BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

法具の密教的意義について その4

「金剛和讃」の密教的解釈については「その3」で紹介した通りである。さらに詳しい解説に及ぶことは、他宗・他流の奥義に触れることにもなるので、このような半公開的な性格を帯びたWEB上では控えておきたい。金剛界曼荼羅及び成身会については図像を利用したわかりやすい解説が様々な場で提供されているのでそちらを参照いただきたい。ここでは鈎索鏁鈴の四摂菩薩が、実際の詠歌法具の鈎杖・杖索・鏁房・鉦及び鈴に比定されていることを確認しておけばよいだろう。
 すでに触れたように、以上の〈法具=四摂菩薩〉という発想は、昭和4年の金剛流流祖(流祖となるのはこの後だが)・曽我部俊雄師によるものであった。同師はこのほかに「金剛流詠歌道」の中で、詠唱における「身口意三密」も重要性も強調している。いわば身体による所作・作法、言葉(口)による詠唱、心(意)における観想のことで、これは言うまでもなく真言宗における「三密加持」を基礎としている考え方である。
 「金剛流詠歌道」が昭和8年に『大師主義三十講』の一篇として刊行されたことはすでに述べた。ここに言う「大師主義」とは、昭和9年の弘法大師空海一千百回忌を機に、主に真言宗教団から発信された弘法大師信仰を流布展開するための布教教化活動であり、一種の宗教運動と言えるものであった。ほかならぬ『大師主義三十講』の刊行がそれだが、他に多くの事業・活動が展開された。曽我部師の「金剛流詠歌道」の主唱もまたその一つであり、昭和6年に発足する密厳流遍照講もまたそうした影響下にあった。密厳流御詠歌の教義的意義づけをなした岩村義運師『密厳流詠讃要訣』という著書が昭和9年に刊行されたのも、まさに大師主義運動の一環としてであった。

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岩村師『密厳流詠讃要訣』に「鈴鉦について」という見出しの一節がある。そこに記されているのは次の文章である。
 「鈴と鉦とは、吾が真言密教には特に深い関係のある楽器で、今では詠歌道に無くてはならないものである」
 この一文に続くのは、実際の詠唱上における鈴鉦の利点であって、金剛流のような精緻な事相的解説は見えない。だがこれは密厳流においてはそのような解釈をしないということを物語るものではないだろう。「吾が真言密教には特に深い関係のある」という表現に明らかなように、金剛流所伝の法具の解釈を岩村は充分に踏まえている。そのうえで、すでに金剛流に詳細な解説があるので当流では贅言を要しない、という含みと受けとめるべきだろう。このたび密厳流遍照講事務局長・川上秀忍老師にこのあたりのことを伺う機会を得たが、川上師のお話しでは、金剛流に多くの基礎を置く密厳流においては、法具の事相的理解や詠道の真言宗的な解説において、金剛流から逸脱するものではなく、密厳流の独自性を唱えるような解説書はほとんどなく、かえって密厳流の指導現場において金剛流所伝ものを参照することは少なくない、ということであった。このことはおそらく金剛流・曽我部師と、密厳流・岩村師との関係にも当てはまるものと思われる。無論、金剛流と密厳流の違いは、記譜方法や、詠唱曲レパートリー、詠唱スタイルの違いなど、特徴付けられるものはあるのだが、御詠歌の密教的意義づけにおいては、密厳流は金剛流の所伝をほぼ継承していると見てよいというのが現在の私の観測である。
 このような金剛流と密厳流であったが、第二次世界大戦参戦によって戦時中は、少なくとも教団レベルの講活動は休止に追い込まれた。これはまた他流の御詠歌講も同様であった。それが息を吹き返すように再開されるのは戦後の昭和二十年代である。全国各地で各流のご詠歌活動が復活し、諸種御詠歌大会が活発化する。この一因には戦没者に対する鎮魂供養としてご詠歌活動の復活が求められたことがあると考えられている。『遍照講五十年史』(昭和50年刊行)昭和23年12月の条に次のくだりが見える。
 「戦争が終わり、平和な社会にもどるとこれまで下火になっていたご詠歌は、再び燎原の火のように発展していった。戦争で亡くなった人たちへの慰霊とともに、戦時体制の中で押さえつけられたものへの反発が強かったのであろう」
 こうした戦後社会における仏教教団各流の既成ご詠歌講の復興という気運が、昭和27年に発足する梅花流の背景の一つであったことは重要なことだ。
 さて梅花流の叙述に移る。梅花流の詠唱を曹洞宗教義の上から意義づけようとするものは『梅花流指導必携』であるが、この初版は昭和47年に刊行されている。だがこれより先、昭和41年には『梅花流師範必携』が、またその前年には久我尚寛師による『梅花流詠道要訣』が刊行されている。『梅花流詠道要訣』中には、識語の年時を異にする数篇が収められていて、その年時は昭和40年、昭和35年、昭和29年と複数ある。曹洞宗における梅花流指導書の嚆矢と言えるものであるが、書名を見て察することのできるように、おそらく久我師がこの書の先鞭としているものは、岩村義運師『密厳流詠讃要訣』と思われる。あらためて詳しく述べる機会を得たいが、久我尚寛師の行った、組織作り、教義的意義づけ、歌詞解説、そのほか初期梅花流形成期における業績は甚大なものがある。ここでは金剛流及び密厳流経由の「詠道に対する考え方」をどのように梅花流に取り入れたか、これに焦点を絞って述べたい。

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『梅花流詠道要訣』の目次に明らかなように、ここに明示されているのは「身の構え・口の構え・意の構え」の三つ、すなわち金剛流・密厳流所伝の「詠唱における身口意三密」である。だが単純な援用ではない。久我師は本書の中で次のように述べている。
 「身口意三業の詠唱こそは、梅花流詠道の心要であります。そしてその三業相応の詠唱をするには坐禅が根基となるものであることを悟らねばなりません。即ち、詠道は禅道に通ずるものであり、詠道の奥処は禅道の奥処であることこを覚るべきであります。詠禅は畢竟一如であり、詠禅は同時成道の一筋道であります」
 ここで久我師は真言宗の解説には無かった禅・禅道への関連づけから、「詠禅一如」という考えを展開することによって、身口意三密の相応という真言宗所伝の考えに加え、詠禅という発想を用いて、梅花流独自の意義づけへ展開させているのである。
 一方、久我師においては法具の密教的意義づけは採用されなかった。その方針はそれ以後の梅花流指導書に継承された。その理由を明記したものをまだ知らない。勝手な推測が許されるとすれば、それは曹洞宗におけるご詠歌活動である梅花流の意味づけにおいて、密教的解説を出来るだけ遠ざけようとしたものではないかと思うのだが、確証はない。
 だがその理由を問うことは、真言宗ご詠歌を母体に生まれた梅花流は、どのような方向を目指していたのかを考えることにつながるものと思う。それは法具の密教的意義を考えること以上に重要な課題ではないだろうか。

法具の密教的意義について その3

 曽我部自身による「金剛和讃」の解説もあるがいささか頁数が多い、ここではやや時代を下るが、曽我部の解説趣旨を踏襲しているものとして、以下の「金剛和讃解説」(『高野山金剛流詠歌和讃の解説』高野山布教研究所編集、昭和63年初版、平成元年第三版)を挙げる。その1で引いた和讃本文の全解説であるので、適宜本文を参照しながらご覧頂きたい。

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 密教の事相教学の特徴がよくわかるものと思う。

 以上の叙述を前置きとして、以下は密厳流と金剛流の関係、そして密厳流と梅花流の関係に検討を進めて行く。

 

法具の密教的意義について その2

 金剛流流祖 曽我部俊雄師像

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 「金剛和讃」の作者・曽我部俊雄師は、金剛流御詠歌の音符・楽理(音楽的理論)・所作・指導原理の大成者と評される人で、「金剛和讃」が発表された昭和四年九月には金剛流詠監職に就任し、後には「金剛流流祖」の称号を得ている。ちなみに金剛流の発足は大正十五年である。
 「金剛和讃」の内容に入る前に、曽我部師がこの和讃を作成した機縁を語る曽我部自身の文章があるのでそれを紹介する。

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 ここに見るように、「金剛和讃」は曽我部による「一種の霊感」によって感得され、一気に作られたことがわかる。

 そして曽我部自身による「金剛和讃」の解説と、その解説を通じての金剛流詠歌道の「指導原理」が、その後の金剛流そして密厳流に大きな影響を与えているのである。それは〈その1〉で掲げた金剛界曼荼羅の成身会を基礎とした、金剛流御詠歌の事相教義による意味づけであった。

 なおここに挙げた曽我部の文章は、もと昭和8年に刊行された『大師主義三十講』に収められた、曽我部執筆「金剛流詠歌道」の一部である(平成4年に『金剛流流遡行録』として覆刻再刊された)。

 それでは次に「金剛和讃」に展開される法具の密教的意味づけが、どのように解説されているのかその実際をみていこう。

 

法具の密教的意義について その1

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法具の意味づけについては、これまでしばしば問われることのあったものの、梅花流ではそれを解説するものがなかった。それは真言宗所伝の御詠歌をもとに曹洞宗梅花流が発足した際、あえて採用しなかったのではないかと考えている。そのため今日の梅花流布教の現場には必要なものではないが、法具の由来を知るためには無用なものでもない。
 これを解明するためには、梅花流と密厳流の関係ばかりでなく、金剛流との関係についても留意しなければならないことがわかった。あわせて密教の事相に関する説明も重要になる。以下、数回に分けて述べていく。私自身も未消化な部分も少なくない。関心ある方々のご叱正を乞う。

(1)「金剛和讃」曽我部俊雄作

 金剛流御詠歌の密教的意味づけに於いて、おそらく最重要となるテキストが、昭和四年の秋、曽我部俊雄師によって作詞された「金剛和讃」である。以下にその全文を挙げ、つづいて解説を試みる。

帰命頂礼金剛界 智差別門の大日尊
四方四仏四波羅蜜 親近十六大菩薩
四天と賢劫千仏と 外金剛部諸天尊
わけて内外の八供養 四攝の菩薩は夫々に
適悦嬉戯と妙相と 歌詠遊舞の三昧に
如来自ら入り給い 嬉戯鬘歌舞の四菩薩と
現じて四仏に御供養を 捧げましゝを畏くも
内供養とは申すなり 香華燈塗の四菩薩は
遍満無碍と妙厳と 光明清涼それぞれの
四仏の三昧化現して 大日如来に御供養を
奉りしを貴くも 外の供養とは申すなり
鈎索鏁鈴の四菩薩は 鈎召引入さてはまた
鏁縛帰入の三昧に 入り給いてし御仏の
現われましゝ御名なり さても貴き御仏は
金剛流の御本尊 その本尊の御教えに
習いまつらん真心の 已むに止まれず今此処に
香華燈塗を供養なし 遊戯をなすは金剛嬉
世楽に耽る為ならず 首に掛けたる輪宝の
しるしと袈裟は金剛鬘 唱うる詠歌は金剛歌
さす手ひく手は金剛舞 さて詠唱の法具こそ
四攝の菩薩の表示とて 打ち込む鈎杖は金剛鈎
仏は衆生を召し給い 我等は仏を招くなり
控うる杖索は金剛索 その働きはさながらに
引入衆生の本誓に 契うと知るぞ嬉しけれ
鈴につけたる鏁房は 繋縛邪見の金剛鏁
打つ手も鉦も振る鈴も 大慈大悲のふところに
洩るることなく帰入せし 法悦歓喜の響きにて
金剛鈴と知らるなり かゝる有相の浄業が
誓願施与智恵精進の 四種の生活を聖化して
念定語黙行住に 一路向上退かず
やがては無相三密の 行ともなりて成仏の
深き根底となりぬべし わけて導師は遍照尊
二仏中位の大智識 斯土厳浄の大能化
金剛不壊の信あらば 攝取不捨との御誓願
拝め同胞吾が如来 仰げば同行吾が大師
かくて世のため国のため さて君のため家のため
浄き御国を荘厳し 宇宙の秘蔵を拓かなん
南無金剛曼荼羅尊 南無大師遍照尊

よこみち【真読】№113「オムカエデゴンス」

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 来迎の場面とは多くの場合迎えられる者にとって<のぞましい>ものとして描かれることが多いというイメージがある。浄土教系の往生観念を下敷きにした来迎図のバリェーションがそれだ。もっともこのことはビジュアルとして世に出回っている媒体が多いと云うことであって、実際に来迎の場面があのように壮麗にして救済の恩恵を喚起させるものであるかどうかは定かでない。

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 なぜなら臨死体験のリポートなどを読むと、それぞれある境界から一歩向こう側に誰かの存在があり、その誰かが自分を向こう側へ誘い込もうとしたのだがその誘いには従わずにこちら側へ帰ってきた例があり、そこに報告されている「向こう側」にはさほどの〈悪所〉のイメージが無い。行ってもよかったんだけど戻ってきちゃった、みたいな例が多い。だがそれも結局は「帰ってきた」者達が語る一方的な報告だけで、「行っちゃった」者の例はわからないのだから。

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そうは言っても〈向こう側=悪所〉と物語る例はこれまた数多くある。酸鼻を極めた地獄の様相を語る資料は、たぶん来迎図をしのぐほど多くあるだろう。本編の火車はその悪所から使いであり、さらに悪いことには悪所に至るよりいち早く到着先での地獄の業火を体験できる特別シート仕様の<おぞましい>車なのだ。

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日本では妖怪の名前にもなり、また中世の文献にも登場するのでその絵姿はそれなりになじみのあるものだが、釈尊の時代にはどんな姿で思い描かれていたのだろう。阿含部の経典には「火車」の用例が散見されるのでそのイメージはあったはずだが、寡聞にしてまだそのビジュアルを見たことがない。あるいは既に見知っているものがそれにあたるのだろうか。
 そんなことを考えていたら冒頭の画像に上げた手塚治虫のスパイダーなるキャラクターが、善玉でも悪玉でもないことに気がついた。ストーリーとは何の脈絡もなくぬっと現れるこいつ。だがしかしあらためて思う。「お迎え」ってのはそんなものかもしれないなと。

元政廟に詣る

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f:id:ryusen301:20170130065203p:plain たのもしなあまねきのりの光には 人の心の闇も残らじ

 年来の願いであった京都深草の瑞光寺。このたび初めてお参りすることがかなった。ちょうど同じ用事で訪京していた友人Sさん夫妻とご一緒だった。
 日蓮宗、元政庵瑞光寺。
 思いのほか静かな住宅街にある瑞光寺。これさえなければ閑静な、と表現してよい環境を、奈良線の線路が境内だったろう敷地を斜めに分断している。山門は小さいながら茅葺き、ご本堂もまた総茅葺き。一月下旬の寒空だが日差しは明るい。錦鯉の泳ぐ池を参道がまたいでいる。あらかじめご住職は留守と伺っていた。奥様と思しき人に「元政上人のお墓をお参りしたいのですが」と言うと、線路向こう側を指して教えてくれた。いったん地下道の階段を降り、線路をくぐって反対側へ出たところに元政廟所はあった。

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 僧、日政(1623~1668)。
 日本仏僧史上、最も親、就中母親に孝養を尽くした一人として知られる。
 もと彦根藩主井伊家に仕え、後、日蓮宗に出家し、元政の名を日政に改める。
 仏教学はもとより漢詩文にもすぐれ数多の著作、校訂書がある。時の文人とも交流繁く、享年四十六歳の短さが惜しまれる。
 京都深草に一宇を結び、傍らに居室を建て両親を迎える。先に父を喪い残った母に孝養の限りを尽くす。

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 青山霞村著『深草の元政』(明治42年刊)に元政と母との交流を語るエピソードのいくつかを拾ってみる。

 ⊿病を養うて鷹ヶ峰に居られた時、母を憶うて深草に返った夢を見て詩を作られた「昨夜三更の夢、分明に深草に帰る。夢覚めて久しく寝らず既に寝て暁を知らず、憶得たり母の吾を愛することを、未だ懐抱に在るに異ならず、一日相見ずんば人の至宝を失うが如し」云々。然るに其日母は元政を尋ねて行かれたのである。「余母を憶う時を作り、吟じ已んで乃ち紙筆を命ず。墨痕未だ乾かざるに吾母忽然として至る。余驚き起って駕を階上に迎え手を執って相喜ぶ。而かも吾れ病来殆ど四十日、偶此日に於て浄髪澡浴して軽し単衣を着す。灑々落々曾て病ざる者の如し。母熟々視て悦ぶこと甚し。於乎吾れ一念相念へば母即ち至れり。豈感ずる所なからんや詩を作って喜を記すという」

 ⊿憂懐掃うべからず、徒らに失う母を憶うの詩、詩就いて涙睫を拭う。吟じ罷んで更に相思う、再び吟じて人をして写さしむ、人何ぞ吾悲を解せん、写し已んで墨未だ燥かず、慈母忽然として来る、恍惚として初めは夢かと疑う、夢に非ず復奚をか疑はん、茶を煮て山菓を陳ね、笋を焼て雲糜を具う、老莱が舞を能くせず、諧笑嬰児を学ぶ、奇なる哉母を憶う處、念に応じて相期するが如し、慈母兮慈母、亦た無縁の慈に似たり。

 ⊿丁未の孟夏初三日予北堂に侍す。母の曰く吾れ此齢に至るまで終(つい)に徒(いたずら)に居らんことを欲せず。子も亦た能(よ)く我に似たり。予笑って曰く吾聞く夜生るゝ者は母に似ると、吾れ夜生れたる無きや。母言く然り二月二十三日の夜、子を生めり。我其日適々出でゝ帰る。夜半に及ぶ比(ころあ)ひ覚えずして産す。讃岐の姥という者傍にあり。歯を以て臍の帯を絶つ。寿命を祝すとなり。子必ず長寿ならんと。欣然として話暮れに及ぶ。

 ⊿ある時は山に遊ぶと躑躅(つつじ)を折り磐梨(いわなし)を採って帰って母に供し、谷口の翁が栗や菊を贈ると直ちにそれを母に奉る。母の方では元政の誕生日には自ら社中の弟子達を饗応せられることは述べた通で、また小僧が法華経全部を習ひ終わると、祝いに小豆粥を煮て社中の衆に供せらる。こんな風で元政の家庭は實に美しい楽しいもので、儒家にも恐らくはこんなのはなからう。元政は高槻や鷹峰で病を養ふ時も僅か一日や二日醍醐宇治へ遊びに行かれた時も或は有馬に行かれた時も、常に母のことをいつて居られる。外に居って自ら孝養を欠く時は山中の弟子達に念のために手紙で頼まれて、その念々母を離れたことがない。元政は内に居るも外に遊ぶも寝てもさめても造次顛沛(ぞうじてんぱい)母を思われたので母もまた同様であった。

 ⊿母が十二月四日死なれると二七日から病に罹って、まだ百日も経たぬ中に死なれたのは實に不思議の因縁といはねばならぬ、母を失はれた時の悲が如何にあつたかは何の記録もない、しかし和歌が七首造ってある。
  母のなくなりぬるころひとのもとより五首の歌よみてとふらひいけれは返事に
 先立たばなほいかばかり悲しさの おくるるほどはたぐひなけれど
 いまはただ深草山にたつ雲を 夜半のけぶりの果てとこそ見め
 なにごとも昨日の夢としりながら 思ひさまさぬ我ぞかなしき
 いかにしていかに報いん限りなき 空を仰ぎて音には泣くとも
 たのもしなあまねき法の光には 人の心の闇ものこらじ
  母のなくなりてのち
 惜しからぬ身ぞ惜しまるるたらちねの 親ののこせる形見と思へば
おなじとしのくれに
 冬深きやとにこりつむ山かつの なけきのなかにとしもくれけり

 生前の母との交情を綴る描写が細やかなだけに、母との死別の思いを察するに惻々たるものがある。その悲しみの重さが死期を早めたのだろうか。
 「たのもしな」ではじまる一首はこの時の作。かつて元政を身ごもる際に母が夢に見た観音の言葉〈たのもしな〉がもとになっている。

 母を思う子の心情に乗せて人々に歌いつがれてきたこの和歌が、はるか時を経て大正14年、細川道契の筆によって『観音信仰講話』の一節に書きとどめられた時は作者元政の名は無かった。

 石柱に囲まれた元政の塚には、その伝にあるように墓塔はない。伝に合わせてしつらえたのだろうか、細い竹が植えられてあった。

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【真読】 №113「火車来たり迎う」 巻四〈送終部〉(『和漢真俗仏事編』web読書会)

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テキスト http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/818707 コマ番号48

 問う、重悪人死するとき、火車来たり迎うこと、世俗専らこれを談ず。本説ありや。
 答う、提婆達多、逆罪を造るとき、大地自然に破れ、火車来たり迎えて生きながら地獄に入ると云へる、これなり。
 問う、いずくには出づ。
 答う、『智度論』十四に云く、
 提婆達多、出家して六万の法聚を誦す。十二年修行して仏の所に来たり神通の法を学ぶ。山に入りてこれを修し、五神通を得たり。自ら念(おも)へらく、「誰をか我が檀越とせん」と。王子・阿闍世王を瞻(み)るに、大王の相有り。遂に親しみを厚うす。王子、意惑うて祭園の中に大精舎を立て、提婆達多を供養す。徒衆となるもの少なし。ここにおいて自ら念へらく、「我、三十相あれば仏にも幾(ちか)し。もし大衆囲繞せば、なんぞ仏と異ならん」。かくの如く思惟して五百の弟子を得たり。
 しかるに仏、舎利弗・目連・五百の僧に説法教化して、悉く和合せしむ。
 その時、提婆達多、悪心を生じて、山を崩して仏を壓さんとす。金剛力士、即ち金剛杵を以て遙かに擲げければ、石、砕け迸(はし)りて仏の足の指を傷(そこな)へり。この時、華色比丘尼、大いに呵りければ、瞋りて拳を以て尼を打つ。尼、即時に眼出でて死す。三逆罪を作る。
 提婆達多、ここを去って王舎城の中に到らざるに、地、自然に破裂し、火車来たり迎えて生きながら地獄に入る。