BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

【真読】 №114「施餓鬼」 巻五〈雑記部〉(『和漢真俗仏事編』web読書会)

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吾が門の徒は日々必ずこの法を修すべし。儀軌にも獲る所の福利果報校量すべからずと云へり。
 ○『仏説救抜焔口餓鬼陀羅尼経』(不空訳)曰く、阿難、独り静処に居して所受の法を念ずるに、その夜三更以後に当って焔口と云う餓鬼、阿難の前に現ず。その形醜陋にして身体枯痩して口中に火燃え、咽(のんど)針鋒(はりさき)の如し。頭髪蓬乱し爪牙(そうげ)長利にして畏(おそろ)しかりけるが阿難に白(もう)して言く、「却後三日、汝が命尽きて餓鬼の中に生まれん」と。阿難、これを聞いてはなはだ惶(おそ)る。「我、いかなる方便をなしてこれを脱(のが)れむ」と問いたまへば、餓鬼こたえて曰く、「汝、もし明日に百千恒沙数の餓鬼と、百千の婆羅門仙等に摩伽陀国の斛(ます)にて一斛の飲食を施し、ならびに我がために三宝に供養せば、この功力を以て汝も寿(いのち)を増すべし。我もまた餓鬼の苦を離れ、天に生ぜん」と申しければ、阿難、はなはだ怖(おそ)るべく、疾に仏所に至って、彼の焔口鬼の我に語ることを一一仏に告(もう)しければ、仏、阿難に告げたまはく、「怖れることなかれ。我に方便あり。諸の餓鬼・婆羅門仙等に種々の飲食を施さしむべし。“無量威徳自在光明殊勝妙力”と云う陀羅尼あり。この陀羅尼を誦すれば、百千恒沙数の餓鬼及び婆羅門仙等に上妙の飲食を充足せしめ、一一の餓鬼に摩伽陀国の斛(ます)を以て七七斛の食を得せしむる」となり。世尊、重ねて言(もう)さく、「我、前世に婆羅門たりしとき、観自在菩薩の所と及び世間自在威徳如来の所において、この陀羅尼を受く。ゆえにこれより無量の餓鬼及び諸の仙等に種々の飲食を施し、諸餓鬼の苦身を脱して天上に生ぜしむ。阿難、汝今受持せば、福徳寿命皆な増長を得む」と。その時世尊、すなわち陀羅尼を説きたまう。

下田正弘「〈近代仏教学〉と〈仏教〉」『仏教学セミナー』73 2001年5月、大谷仏教学会

仏教学が仏教を変えてきた、あるいは仏教そのものを作り上げてきた〉

 アジアにはさまざまの仏教徒が生活をしています。(中略)これらの仏教徒たちはそれぞれの地域や歴史に限定された特色を持ちつつも、〈仏教徒〉として共通の世界に生きている意識を持っています。それは何よりも〈釈尊の教え〉という淵源を共有し、そこから生み出された世界を生きる意識に支えられています。もちろん地域格差や歴史的な相違を過大に評価するならば、それらはとうてい同じ仏教ではないという見方を主張することも可能なのでしょうが、実際には〈帰依三宝〉を中心とする教義や儀式の骨格、概要、体系など、基本的な要素を捉えるなら、いずれも仏教であるというのが穏当であると、ほとんどの人々は判断しています。
 ところでこうした意識は、どのようにして生まれ、形成されてきたのでしょうか。実は現在のこの理解は、伝統世界の仏教徒たちの心にずっと昔から変わらずに存在し続けたのでもありませんし、時が進むにつれて自然に形成されたものでもありません。考えてもみましょう。例えばヒマラヤの奥地で暮らすチベット仏教徒が、自分たちの今生きている信念体系が、見たこともない東南アジアの平原に伝播した宗教や、極東の島国に流布した宗教と、実は同じ淵源を持つ一つの世界である、などという認識を自然に持ちはじめることがあり得るでしょうか。

 こうした認識が得られるためには、それに見合う、しかるべき情報の収集、整理、組織化がなされ、さらにその組織化された体系の中に、自らの現状を客観的に捉え直す作業を完了していなければなりません。つまり、古代インドに起源をもつ一つのできごと‐釈尊の出現と仏教の誕生ですが、このできごとが時間的、地域的に展開し、その展開図の中に自らの日常を収め取り、俯瞰することができて初めて、いま私たちが抱いている〈仏教〉という世界が成り立つのです。

 実はこの情報の収集、整理、組織化をなし遂げ、アジア各地の宗教を一つの体系の中に特定し得たものこそ、西洋近代における仏教研究の大きな成果でありました。

 現在われわれが無意識のうちに持っているこの〈仏教〉とい認識は、ある特定の世界に、特定の期日をもって生まれてきたものです。それは十九世紀前半、ことに一八二〇年代前後のヨーロッパにおいてだと言われています。

 アジア各地に散在する諸形態の宗教を、それぞれの地域内部から観察しても、そしてインドにおいて眺めても、現在われわれが認識する〈仏教〉はどこにも見えないのです。インドに仏教徒が存在しないのは研究の進展にとって本質的困難となるものでした。ではいったい〈仏教〉はどうやって今の姿を取るようになったのでしょうか。初めはそれらがいかなる宗教なのか理解し得なかった彼ら(引用者注:ヨーロッパの仏教研究者)は、まことに多年にわたる議論の紆余曲折を経た後、ついに十九世紀の初頭、具体的には一八二〇年前後に至って、ようやくある決定的な結論に至ることになります。すなわち、南アジアから中央アジア、そして極東アジアまでにわたって観察される宗教は、実は古代インドの一人の人物、シャーキャムニに起源を発する同一世界のできごとであることが確信されたのです。

 もちろん日本でも中国でもあるいはスリランカでも、その伝統内部において仏教は歴史的な人物である釈尊あるいはゴータマから始まったものだという理解はあります。けれどもその認識は現在私たちが手にしている〈仏教〉という世界とは異なっています。この問題は後ほど取り上げます。

 西洋世界に誕生したこの新たな〈仏教〉という概念は、その後確実に世界に広がっていき、ついには今日の研究者たちの〈仏教〉認識の基礎となるに至ります。そしてやがてそれは日本の仏教世界そのものに浸透しはじめます。なぜなら日本における仏教界の理論的指導者は、その多くが大学という教育機関によって知識を獲得してきたものです。そして大学で学ぶ仏教は、西洋世界から入ってきた仏教学が大きな比重を占めており、否応無く西洋に誕生した〈認識対象としての仏教〉を受け入れることになるのです。こうして結果として、研究者たちによる〈仏教〉という新しい認識の誕生が、その意味で〈近代仏教学〉の誕生が、現在の仏教そのものの理解に大きく関わることになりました。

 このようにして生み出された〈仏教〉には、どんな特徴があるのでしょう。それはまず、〈仏教〉の中心点に来るものが、歴史的実在としての釈尊の存在である点にあります。(中略)歴史的人物が仏教の中心に置かれたことは、きわめて重要なことでした。しかしそれに劣らす重要なのが、その人物はキリスト教を布教したイエスとは異なって、預言者ではなく一大思想家、あるいは哲学者として考えられたことでした。〈仏教〉ということばを西洋近代で初めて使ったのは一八一七年、ミシェル・ジャン・フランソワ・オズレーの『東方アジアの宗教の開祖ビュッドウあるいはブッドウに関する研究』という書物であったと言われています。その中に記されていることは驚くべき今日的な事柄であり、この講演の中心テーマでもあります。
 そこにおいてはまず、ブッダが神格化された人間でありけっして神そのものではないこと、もちろん俗人ではなく、偉大な思想家、哲学者であることが宣言されました。今述べたように、原始神々の世界、あるいは異端派のキリスト教徒などと考えられていたブッダが、キリスト教とも神とも無関係な人間である。それも合理的な思想を打ち立て推し進めた人間であると明言されたのです。こうしてブッダの人間としての実在だけを想定することによって、偶像神にまつわる長い歴史の曖昧さは見事に払拭されてしまいました。彼の言葉によりますと「無知や迷信によって祀られた祭壇を降りたブッダは素晴らしい哲学者であり、人類の幸福のために生まれた賢者」だったのです。

 オズレーの態度は、またしてもわれわれの現在の姿勢を先取りしています。彼は「現在残された文献は神話的な装飾に満ちているが、その資料からかならず哲学者ブッダに相応しい合理的・知的体系が抽出できる」と主張するのです。
 
 この研究態度から近代仏教学における文献中心主義がほとんど決定的となりました。

 さて日本がこうした仏教学を受け入れたのは、西欧において〈仏教〉とうことばが誕生してちょうど五〇年後、半世紀のちになります。(中略)日本が開国した時期は西洋の仏教学がほとんど盤石な基礎を固めていた頃に当たります。

 さてここで現在の仏教学の特質を考察するために、二人のわが国を代表する研究者を例として取り上げてみたいと思います。一人は和辻哲郎で、一人は中村元です。

 まず和辻哲郎ですが、彼の名著『原始仏教の実践哲学』は一九二七年に出版されています。西洋にBuddhismという言葉が生まれて一〇〇年ほど後のことです。彼はいったいどんな態度で仏教を解明しようとしたのでしょうか。研究の基本態度について序文の冒頭に彼はこう書いています。
我々はあの大きい思想潮流の源泉として一人の偉大な宗教家があったという以上にその人物の内生や思想を規定しようとは望まず、ただ我々に与えられたる資料の内にいかなる思想が存しそれがいかなる開展を示しているかを理解せんとするのみである。
 ここには、まさにオズレーの宣言したことと、まったく同じ内容が描かれていることがおわかりでしょう。オズレーが何を言っていたか。ブッダは哲学者であり、彼の〈知の体系〉が必ず残された資料から抽出できるというものでした。一一〇年後の日本で和辻も、期せずして同じ態度を取っているのです。仏教は思想であり哲学であり、ブッダはその「大きい思想潮流の源泉」に設定されるべき「偉大な宗教家」なのでありますが、その宗教家は「内生や思想」が、つまりは人物の具体的なありようが問題とされるのではなく、その人物によって展開された思想、そしてそれを記した資料の解読のみが、すなわち一定の〈知的体系〉が導き出されることのみが目指されるべきなのです。きわめて明確な方法論的自覚に基づいたこの試みは原始仏教研究史上において画期的なものであり、和辻はその仕事を見事になし遂げ、はっきりと新たな時代を切り開きました。
 それでも和辻のこの態度は、次の二つの点で看過できない問題を含んでいます。一つは彼がブッダの存在を展開した思想の原点としてのみ捉え、その存在自体の考察を閑却してしまった点、もう一つはブッダの展開した世界を、一つの〈哲学〉に制約してしまった点であります。

 しかしブッダの思想のみではなく、ブッダ自身がいかなる存在であったかに関心を持つ人にとって、つまり何よりも〈信仰者たち〉にとって、しそうないようとブッダの存在とは切り離すことはできません。体系的な思想が何であるかなど全く分からないまま、生活の中でブッダのひと言に接するだけで人生観を変えた人々がいたという事実は、ここではまったく葬り去られてしまうことになります。したがって和辻の試みを多少極端な明瞭さで表現するなら、それは〈信仰者から独立した知的体系の仏教世界〉を日本の仏教学会に打ち立てたものであったと言うことができます。

 第二の問題も劣らず大切です。和辻は仏教がきわめて高度な哲学であるという意味でのみ思想であることを結論しました。そして、例えば律蔵に書かれている内容はあまりにも低級でとうていあの崇高なブッダと本来的な関係があるとは思えないとして退け、また経典に書かれていることであっても、たとえば縁起の解釈に輪廻を持ち込んだ理解などは、やはり同様の理由で考察の対象から外してしまいました。それは文献学的手続きからのみ帰結された結論というよりも、あらかじめ前提とされていた内容です。この第二の問題は、一見無関係に思える第一の立場とは実は一点で結びついています。それは仏教が〈信仰者を備えた宗教〉とうより、〈高度な哲学〉であるという理解です。

 和辻の作業を踏まえるとき、中村元の〈ゴータマ・ブッダ〉論は、和辻が考察の対象から外した仏教思想の源泉としてのブッダに、その〈内生と思想〉とを復活しようとした試みとみることができます。彼の方法は〈伝説的空想的要素の多いもろもろの仏伝の類を意識的に遠ざけ〉て〈歴史的人物〉としてブッダを描こうとするものでした。これもヨーロッパにおいて発見されたブッダ像と見事に重なり合います。それは神話から切り離されたブッダであり、曖昧さを払拭した偉大な思想家としてのブッダであります。彼にとって描かれるべきブッダは、宇井伯寿や和辻哲郎が提示した思想を担う担い手として相応しいブッダの姿でありました。それは知的な高度な思想の源泉として、何よりも神話世界とは訣別した理性世界の体現者でなければなりません。オズレーの言う「無知や迷信によって祀られた祭壇を降りたブッダは素晴らしい科学者であり人類の幸福のために生まれた賢者」だったという理解は、中村がその著書の中で目指しているブッダに生き写しのイメージであります。

 けっしてあらゆる研究がこの二人の碩学の態度に収まってしまうわけではありません。しかしそれでもこの態度は、現代日本における仏教研究の代表的なありようと言ってもいいのではないでしょうか。この二人の学者の作業を見たとき、いずれもが近代西洋において発見された歴史的ブッダ、そしてその思想としての仏教という認識の枠の中にうまく収まってしまいます。しかしその反面、わが国において伝統的に存続してきた仏教理解には必ずしも馴染まないのです。

 仏教界の理論的指導者は同時に仏教研究者であることが少なくありません。また各宗派の僧侶も大学という高等教育機関においてその教育を受けます。そこにおいて〈仏教とは何か〉という認識を作り上げる作業が行われるわけですから、仏教学のありようが仏教そのものに影響しないはずはありません。そしてブッダが何よりも理性的な人間であり、その経典には本来高度な哲学的思索のみが展開されているべきであり、一歩進んでその他の要素は仏教ではないと判断すべきならば、今日存在する仏教の内容の相当な部分が退けられなければならなくなるでしょう。少なくとも儀礼としての葬式に携わり、輪廻を想定することばを語り、歴史的人物であるブッダとは直接関係しない大乗経典を読む僧侶は、仏教徒の仲間入りはできないことになります。

 問題は大きく分けて二つあります。一つは西洋近代がブッダという存在を神とは切り離し、一人の偉大な〈哲学者、道徳家〉と捉えるところに発しています。もう一つは、これと密接に関連しますが、仏教の意味を〈インドという起源〉に強く限定してしまった点です。

 ブッダを〈哲学者、道徳家〉と決めたことによって、研究の前提として次の二つのことがあらかじめ決まってしまっています。一つは仏教は哲学であるため、解明する材料は特定の文献に限られること、もう一つはその文献から読み取られるべきものはあくまで哲学であり、理性を超えた神話でも、理性以下の日常でもないこと。

 このため、先に述べましたように、近代仏教研究においては文献偏重的態度が強固になりました。

 伝統的世界の仏教徒の場合、文献に向かいながらも彼ら自身は文献以外の広い仏教世界に包含されています。仏教徒である以上、一定の戒律に従い、儀式を守り、礼拝をし、さまざまな実践をするわけですから、生活自体がさまざまなレヴェルの表現に巻き込まれています。文献の世界はあくまでその中の一つとして存在し、文献外の世界との関係の中でその意味を発揮し続けてきたのです。ところが西洋近代の仏教研究に生まれた文献主義は、そうした土台を一切捨象し、生活の場から切り離された研究に向かいました。そもそも仏教徒でない彼らには、仏教という生活に包まれた文献のありようを想定することは容易ではありません。

 こうした点は現代の日本の仏教学者も置かれている状況が似ています。なぜなら学者であるためには、必ずしも仏教学者である必要はありません。したがって文献研究が仏教の文献外の世界に巻き込まれている必要はなく、そこでは文献のみの価値を周囲から自立させておくことができるのです。

 仏教が何よりも高度な〈哲学、道徳〉であるべきだという態度からは、研究の結果として目指すべきものが〈神以下で日常以上のもの〉に限定され、それに応じて研究者たちは、文献の中でも取り上げるべきものと捨て去るべきものの選択へと向かうことになりました。

 例えば和辻の原始仏教思想の研究では、当初は純粋に知的な思想であった原始仏教が徐々に民衆化し低俗な要素を含むことになったという筋を立て、それを歴史の実際だったかのように前提としています。けれどもきわめて高度な思想を持った仏教者でさえ、きわめて〈低俗な〉規定をなす律蔵には必ず従って生活をしていたということの方が、はるかに歴史的事実であろうと思います。歴史的現実は複数の要素を持って描かれるべきあり、単一の次元に還元しきれるものではありません。

 第二の大きな問題(中略)、仏教を〈インドという起源〉に特定する態度は、一口に言えば、仏教研究において起源の意味を表面化、あるいは単一化し、その起源からの正当性を重んじるという傾向を定着させました。

 もし現在までに展開した仏教世界が、その単一化された起源の意味によってすべて説明できるというのなら、仏教研究は本来インド仏教研究以外に、更には原始仏教研究以外に意味は持たないことになりましょう。
 近代仏教学はまさにこうした傾向を持っており、しばしば仏教の意味を起源のインドからの距離において計ろうとします。それは時に〈正統な仏教〉とい観念に研究者を誘導し、研究者はインドにおける歴史的ブッダの〈真説〉を確定し、そこからの遠近関係によって本来の仏教であるものと仏教に非らざるものとを確定しようとします。近代仏教学によって建てられた起源としての仏教は、理性的ブッダによって説かれた哲学ありますから、結局はこの理性的哲学に合わないものが非本来的仏教と見なされることになります。

 行き着くところの展開は、純粋なものの不純化、あるいは高級なものの低級化の流れであることを免れ得ず、せいぜい評価されるものがあるとすれば、それは明かされた起源の精一杯の模倣ということになります。
 こうなりますと、各地、各時代に展開した仏教のそれぞれの個性を積極的に仏教として認め、研究の対象としようとする試みは、きわめて現れにくくなります。起源が純粋であり、あとはせいぜいその模倣か、ほとんどの場合は不純化や堕落でさえあるとすれば、今世界に存在している仏教は、価値的に起源以下のものであるか、あるいはもはや仏教ではない何かでしかないからです。

 じつはわれわれが最も考慮しなければならないのはこの点でありまして、すでに一九世紀西洋において明かされた〈仏教〉の起源の意味は、仏教の一つの起源の姿ではあっても、そこにすべてが尽くされたわけではないと考える必要があるのです。起源によって現在が照らされているという構造を前提とし、未だに仏教の起源の意味が不確定であるという立場に立つなら、それはとりもなおさず現在の仏教の起源の意味が明らかになっていないことになります。起源からの意味が確定されていない世界とは、いまだ過去として完結していない世界であり、現在も意味形成途上にある世界であります。つまり、近代仏教学において明かされた仏教の起源の意味を一度疑問に付すということは、仏教世界を過去のものとして、すでに閉じた世界として捉えることを止め、現に生まれつつある開かれた世界として理解し直す試みなのです。
 そうなれば同じ仏教文献を相手にするにしても、その向かい合い方が変わって来ます。例えばある経典を読むとき、その読み方としては、それが過去のいかなる状況において生まれものかを探るという読み方もありますが、一方で現在いかに機能しているかを捉えることも必要になります。仏教がいまだに生み出されつつある一つの過程であるとすれば、経典の読み方も今造られつつある者と考えなければなりません。テキストには、過去の歴史において生み出されてきたという側面と、現に機能しつつあるという側面とがあるのです。実はこの二つの要素が共存するところにこそ、宗教世界一般を成り立たせる〈解釈学〉の生まれ出る余地が与えられるのです。(中略)テキストが現に機能しつつある世界とは、テキストの意味を生き続けている人々の世界であり、わかりやすく言えば今を生きる仏教徒の世界にほかなりません。

 実際の仏教世界において、〈法〉も〈僧〉も〈仏〉とともに成り立ってきたものであり、その〈仏〉は過去の歴史で存在が完結したゴータマに限定されているのではなく、仏教が存在している以上何らかの形で現に機能し、はたらき続けている性質のものです。この〈仏〉のはたらきが実感されるのは、認識としての〈仏教〉学の場においてよりも実際の仏教の場において、つまり仏教との世界においてでありましょう。実は近代仏教学に抜け落ちていた視点は、この〈仏〉を相手とすして仏教世界を生み出す〈信仰者の視点〉と言えるのではないでしょうか。
 この視点を意識した場合、研究者は二つの態度を取ることができます。一つは信仰者内部の視点に立ってみること、一つは信仰者の外部に立って彼を観察することです。これはいずれも仏教の研究にとって重要なものです。近代仏教学は往々にしてこの二つのいずれでもない第三の立場、すなわち信仰者のいない世界に立っていたように思います。

 実際に信仰者の存在を取り入れた仏教研究をなそうとすれば、現代の仏教徒を見定め観察した上で古代に遡っていくという、近代仏教学が出発点において行った作業を、より広い視野で再度やり直さなければならないことになります。(中略)そのためには現代を視野に入れた諸学問、文化人類学や宗教学をはじめとした隣接諸学問の手助けを借りることも不可欠となってくるでしょう。私たち自身はそうした学問を主要な方法とするものではありません。しかし、その成果に敏感であり、それによって自らを照らし直すことは可能であります。仏教という世界は、いつも変わりゆく現実と、変わらぬ歴史を超えた真理との関わりの中に保たれてきました。あるいはこの関わりを保つ努力こそが、仏教世界を作り上げていると言えるかもしれません。ここに実は、仏教の中心に位置すべきブッダの存在が、歴史的でありながら超歴史的でもある所以があります。

下田正弘「神仏習合という可能性‐仏教研究と近代‐」『宗教研究』81(2) 2007年9月

〈論文要旨〉神仏習合の裏面の問いとしての神仏分離には、近世から近代にかけて中央集権国家を構築した日本の歴史全体が反映する。仏教の迫害と変容の基点となった明治維新をとりまく暈繝には、権力支配の構造の変容と諸知識体系化の歴史が重なりあう。経世済民の思想、国学の進展、一国史編纂の企図は一体化して明治国家の理念を形成し、仏教を非神話化しながらあらたな神話を完成する。この構造全体を読み解いて未来をみすえるとき、生活世界に基礎をおく解釈学としての仏教学の構築が強く望まれる。

 かつて仏教が活動した第三の領域が消失したとき仏教は世俗内存在となった。もちろん近世以前であっても仏教は常に時の権力と調和しなければならなかったのだから、十全な意味で世俗外存在だったわけではない。だが近世以前にあっては、たとえば仏教会の新興勢力を弾圧しようとしてあらわれるのは世俗政権そのものではなくそれとむすぶ旧勢力や対抗勢力仏教界というすがたを取っていたことを想起するなら、仏教はいまだ自立した原理のはたらく領域にいたとみてよい。けれども寺を直接に壊滅させる信長の弾圧や寺社組織の徹底した改編を実行する徳川の統制は異なっている。かれらは‐ゆいいつ公家、朝廷の長である天皇をのぞいて‐独自の価値が成り立つ領域を地上から一掃し世俗世界に一元化した。全国をすみずみまで網羅し、あらゆるできごとを同一の次元で漏らさず把握する、精度は高くないが〈一望監視システム〉を構築した。

 中世のように個々の伝統が閉じて自存し、おのおの独立して活動する領域が与えられていれば全体を俯瞰する知は生まれえない。近世になって元政の領域が一元化され知を閉ざしていた伝統が解放されたとき、さまざまな伝統的知が一覧できる環境が整った。

 さまざま隠喩の森に分け入ってことばを精査した国学と、みずからの来歴をひとつの物語として描く国史学とは、幕末期の社会的混乱にあって社会全体のアイデンティティを表現する主体となった。二つの学は現世へと越境し、実証的調査資料を根拠とする経世の学に重なりあった。国学国史学とは現実性のいくばくかを経世の学から手に入れ、経世の学は存在の意味づけを二つの学が提供する隠喩的言辞から手に入れた。尊皇攘夷という政治運動に結実し、明治維新を準備する理念形成の言語戦略に、もはや仏教が入り込む余地はなかった。

 神仏分離に託された明治政府の深謀遠慮は、それから七二年をへた昭和一四年(1939)、宗教団体法の制定によってその正体をあらわにする。あらゆる宗教はその信仰理念までもふくめ翼賛体制に参集しなければならないというのだ。この結末にいたったのは明治政府の誕生から七旬の歳をへたがための変節の結果などではない。そうではなく、この政府の誕生が近世までの世俗政権とは一線を画した超世俗国家の出現だったことの歳月をへての再確認である。
 近世に整えられた世俗一元的支配機構はその内部にさまざまな組織や知識のシステムを保持していたが、明治政権のにない手たちはこの政治機構に幕末から顕在化する国の自己言及的概念である〈天皇〉を重ね合わせる。ここに生まれたあらたな〈天皇=国家〉は人文、政治、経済、社会、あらゆる知識体系をうちに呑噬するひとつの巨大な隠喩となった。近世までの世俗のながれに逆行した世俗政権の再神話化がここに達成された。
 
 では仏教研究者たちは〈概念〉となり神話となったこの〈天皇=国家〉にたしていったい何をなしたのか。第二節で述べた対神話化という課題にいかに対処したのかという問いである。結論を述べるなら総体としては無力だった。それはおそらくこんにちにおいても変わるところがない。その最大の原因は、近世から近代への移行にみられるひとつの事態の進行‐すなわち体系化された全体知の整備、下位の諸システムを内包した支配制度の組織化、これらにたいする隠喩の宝庫から取り出された同一〈概念〉の付与と実体化という、国家総動員で進められる壮大な冀図‐を解明することがないまま、限定された方法にみずからを閉ざした点にある。
 日本の近代から現代にかけての仏教研究がかかえる問題点についてはこれまでもしばしば取り上げたので再説はしないが、ひとことにまとめるならそれは歴史主義的立場に立ち非神話化を進めてきた。近代ヨーロッパから取り入れられたこの方法は研究の題材を過去のインドのテキストに閉ざすので日本に現存する仏教は見えなくなる。生きた仏教の存在が必要ない西洋のキリスト教世界ならこの方法で何の問題もない。ところが神仏習合して一千年を超える歴史をかかえ、あまつさえ神仏分離という未曾有の経験をへて危機に立つ仏教をかかえた日本にとって、これはあまりにも貧困すぎる方法だった。
 なかんずく非神話化とは伝統のなかに機能してきた隠喩を解体する作業である。仏教研究者たちが得意になってこの作業を遂行してゆく裏面において、明治国家は着々と〈天皇=国家〉なる〈概念〉を構築してゆく。〈概念〉の形成はひとつのことばに複数の意味を籠めそれをより高次ものにしあげてゆくが、非神話化はひとつのゆたかなことばを一段と低い貧困な部分に解体する。双方まったく逆向きの仕事をすすめていったのである。
 ミレニアムにおよぶ歴史のなかに伝統として定着しながらも明治維新という政変のゆえに瞬時にしてそこから排除された仏教は、本来なら新政府の進める冀図をみずからあばくことのできる立場にいた。ここで仏教知識人たちのほとんどがアカデミズムにおける文献研究に道を見いだしながら現実の仏教を研究の対象としなかったことは、日本の思想界あるいは歴史にとっておおきな痛手となった。
 
 それにもかかわらず仏教学が推し進めたのは仏教のさまざまな隠喩の解体作業だった。いったん神仏分離によってとりかえしのつかないほどに解体させられた仏教をさらに文献内部においても解体しようとするのだから、ほとんどの存在は消え失せてしまうだろう。
 
 神仏分離を経験した仏教界は明治国家によって伝統的意味を解体され、くわえてあらたな神話を突きつけられているのであって、その神話をあばかずして仏教にとってもっとも重要な隠喩である仏をかんたんに非神話化してしまうなら、仏教にとっては泣き面に蜂である。
 袴谷憲昭や松本史朗らによる批判仏教、ブライアン・ヴィクトリアによる鈴木大拙批判、耳目を惹きつける仏教をめぐる言説はいずれもが既成仏教にまつわる主要概念や象徴的人物像の解体に向けられ、対神話化の課題にはついに気づかれていない。むしろ仏教研究者の内部から生みだされる近年の仏教批判は、正邪を弁別し、正統と異端を創出し、虚偽を暴いて糾してゆくという論調にみち、既存の仏教に向かう姿勢において、神仏分離廃仏毀釈をなすものたちと驚くほどに親和的である。
 もちろんこれらの研究はそれぞれの領域で貴重な貢献はしているものの、その基本姿勢としては、すでに存在するものの意味をまずおおきく減じたうえでいくばくかをつけくわえようとする。この付加される部分に研究者の仕事が確認されるのだが、けれども結果として存在していたものの意味全体が減じられているとするならそれは十分な仕事になってはいない。ここでは解体を仕事と思ってはならない。というのも〈天皇=国家〉なる〈概念〉は歴史の変容ととともにあらたな意味がいまだに付加され豊富になりつつあるのだ。仏教の解体はかたわらで進むこの隠喩の構築をきわだたせる奉仕作業でしかないだろう。

 求められているのは〈天皇=国家〉とは異なった〈概念〉、すなわち社会的あるいは文化的意味の複合体を抱擁することばをもとめ、ゆたかにする作業である。伝統の中心にいながら明治国家から排除された既成仏教がこの〈概念〉を生む最有力候補のひとつだったことに異論はないだろう。隠喩が現実の意味をひとつ過剰にするものであったことを想起するなら、いま必要なのはさまざまな隠喩を解体するのではなく再生することである。
 その素朴で強力な道、それはあらたな〈神仏習合〉の創出だろう。もはや相容れなくなったものどうしが変転する歴史の隔たりをへてふたたび相手を認めあうなら、そこにはかつてなかった意味が誕生する。他者を受け入れて新たな自己を見いだすことはより豊穣な意味の産出である。世界に意味が付加されることによって、それまで不動に思えていた既成の価値体系はより豊かな方向へと揺らぎはじめる。

 あらたに神仏習合が実現するためには、仏教神道ともそれぞれがみずからに固有の伝統的姿勢をたもちつつ、同時にほとんど制止したすがたしか見えなくなった相手と〈ともに動く〉ことが必要となる。特別な方法は必要ない。生活世界において小さな単位で寺社が自主的に協働しさえすればよい。動けばかならず景色は変わる。意識が生活から遊離し、政治的であれ教義的であれ、イデオロギーに閉ざされたとたんに、じっさいには存在していない問題が障害として立ちはだかる。それは存在しないのだから努力によっても解きようがない。先入主(ママ)を排して相手に向き合うとき存在する問題は見えはじめ、努力をつづけるならやがて解決の道は開けてくる。そのときにはもはや寺社や神仏を習合させる必要さえなく、それぞれはすでに実現されていた一如に出会いなおすだろう。なぜなら歴史のなか神仏が共存した時間は別離した時間とは比較にならないのだ。

 仏教民俗学や宗教人類学などから提供される貴重な研究の諸成果を活かしながら直面する抜き差しならぬ問題を解決してゆくためには,確固とした理論的土台作りが不可欠なことであり、それには生活世界に根ざした解釈学的方法はもっとも有効である。
 諸体系を内包した支配制度の組織化とそれに対応する諸知識の体系化を図った日本の近代化における悲劇は、あらゆる存在が例外なく〈天皇=国家〉というあらたな〈概念〉の下位に一義的に意味づけられるところから起こった。全体へ編入しようとするこうした力に強さを備えていない個が抗してゆくためには、生活世界に根ざしつつ世俗の支配機構から自立しつづける中間共同体の存在が不可欠である。背後にそれぞれ固有の歴史と伝統をかかえた寺、社が、分離されたがために起こった不幸な歴史をともに背負いながら未来にむけて協働しはじめるとき、そのときこそはこの自立した共同体の出現となるだろう。神、仏をともにそのあるべき場所に、世俗を超え出た世界に帰さなければならない。世間をささえるものは世間ではない。

下田正弘「仏(ブッダ)とは何か」『駒澤短期大学仏教論集』第5号、1999年10月

 さまざまなヴァリェーションがある仏教において、最低限の共通項は何かと問われるなら、それは「三宝の存在」であると考えられること、それだけを申しあげておきましょう。
 仏宝、法宝、僧宝の「三宝に帰依をする」ことによって人々は仏教徒になっていく。時が経ち、社会宗教となった段階の、生まれながらの仏教徒でない限りは、この入信は世界各地の仏教で共通する出来事でありましょう。
 そうしますと、帰依の対象である三宝は、仏教徒にとって何らかの形で「存在」していなければなりませんね。ありもしない世界に帰依をすることなど不可能です。では三宝が存在するとは、どんなことを言うのでしょう。

 あるものが存在するとは、なんであれ実際に「影響を与えること」になる、こう考えてよろしいかと思います。神、愛、自由、解放、平安、故郷、旅。何でもよろしいのですが、例えばこうした抽象理念であっても、人の心に中を訴えかけ、実際に影響を与えるとすれば、その観念はその人にとって「存在する」ことになります。周囲に転がっていて、はっきりと見える、ありふれたものよりもはるかに大きな影響を与えるとすれば、それはより明らかに「存在する」ものとなります。

 現在の学会の理解に従えば、ブッダはなによりも歴史上の実在であり、開祖であり、人間です。そうである限り、すでに亡くなった人を問題にしていることにならざるを得ません。しかしこの理解は、三宝が存在する、三宝に帰依をする、と言う時のブッダ理解を十全に説明してくれてはいないようです。

 現代の仏教研究者の間には、ある強固な観念が存在します。それは、最初は部通の人間だったブッダが、後世の仏教徒の手によって徐々に神格化され、やがては神話的装飾に満ち溢れたブッダ観に至る、というものです。これを人間ゴータマの「神格化deification」「神話化mythologization」と呼びならわしております。 
 この理解に立って〈実証的な〉結果を求めようとする研究者たちは、神格化される以前の「人間としてのブッダ」の探求に向かいます。「脱神格化」、「脱神話化」と呼ばれる方法によって、つまり現在残された文献から、徐々に大袈裟な装飾を取り去って行けば、やがて本来存在したはずの「純粋な人間ブッダ」が再現できるはずだ、と考えて仏典に向かうわけです。

 「ブッダをめぐる記述を当時のインド世界内のメタファーとして読み取る」。この態度と真っ向から対立するのが、ブッダを「理性的人間」であると前提し、その理解と矛盾しない記述を「本来のもの」として採用し、それに沿わないものを「後代の神格化」として退けようとする、現代の研究者が陥りやすい態度です。

 ある種の古代の学問は、民衆ときわめて近い世界にいることがしばしば指摘されます。殿堂に閉じた学問ばかりでなく、市井に開かれた学問が存在するわけでして、後者においては実際に民衆を動かせないならば、その存在意義はなきに等しいものです。ブッダの披露する学問の一部は、明らかに後者の立場に立つものでありまして、単に専門家に向けた、純粋に思索的な内容ばかりを扱ったものとは考えられません。われわれの言う理性では超えられない壁、むしろ非合理的な世界さえを取り込む説得力を持つことによってこそ、民衆ははじめて動くのですから。
 こうした問題を考慮した上で、さらに前に述べた初期仏典のジャンルの多様性を考え併せるなら、理性的なブッダに焦点を専一に合わせて仏典全体を読み解くことの危険は、十分に予想されるはずです。

 仏教徒たちは、歴史的ブッダによって開かれた教えを、(引用者注:ブッダ入滅の)その後にみずからの責任において展開していきます。生身のブッダは消え去ってしまいましたが、彼らにとってはブッダの入滅は、ブッダの消滅を意味しませんでした。言うなれば、ブッダは弟子たちの中に内化されて存在し続けました。外のブッダが、内のブッダに変わりました。
 ここに言う「存在」とは、すでに述べました「影響を与え続けること」という意味での存在です。人物としてのブッダはいなくなっても、自分に与えられた影響は存在し続けています。彼らにとってブッダは、この自らの内に存する運動そのものでありましょう。
 死を選ぶはずだった者がブッダに出会い、その力に救われたことによって今現に生きている。自らが存在しつづけていること、このことこそブッダの力がいまだに働きつづけている証拠であり、それはブッダが存在し続けていることの証でもあります。彼らにとってブッダとは、この力そのものにほかなりません。相手とする目に見えるブッダの存在がないからこそ一層、ブッダは自らの内に残された運動に求められることになります。

 このように見てきますと、ブッダは特定の歴史上の存在でもあり、また特定の歴史を超えて存する実在にもなります。

 経典は「如是我聞、一時仏在・・・」から始まります。経典の冒頭において、伝承の中で先ず確認されなければならないのは、「自己の存在」と「ブッダの存在」であります。この二つは同時に存在が確認される事柄となっています。この確認は経典の成り立ちにとって重要な要素です。この経典で語られるブッダは、かつて歴史上の特定の時期に存在した歴史的ブッダですが、それが自分を通して現在に呼び戻されているのです。
 口伝の世界では、ことばの語り手は重要な意味をもちます。口伝である経典は語りを除いては存在しませんから、ナレーターが語り始める時に一頁が始まり、語り終わった時に経典の最後の頁が閉ざされたことになります。語り手は経典そのものを成り立たせていますから、、ブッダのことばをも成り立たせています。より正確に言えば、過去のブッダのことばを現在化しています。
 これが「伝承」の意味であります。過去は現在化されることがなければ単に過ぎ去って影響を持たせない死骸に過ぎません。伝承は、死骸を受け渡すことではありません。生きたものでなければ、伝承する努力は意味をなさないでしょう。こうして初期仏教の経典においてもすでに、聞き手と語り手が一つになって、ブッダを求める構造ができあがっているのです。

 これまで見てきましたように、歴史的ブッダであるゴータマに出会ったわずか一握りの人たちは、その後の膨大な数の仏教徒たちに、ほかならぬブッダの存在を伝えつづけました。後の時代の人々にとっては、ブッダに出会うことは、ゴータマという肉体に出会うということであろうはずはなく、分かりやすく言えば、伝えられる実感、感動に出会うことであります。それは、伝え聞いた過去が、現在として、現存する自己において蘇ってくることであり、そのとき、ブッダは、ゴータマに限定されない、「より根源的な名前を持つもの」として表現されはじめます。これこそが、伝統仏教に見られる過去仏思想であり、あるいは大乗経典に現れるさまざまなブッダであります。

 ブッダが歴史的存在の釈尊でもありながら、かつ、その根源となる真理そのものであり、また現在の歴史として現れるブッダでもあるとするなら、これこそは各地の伝統の中で、仏教徒たちが理解してきたブッダそのものではないでしょうか。歴史的ブッダ、つまり釈尊の存在を認めつつ、人々が他の新たなブッダをも同様に認めることは、少しもおかしなことではないのです。
 このことを認めさせない力として働くものは、いったい何でしょうか。ブッダが歴史的存在であったゴータマのみであり、他のブッダが捏造物に過ぎないのなら、ブッダの継承や存続は意味がありません。そこでは法・僧の二宝が存在していればよいのでああって、仏の存在は意味を持たないはずです。近代仏教研究は、ことにわが国において、事実上、三宝ではなく二宝の存在を立証してきたように思います。
 こうした強固な態度を産み出してしまう原因の一つは、「仏教の起源に純一なものを措定したい」という欲求であります。その純一なものとは、ここでは具体的には「理性的人間としてのブッダ」を指しますが、複雑で混沌とした存在を、研究者たちはなにかしら〈得体の知れないもの〉、ときに〈いかがわしいもの〉として敬遠する性癖があり、できるだけ単一で、純化された存在を求めるようです。
 ところが結果として伝わった仏教は、けっして単一、純一なものではなく、むしろ説明がつき難いほどに複雑多岐な様相をしています。この現象を前にして、研究者たちは、「その中には、正しいものと間違ったもの(ママ)混在しているからだ」と考え始めます。そして「正しい仏教は同質の正しい起源に、間違った仏教は同質の間違った起源に発しているはずではないか」と理解し、仏教の起源にあるブッダは、純一な、無誤謬な、理性そのものとでも言うべき人間として仮定されてしまうのです。

 まずわたくしたちは、資料に現れた複雑なブッダをめぐる叙述を複雑なままに記述し、そして今度は、その複雑さができるだけともに収まる、新たな次元を模索していかねばなりません。もしその作業が成功したなら、そのときは、釈尊とさまざまな大乗の仏が共存するに至った、仏教の歴史の訳柄が、手に取るように明らかになるかもしれません。

【真読】ちょっといっぷく(五)反省

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とういうわけで本編『真俗仏事編』巻四「送終部」を読み終わり、次回からは巻五「雑記部」へと移ることになる。これまでの例にならって本文の文脈からは離れて一息つくのがこの幕間だ。
 この連載やそしてその元になっているfb「仏事習俗アラカルト」でもいくどか表明してきたことだけど、ここのスタンスというのは「正統な仏教からはちょっと外れたこと」というやや自嘲めいた思いが少なからずあった。ここでいう「正統な仏教」というのは、おかたい仏教学の先生達が専攻している文献資料を中心にした教理的研究というものを漠然とイメージしていて、それは日本仏教の宗派単位においてもたとえば曹洞宗の場合であれば、『正法眼蔵』なんかを対象とした教義研究などがそれで、そんな「中心的なところ」では扱わない(=ちゃんとした問題と認識されない)葬送や雑多な信仰に関わる仏事習俗といういわば「周縁的なところ」を主な関心領域にするんだ、というスタンスだ。そしてそんな「中心的なところ」を対象とする学問が(正統な)仏教学で、「周縁的なところ」を対象とするのは宗教学・文化人類学民俗学などだ、という思い込みがあった。
 だが近頃そんな前提を反省をこめて見直してみようと思っている。そのことをこの機会に白状しておきたい。今述べたように、中心と周縁という対比に、仏教学と非仏教学という対比を重ね合わせてよいかどうかということを問い直してみたいのだ。
 このきっかけになったのは下田正弘「生活世界の復権」(『宗教研究』№333、2002年9月)という論文だ。〈※15年も前の論文に今頃気づいている自分の不勉強さが恥ずかしい〉
 下田氏は『涅槃経』を主とした古代インド仏教文献の研究者だが、この論文は仏教学全体のある傾向を批判的に指摘し、新しい仏教学の方向性を提案しているものだ。「論文要旨」の一部を引こう。

 近代仏教学は(中略)いつしか仏教を古代インド文献の中に閉ざされた過去の現象として捉え、歴史的現実の中に生成変化する仏教を考察の対象とすることがなくなってしまった。

 この指摘は論文本文の中で詳しく展開されるのだが、たとえば次のような記述にはこのサイトに関心を寄せる方であればきっとうなづくのではないだろうか。

 たとえ文献研究の意義、さらにその中でも教義や思想研究の意義を認めても、それのみで成り立つ宗教があり得ないのも事実であり、何よりも教義の意味はそれが具体的現実の中でいかに働くかによって決定されるという側面を忘れてはならない。さらに長い歴史的現実の中に一歩踏み込めば、教義が現実を変えるばかりでなく、現実によって多少なりとも教義が変えられることも決して珍しくはないことに気づかされるはずである。こうした要素を漏らさないで考察していくためには、思想や理念としての仏教と、生活経験の中の仏教とを一つの企図において把握する試みが必要となる。
 ところが近代の仏教研究においてはこうした自覚が欠如し、研究者たちはほとんど思想研究のみを仏教研究として認める一方で、その思想の背景をなす生活環境や、あるいはその環境の中で息づく仏教は研究の対象から除外し、宗教学や文化人類学など他の学問分野に委ねて関心を抱かない。

 さらに次の指摘はいっそう鋭い。

 「真正で」「正しく」「本質的な」仏教を生活世界からすっかり切り離した上で、思想的、教義的なテクストの中に求めていこうとする態度は、今日の仏教研究の底流にある態度である。こうした研究を推進する研究者たちは、仏教を過去のテクストの中に閉じ込めた上で、さらにその時代の生活世界から切り離すという二重の操作を無意識に行っていることがわかる。しかし言うまでもなく実際の仏教は、変わり行く歴史的、文化的な状況の中に巻き込まれながら今日まで存続しつづけたのであるから、この二重の操作はそのまま二重の過失に繋がってしまう。
 
 もう一箇所引いておこう。

 この流れを素直に引き継ぐわが国の仏教研究は、現在のわが国の仏教を相手とすることはほとんどなくなってしまった。現代の仏教は宗教学か民俗学か、いずれにしても仏教学以外の領域の問題である。そして現在を相手とする学問領域から浮かび上がる仏教は、現在に巻き込まれているという意味で常に生活世界に存在するものであるから、過去の、理念的なテクストにのみ仏教を結晶化させる仏教学の立場から眺めたときには、多様で、曖昧で、不純な姿をした者に映ってしまう。そしてそうした姿の仏教は、ただそれだけで仏教学の相手とするには値しないものと判断されるのである。

 以上は論文のほんの一部でしかないのだが、私がこの紹介を通して伝えようとする意図はおわかりいただけるのではないだろうか。
 このサイトで主な関心領域としているのは、ここに引いた「近代仏教学」が「相手とするには値しないもの」と言える。それは自ら認じているところであったのだが、そうした認識自体がこの論文の指摘する近代仏教学の過失の上に成り立っていたものだということをここでしっかりと反省しておきたい。その上で多様で曖昧で不純な姿と評価されることの多かった「仏事習俗」を、仏教学の領域内の問題として取り上げていきたい。

 

法具の密教的意義について その4

「金剛和讃」の密教的解釈については「その3」で紹介した通りである。さらに詳しい解説に及ぶことは、他宗・他流の奥義に触れることにもなるので、このような半公開的な性格を帯びたWEB上では控えておきたい。金剛界曼荼羅及び成身会については図像を利用したわかりやすい解説が様々な場で提供されているのでそちらを参照いただきたい。ここでは鈎索鏁鈴の四摂菩薩が、実際の詠歌法具の鈎杖・杖索・鏁房・鉦及び鈴に比定されていることを確認しておけばよいだろう。
 すでに触れたように、以上の〈法具=四摂菩薩〉という発想は、昭和4年の金剛流流祖(流祖となるのはこの後だが)・曽我部俊雄師によるものであった。同師はこのほかに「金剛流詠歌道」の中で、詠唱における「身口意三密」も重要性も強調している。いわば身体による所作・作法、言葉(口)による詠唱、心(意)における観想のことで、これは言うまでもなく真言宗における「三密加持」を基礎としている考え方である。
 「金剛流詠歌道」が昭和8年に『大師主義三十講』の一篇として刊行されたことはすでに述べた。ここに言う「大師主義」とは、昭和9年の弘法大師空海一千百回忌を機に、主に真言宗教団から発信された弘法大師信仰を流布展開するための布教教化活動であり、一種の宗教運動と言えるものであった。ほかならぬ『大師主義三十講』の刊行がそれだが、他に多くの事業・活動が展開された。曽我部師の「金剛流詠歌道」の主唱もまたその一つであり、昭和6年に発足する密厳流遍照講もまたそうした影響下にあった。密厳流御詠歌の教義的意義づけをなした岩村義運師『密厳流詠讃要訣』という著書が昭和9年に刊行されたのも、まさに大師主義運動の一環としてであった。

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岩村師『密厳流詠讃要訣』に「鈴鉦について」という見出しの一節がある。そこに記されているのは次の文章である。
 「鈴と鉦とは、吾が真言密教には特に深い関係のある楽器で、今では詠歌道に無くてはならないものである」
 この一文に続くのは、実際の詠唱上における鈴鉦の利点であって、金剛流のような精緻な事相的解説は見えない。だがこれは密厳流においてはそのような解釈をしないということを物語るものではないだろう。「吾が真言密教には特に深い関係のある」という表現に明らかなように、金剛流所伝の法具の解釈を岩村は充分に踏まえている。そのうえで、すでに金剛流に詳細な解説があるので当流では贅言を要しない、という含みと受けとめるべきだろう。このたび密厳流遍照講事務局長・川上秀忍老師にこのあたりのことを伺う機会を得たが、川上師のお話しでは、金剛流に多くの基礎を置く密厳流においては、法具の事相的理解や詠道の真言宗的な解説において、金剛流から逸脱するものではなく、密厳流の独自性を唱えるような解説書はほとんどなく、かえって密厳流の指導現場において金剛流所伝ものを参照することは少なくない、ということであった。このことはおそらく金剛流・曽我部師と、密厳流・岩村師との関係にも当てはまるものと思われる。無論、金剛流と密厳流の違いは、記譜方法や、詠唱曲レパートリー、詠唱スタイルの違いなど、特徴付けられるものはあるのだが、御詠歌の密教的意義づけにおいては、密厳流は金剛流の所伝をほぼ継承していると見てよいというのが現在の私の観測である。
 このような金剛流と密厳流であったが、第二次世界大戦参戦によって戦時中は、少なくとも教団レベルの講活動は休止に追い込まれた。これはまた他流の御詠歌講も同様であった。それが息を吹き返すように再開されるのは戦後の昭和二十年代である。全国各地で各流のご詠歌活動が復活し、諸種御詠歌大会が活発化する。この一因には戦没者に対する鎮魂供養としてご詠歌活動の復活が求められたことがあると考えられている。『遍照講五十年史』(昭和50年刊行)昭和23年12月の条に次のくだりが見える。
 「戦争が終わり、平和な社会にもどるとこれまで下火になっていたご詠歌は、再び燎原の火のように発展していった。戦争で亡くなった人たちへの慰霊とともに、戦時体制の中で押さえつけられたものへの反発が強かったのであろう」
 こうした戦後社会における仏教教団各流の既成ご詠歌講の復興という気運が、昭和27年に発足する梅花流の背景の一つであったことは重要なことだ。
 さて梅花流の叙述に移る。梅花流の詠唱を曹洞宗教義の上から意義づけようとするものは『梅花流指導必携』であるが、この初版は昭和47年に刊行されている。だがこれより先、昭和41年には『梅花流師範必携』が、またその前年には久我尚寛師による『梅花流詠道要訣』が刊行されている。『梅花流詠道要訣』中には、識語の年時を異にする数篇が収められていて、その年時は昭和40年、昭和35年、昭和29年と複数ある。曹洞宗における梅花流指導書の嚆矢と言えるものであるが、書名を見て察することのできるように、おそらく久我師がこの書の先鞭としているものは、岩村義運師『密厳流詠讃要訣』と思われる。あらためて詳しく述べる機会を得たいが、久我尚寛師の行った、組織作り、教義的意義づけ、歌詞解説、そのほか初期梅花流形成期における業績は甚大なものがある。ここでは金剛流及び密厳流経由の「詠道に対する考え方」をどのように梅花流に取り入れたか、これに焦点を絞って述べたい。

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『梅花流詠道要訣』の目次に明らかなように、ここに明示されているのは「身の構え・口の構え・意の構え」の三つ、すなわち金剛流・密厳流所伝の「詠唱における身口意三密」である。だが単純な援用ではない。久我師は本書の中で次のように述べている。
 「身口意三業の詠唱こそは、梅花流詠道の心要であります。そしてその三業相応の詠唱をするには坐禅が根基となるものであることを悟らねばなりません。即ち、詠道は禅道に通ずるものであり、詠道の奥処は禅道の奥処であることこを覚るべきであります。詠禅は畢竟一如であり、詠禅は同時成道の一筋道であります」
 ここで久我師は真言宗の解説には無かった禅・禅道への関連づけから、「詠禅一如」という考えを展開することによって、身口意三密の相応という真言宗所伝の考えに加え、詠禅という発想を用いて、梅花流独自の意義づけへ展開させているのである。
 一方、久我師においては法具の密教的意義づけは採用されなかった。その方針はそれ以後の梅花流指導書に継承された。その理由を明記したものをまだ知らない。勝手な推測が許されるとすれば、それは曹洞宗におけるご詠歌活動である梅花流の意味づけにおいて、密教的解説を出来るだけ遠ざけようとしたものではないかと思うのだが、確証はない。
 だがその理由を問うことは、真言宗ご詠歌を母体に生まれた梅花流は、どのような方向を目指していたのかを考えることにつながるものと思う。それは法具の密教的意義を考えること以上に重要な課題ではないだろうか。

法具の密教的意義について その3

 曽我部自身による「金剛和讃」の解説もあるがいささか頁数が多い、ここではやや時代を下るが、曽我部の解説趣旨を踏襲しているものとして、以下の「金剛和讃解説」(『高野山金剛流詠歌和讃の解説』高野山布教研究所編集、昭和63年初版、平成元年第三版)を挙げる。その1で引いた和讃本文の全解説であるので、適宜本文を参照しながらご覧頂きたい。

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 密教の事相教学の特徴がよくわかるものと思う。

 以上の叙述を前置きとして、以下は密厳流と金剛流の関係、そして密厳流と梅花流の関係に検討を進めて行く。