつとめた。さらに、差別に立ち向かうために取り組んだのが、尼僧の教育と団結力。
昭和18年1月、「尼教師錬成会」として講習会を開催。昭和19年2月には「曹洞宗尼僧護国団」を立ちあげた。終戦を迎え、20年10月にその名を「曹洞宗尼僧団」と改称。以後、三つの目標を掲げた。一つは嗣法問題、二つめは人材育成のために駒澤大学に通学する尼僧の寮の建設、三つめは孤児収容施設の社会事業。
三本柱の念願は、21年の6月に嗣法が新宗制で許され、男僧尼僧の教師資格が同格となり、尼安居と選挙権が付与された。22年の1月、戦災孤児収容施設「ルンビニ園」は富山市月岡村霊眼寺に開設。そして、23年の11月に多摩川河畔に古い建物を譲り受け、「駒大尼僧学生寮」が出来る。
小島賢道師の熱き念願と実行力により、目標は速やかに達成した。さらに師の願欲はとどまらず、昭和26年9月に各宗の尼僧が手を繋ぐ「全日本仏教尼僧法団」を結成させた。しかし、この誓願目標を完結するまでには幾多の艱難と辛苦があり、想像を絶する大小の事件にも巻き込まれた。諸大徳の交わす意見も賛否両論。まとまらず夜を徹し火花を散らしたこともあった。師の独裁と真剣な熱き精神は、反対派を突きはね、大きな理想に向かう悲願に突き進んだ。こういう師を仰ぎ敬う人も少なくなかった。
今日「曹洞宗尼僧団」は70周年を迎え、男僧・尼僧の制度上の差別は存在しない。明年「全日本仏教尼僧法団」は、65周年を迎える。両団とも小島賢道師が創立の大功労者である。無我夢中、命がけで尼僧の道に情熱を燃やし尽くした師をあらためて讃えたい。
『花はちす』227号、平成26年8月1日発行、発行人・川名観惠、公益財団法人全日本仏教尼僧法団(東京都新宿区大京町31)
私が住まう秋田には尼僧は知っていたのは二人、知己と言えるのはお一人だけ。失礼な言い方になるかも知れないが、差別的な意識よりも「珍しさ」が先になってしまう。他地域の尼僧さんとは何人か知己があるが、やはり多かれ少なかれ尼僧であるがゆえの被差別観を吐露される。悦道師の「制度上の差別は存在しない」という表現の意味は軽くない、と思う。その問題は重いのだが、いましばらく小島師の活動に焦点を当ててみたい。
戦前・中・後を通じて、尼僧であることへの不当な不遇に抗い、修行に、修学に、社会事業という名の衆生済度に邁進した小島師の行動に心から敬服する。悦道師があえて筆をはばかった艱難・辛苦と大小の事件がさらに横たわっていたことを思えば、さらに低頭するのみである。
小島師が自らの意見を広く曹洞宗教団内に届けようと、昭和二十四年に曹洞宗宗議会議員に立候補を決意した趣意文が雑誌『大乗禅』に掲載されている。それを抄出してみよう。
「立候補の趣旨」
曹洞宗尼僧団常務理事 小島賢道
『大乗禅』昭和24年9月号
「私はいわゆる政治といはれるものは何も知りません。が、只敗戦後の混沌たる世相の中にあって、それと全く同調の如き宗門行政の様相を幾多見るにつけ、一体吾々というものは衆生済度の身でありながら、これでよいのだろうか、はたまた宗門の存在価値が一体何処にあるのかと深く疑い、この疑念を廣く宗門の識者に訴え、厳正な御批判の下、真に正しき宗門行政を確立実現したい愛宗護法の心情にかられて、臆面もなく恥も分際も忘れて立候補した次第でございます。」
「思えば、宗教は大自然の命を信ずることであり、正しい自然の法則に順応するものでありますが、江戸仏教は徳川300年の政策によって、その本来の使命を失い、命なき形骸仏教として、今日まで漸くその惰性によってつながれて参りました。然るに今敗戦という一大警鐘の下に、ゆがめられた過去封建の殻をぬぎすて、本然の姿に立ち帰るべく、その時機が与えられたのであります。今こその好機を逸することなく、宗門真実の和平、革新の道を開拓すべきでありますのに、今以て宗門行政の衝に当たる人達の中には、未だ何ら目覚むることなく益々騒動宗の異名をたくましうして居りますが、事ここに到らしめた最大原因は何処にありましょうか。そは宗門行政機構そのものが仏法必然の真理に逆らって全く尼僧の存在価値を無視した処にあると断言して憚りませぬ。
大聖釈尊は、法の顕現としての人間性の平等を説かれ、宗祖もまた「たとえ七歳の女流なりとも四衆の導師なり、男女を論ずることなかれ」とたかい男女の絶対平等視を示されて居りますのに、何時の間にか尼僧の存在を無視して、男僧独裁の宗門とされたところに騒動宗の醜名を天下にさらすようになった原因があると思います。然し幸いにして昭和維新の大革命期を迎えましたる今日、真実に厳正公明なる法眼を以つて、男尼の悪差別視を撤廃し、尼僧えの得度権も、面授嗣法の変則も解かれるよう、徒らに男女の相に拘らず、只、得法の如何によって僧階、法階の次第も決せらるるよう、宗祖児孫の一員として、私は全生命を賭して立法の議場に叫ぶ覚悟でございました。与えらるるべきを与えられたところにこそ、自ら過去現在の消極性、他力性、を去って、真に生きがいのある吾々の使命感も確立するものと信じます。」
「思えば現今は男女円融せる平等の下、日本婦人はその過去のゆがめられたる道を改め、新しき世代の脚光を浴びて、政治に、学問に、宗教に、はたまた芸術に、あらゆる文化の一端を担って、華々しくその歩みを進めつつある時、つとに時代の先端を行くべき宗教者の世界にあって、未だその真実なる平等観が、あたかも弊履の如くにおきざりにされ、尚も伸びんとする若芽を徒に摘み取る如きことさえも行われんとする中にあるとは一体何を以てか仏法者の名を誇り、何を以てか宗教者の使命を完全に果たしうることが出来ましょうか。」
「さすれば今後の日本が家庭教育の向上、並びに宗教情操の堅持を必至とする時、一般社会のこの要求と相俟って、宗門に於いても主にその接触を婦人に持ち、家庭布教を担当せる尼僧の教養と信念の確立は、これまた当然なさるべき重大事項であります。その意味に於いて今後宗門は何としてもこの尼僧の修養教育機関に大いに意をそそがねばならぬ。従って今後布教面の重点は婦人布教、青少年布教にその拡充強化を図り、かかる時代の要請に即応するは当然の道でありませう。また社会事業面にも、寺院の社会福祉事業えの開放の徹底が為さるべきであります。尼僧団では孤児を収容保護して居りますが、こうした事業を廣く宗門の事業として大いに拡張して頂きたいと思います。宗教は只単にかくありたしと知ることではなくして、かくならんとなる事であると思います。」
ここに小島師自身の言葉で、当時の率直な教団批判が展開され、さらに釈尊・両祖の意に立ち帰って、男女平等観に根ざした新たな曹洞宗教団の使命を唱えていることが読み取れる。
そしてこの「趣旨」で注目したいことは後掲の引用文に見える、「家庭布教を担当せる尼僧の教養と信念の確立」という表現である。これは尼僧が担うべき宗門布教の分野を小島師が想定していた証左と見てよいものではないだろうか。無論、これが小島師単独の見解ではなく、当時の教団、もしくは尼僧団に共通するものであったかも知れないが、それは今の時点では定かではない。
結果、小島師は昭和26年2月に宗会議員として選出され、尼僧として初めて宗政に参画することとなった。
この年に笹川亮宣師等、3人の尼僧が密厳流詠讃歌修学へ「留学派遣」されていることを注意したい。これに関する小島師あるいは当時の尼僧団の意図はまだはっきりとはわからない。しかし、尼僧の地位向上、それを支える戦後の新しい布教教化方針の具体的な一つとして「詠讃歌活動」が求められていた見ることは出来ないであろうか。
戦後の布教方針が、民衆への親和化を、そして青少年および女性などを対象としていくことはすでに検証してきた。さらに詠讃歌活動が密厳流を初めとする他宗諸流の活動により戦後再び活発になりつつあったことも確かめている。社会における女性の地位向上の気運に呼応して、曹洞宗教団における尼僧達が、自分たちの新しい布教教化手段として求めようとしたのが「詠讃歌活動」ではなかったろうか。
昭和26年にその胎動を始めた曹洞宗の詠讃歌活動は、翌昭和27年に、日本国の名目上の独立、道元禅師700回忌とともに「梅花流」名前を得て発足し、教団が新しくテーゼとして掲げた「正法日本建設運動」とともに発展する。
曹洞宗尼僧団もまた小島師を中心とする諸老師の尽力により、宗派を超えて各宗に僧団の要として歩みを進めていた。
昭和30年9月、小島師が発行人となって『曹洞宗尼僧史』が刊行される。その冒頭、小島師の記した「啓白文」は次のようなものである。
「わたしども数十名の尼僧が厳冬氷雪の中を越のお山に拝登いたしまして、五昼夜を剋して端坐摂心、礼拝得髄の巻の御親示を仰ぎ、感泣して尼僧の真実道に邁進いたすことを祈誓し、大慈大悲の御照鑑を懇請いたしましてから十星霜を閲しました。
わたしども尼僧が管長秦慧昭禅師猊下を初め、総務谷口虎山老師、教学部長山田霊林老師、教学部主事山内元英老師等の御支持のもと、尼僧団の結成をいたしましてから十幾年になります。
その間に宗門御寺院並びに先覚諸兄姉の御扶掖によりまして、わたしども三千の尼僧は一心同体、不惜身命、もって宗教的人格の育成につとめ、仏教的教化の進展につとめてまいりました。そしてこの事に純一であればあるほど、高祖大師会下の尼僧、太祖大師会下の尼僧、乃至従上の尼僧諸師の行実の誠に偉大なるものあることを感得し、この偉大なる行実をわたしども尼僧の木鐸として、獅子奮迅三昧を行取いたさねばならないことを覚悟するに至りました。
かくして、わたしども尼僧は曹洞宗尼僧史の編纂刊行を発願いたし、高祖大師七百年の大遠忌法要の機に於て、大師の真前に献上し奉ることに力めましたのも、それがためでありました(後略)
昭和三十年九月大吉祥日
曹洞宗尼僧史刊行専務理事 小島賢道 稽首敬白」
昭和30年9月29日印刷発行 曹洞宗尼僧史編纂会 発行人・小島賢道 発行所・曹洞宗尼僧団本部
私には、ここに繰り返される「わたしども尼僧は」という表現に、小島師のなみなみならぬ信念と自負が感じられる。
94歳の別れ
今年の8月13日、お世話になった老僧が亡くなった。
越えて霜月の昨日、見送りの儀が終わった。
寡黙、おだやか、器用、丁重、親切、やさしい、などおよそその人を形容する言葉は聞いてきたつもり。
しかしいざ別れの場に臨んで老僧に贈る親しき人たちの言葉を聞くと新たな思いに打たれた。
「若い頃、優しくて美男子の和尚様は、この村の私たち子どもにすばらしい模型の機関車の走るところを見せてくれました。たくさんの御菓子をもらえるお寺の春祭りを私たちはわくわくして待っていたものでした。この村の子どもや大人達に夢を与え、仏様の教えを説いてくれた、あなたは村のお釈迦様でした」
「どうして自分の師匠はよその師匠さん達みたいにいろいろ教えてくれないのだろう。そう思って聞いたことがありました。すると師匠は“お前と一緒にお経を読んでいると泣けてきてしょうがないのだよ”と答えました。この時私は自分の師匠とはありがたいものだと心から思いました」
人が一人ずつ亡くなっていくことは、それぞれきれぎれの断片が散らばっているように見える。
けれどもそんな中でなにかしらが「つながって」ゆくのは、そんな思いが継承されて行くからだと感じた。
老僧、ありがとう。さようなら。
笹川亮宣師範
東新宿の駅から住宅街の小路を歩く。
塙保己一の眠る墓があるという観音庵。
逢いたかった女性がそこにいる。
笹川亮宣師範。大正13年生まれ。御年91歳。梅花流正伝師範。
昭和26年、野村秀明師、熊倉実参師とともに、曹洞宗尼僧3名が、密厳流詠歌修学のために派遣されたその一人。
当時は20代、現在の齢を迎えても、この凜然としたたたずまい。
現在は東堂職。
堂頭は笹川悦道師。悦道師も梅花流2級師範。
尼僧としての見識も高く、聡明な印象。
東京宗務所で編纂した梅花流五十年史『放香半百譜』を事前に読む。
昭和27年1月護持の教典。
当時まだ二十代の亮宣師の書き込みがある。
密厳流を習いに行った先は埼玉県・真言宗錫杖寺。
江連師の名前が出る。
『密厳流遍照講五十年史』によれば、江連師は当時密厳流遍照講の第一人者。
気になったのは、静岡・丹羽仏庵師等との関係。
曹洞宗で詠讃歌運動はどのように発足したのか。
笹川師は当時、尼僧団の書記をしていて、尼僧団の小島賢道師から指名され、
野村師、熊倉師とともに錫杖寺へ派遣されたという。
この時点ではまだ丹羽師等を知らなかったという。
丹羽師・安田師等と初めてあったのは、第一回詠讃歌講習会(この呼称ははっきりしないが)が東京別院で開かれた時だった(らしい)。
総持寺で(?)検定が行われた時、安田師も一緒に受検した(?)。
それは渡辺禅師の時であったという。
先般、大島師範の話を聞いた時には、
大島師は渡辺禅師の行者(?)を勤めていたというから、もしかするとこの時に笹川師と大島師は出逢っていたかも知れない(佐藤考)。
ここで一つの着想。
「梅花流の誕生」を、戦後日本社会における宗教運動の一つとして考えたいとあれこれ思いめぐらしているこのところ。戦時中の全体主義・戦争翼賛的な態勢から、戦後一転して民主平和的路線へかじを切り変える日本に於いて、まさに戦後の復興期に産声を上げた「梅花流」は、さまざまな意味で貴重な役割を期待され、かつ担わされてきたように思う。
梅花流発足以前に、重要な動きとして次の三つがあったのではないか。
1)静岡・丹羽仏庵等による地方からの詠讃歌研究・慫慂の活動。
2)曹洞宗尼僧団による新しい宗教活動としての詠讃歌研究。
この二つ。さらに
3)権藤圓立による戦前・戦中を通じた仏教音楽による布教教化活動
と合流し、誕生したものが梅花流だったのではないか。
1)については、これまで云われてきたことをていねいに検討すればよいだろう。
3)については、権藤の活動の追跡からおおよそのことはわかってきた。
2)についてが、これからの課題。
昭和20年代前半からの尼僧団の動きを押さえなければならない。なぜ最初に派遣されたのが尼僧達だったのか。小島賢道の思惑も気になる。戦後における女性の地位向上・民主化運動と連動していないだろうか。
尼僧の相対的地位向上のために、具体的布教手段としての詠讃歌技術の習得を意図した。
戦後という時期は、尼僧団の諸方面における組織的体制固めが進められて行く時期。たとえば、各宗仏教教団に先駆けて尼僧団の組織化が図られ、また通宗的尼僧団連合の要となったのが曹洞宗であった。また曹洞宗尼僧団団歌の制定、尼僧団名簿、尼僧団史の編纂、さらにその中心的な位置におられた小島賢道師の宗議当選など。昭和二十~三十年代の尼僧団の発展は注目すべきものがあるように思える。亮宣師と野村資、熊倉師の尼僧三名が、埼玉錫杖寺へ密厳流詠讃歌習得のために派遣されたというのも、そうした動きの一環だったのではないか
このたび亮宣師より、密厳流への派遣当初は、まだ静岡県の丹羽仏庵老師や安田博道先生達とは交流がなかったこと、派遣自体は尼僧団の小島賢道師からの要請であったこと、の二点を伺えたことは貴重な情報だった。もっとも、その話の他に、当時の資料を精査して、さらに慎重を期さなければならない。教えていただいた「明珠会」(梅花流尼僧師範の会)の展開、戦後の尼僧団の進展、亮宣先生と同時期にご活躍されていた他の尼僧様達の足跡等々、調べたいことはまだまだある。
新たなストーリー作りにつながるか。
塙保己一の墓参りをしそこなった。もう一度訪れよう。
でもやはり、丹羽簾芳禅師と尼僧との関係が今少し気にかかるな。
尼僧団団歌
〈FBの過去記事に埋もれそうなのでこっちにあげておこう〉
雑誌『大乗禅』昭和25年3月号の記事です。
曹洞宗尼僧団の団歌が完成発表となりました。
赤松月船師の作詞です。
梅花流発足以前に〈赤松師-歌-尼僧〉の関係を示すもの
梅花流発足には尼僧さんたちの強い慫慂があったと聞いて
この消息と何か関わりがあるものでしょうか。
お気づきのことあれば、お教え下さい。
-
飯島 惠道 赤松月舟師、賀来琢磨師のお名前は、「曹洞宗聖歌」の中で拝見したことがあります。仏教聖歌を沢山作られていたのですね。先達の尼僧様方が、その方々と直接やりとりがあったとは存じ上げませんでした。一般の方にも、子供たちにはわかりやすく仏教を伝えるために、歌や梅花流にエネルギーを注がれたのではないかと思います。先先代が生きていれば、聴けたのですが・・・。青木先生もご遷化され、当時のことを知る尼僧様がどんどん減っていっております。できれば、記録として遺したいと考えております、が、一人では無理ですね・・・。
来年は、尼僧団発足70周年となります。終戦後、尼僧団が結成された拝啓には、男僧さんが戦争に行ってしまって、諸々がとどこってしまわないよう、各地の尼僧たちが活躍していたのだと思います。それまでは、おそらく出番がなかったのではないかと思います。大きな法要などでも、典座、接茶寮配役になり、表舞台には立つことが無かったのではないかと思います。しかし、戦時中は、男のお坊さんの代理を務めることにより、自分たちも男のお坊さんと同じことができるのだ、という手ごたえを感じたのではないでしょうか?そして、同じことができるのに、何故、女であるというだけで、同じことをさせてもらえなかったのか?という疑問が生じ、宗門に対して男女平等を訴えたのではないかと思います。戦後、男のお坊さんが帰ってきて、もとのポジションにおさまると、尼僧の出番は、また元のポジションに戻ってしまいました・・・。制度が変わっても、社会はなかなか変わらないものですね。
梅花に力を注いだのは、そこに尼僧の居場所を見つけたからかもしれません。男のお坊さんと同じ土俵に立って頑張れる「場所」。修行をした場所の制約をあまりうけずに、自分の実力で頑張れる場所。そんな風に思います。
尼僧が梅花に力を入れた背景についての本当のこと、知りたいです。
話がそれてしかも長文申し訳ありません。以上、私の所感まで。 -
-