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BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

【真読】 №115「生飯(さば)」 巻五〈雑記部〉(『和漢真俗仏事編』web読書会)

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生飯(さば)とは元(もと)これを「衆生食」と云うゆえなり。
 『行持鈔』下に云く、「衆生食を出すことを明かさば、あるいは食前にもあり、あるいは食後にもあり。経論に文無し。情に随って安置す(文)」。衆生食とは、衆生は鬼子母と曠野鬼となり。
 ○『涅槃経』十五に云く、「仏、曠野聚楽に遊ばれしとき、曠野鬼と云うものあり。純(もっぱ)ら血肉を食とし、日に一人を殺し食らう。仏、これがために説法したまえども受けず。ここにおいて仏、大力の鬼神と化したまう。これに怖れて仏に帰依す。また(仏、)本身に復(かえ)りてこれがために不殺戒を受けさしむ。その時に曠野鬼神、仏に白(もう)して言(もう)さく、“我および眷属、つねに血肉を食とす。今すでに戒を受けば何をか食らわん”。仏、鬼に告げて言(もう)さく、“我今まさに声聞の弟子に勅して、仏法の有る處に随って悉く汝に食を施す。もし施すことあたわざる者は、すなわちこれ天魔徒党なり。我が弟子にあらず”と」。
 ○『毘奈耶』に曰く、「訶利帝母(かりていぼ)、愛児を求むるために、仏、三帰五戒を受けしむ。仏に白(もう)して言(もう)さく、“今より何をか食せん”。仏の言く、“憂うることなかれ、剡部州において我が弟子有り。食の次いでごとに衆生食を出して、汝に施し皆な飽満せしめん”と」。
 ▲生飯(さば)の分量は『行持鈔』に『愛道尼経』を引いて、「指甲の大(ふと)さのごとし(文)」と曰く。これに依て七粒とするなり。『智度論』に云く、「鬼神は、人の少しばかりの飯食を得てよく変じて多からしめて食す」と。云えり(『資持記』にこれを引く)。

よこみち【真読】№114「ガキ=子供」はもうやめよう

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六道の一つを餓鬼と呼ぶのはいい。広い意味での仏教の世界観に受け容れられた餓鬼道についてはそのまま受けとめようと思うが、人の子を「ガキ」と呼ぶのは好きになれない。もっとはっきり言えばとても嫌いな言葉で、できればやめてほしいとさえ思う。
 いったいガキという言葉が子供を指すようになったのはいつ頃からだろうか。
 『日葡辞書』や『時代別国語辞典・室町時代編』などには仏教語の「餓鬼」の用例が主体になっている。そこから派生して「飢えて痩せこけ、やつれて色青ざめた人」いう意味も載せてあるが子供を指す用例はない。少なくとも近世以前はそうした例はなかったと言うことじゃないだろうか。
 私が子供の頃にすでに一般的だった。昭和45年、ちばてつやが『餓鬼』という作品を『ぼくらマガジン』に連載し始めた。この作品は、人間の欲望に翻弄され悪の道にはまりこんでゆく少年を主人公にしている。ガキども、ガキ大将などという言葉が横行していた時代だ。
 ガキ大将というと、ガキと単独で云うよりはあたりがきつくないように感じるのはそう馴らされてきたからだろうか。昭和47年から刊行開始される『日本国語大辞典』(全20巻・縮刷版全10巻)には、「餓鬼」の項にはこれを子供とする用例は見えないが、「餓鬼大将」の項はある。ここには江戸時代の俳諧滑稽本の用例が載せられていて、これが江戸時代以来の言葉であることがわかる。とすればやや慎重にならざるを得ないが、江戸時代あたりの「餓鬼」という言葉をめぐる状況がカギになるように思う。
 その言葉のもともとの意味が凶悪だったり忌まわしかったりするのに、今になってカドが取れてまるくなったりしている例は多く、この連載でも以前、よこみち【真読】 №18「愛しき大黒さま」http://ryusen301.hatenablog.com/entry/2015/04/20/085225
で取りあげた「大黒」なんかがそうだ。
 だからガキについてもそんな目くじら立てなくていいじゃん、と言われるかもしれないけど、やはりいやなのは今日の用語の解説が、「子どもをガキというのは、餓鬼のように食べ物をむさぼるところからである」と明らかに書いているところにある。だってこう書いているってことは、「子供は餓鬼のように食べ物をむさぼる」と定義していることになりませんか。当然そこには餓鬼草紙や地獄草紙に登場するあの餓鬼達の姿がオーバーラップするじゃないですか。自分の子、だけじゃなくとも自分に親しい子たちが「餓鬼のように食べ物をむさぼる」と言われたらいやでしょ。
 ある宗教教団が「施餓鬼」という表現はやめて「施食」にしようとしたことがあったけど、これは教団側が発信する情報責任という動機が強かったように思う。この〈餓鬼=子供〉という表現を考え直すのは、一つの教団とかじゃなく、より広い大人社会が〈子供を育む〉という視点から考えるべき問題だと思うんだな。そう思いませんか?

下田正弘「伝承といういとなみ‐実践仏教学の解釈学‐」 『親鸞教学』93、2009年3月

 著者注「本稿はそ(引用者注:下田「生活世界の復権‐新たなる仏教学の地平へ」『宗教研究』№333、2002年)の続編をなす」

 エドモンド・リーチは社会人類学の叢書の一冊において『実践宗教における弁証法』という著書を編み、そのなかでヨーロッパにおける仏教研究の特徴を次のように指摘しました。
(中略)日常的仏教の現実については、ごく最近までほとんど注意が払われてこなかった。唯一の〈真正な〉形態の仏教は、パーリ語文献から抽出可能な哲学的神学である一方、たとえ仏教の諸国に存在しても文献に確認することができない宗教実践の要素は、いかなるものでも堕落した世俗的な捏造物であるか、あるいはアニミスティックなヒンドゥー教銘仙の残滓でしかない、と考えられてきた。
 この書物は分量としては小さなものですが、アジアを対象とする欧米における仏教研究の流れを、それ以前の文献研究一辺倒から大きく転換する契機を与えた、一つの記念碑的論文であると私は考えています。

 グレゴリー・ショペンが、ふたたび同じような視点からこの問題をとりあげました。それは「インド仏教研究における考古学とプロテスタント的前提」と題する論文に発表されました。冒頭にかれはこう記しています。
近代の学者たちによってインド仏教の歴史が研究されてきた方法は、決定的に特異なものである。なおいっそう特異なのは、だが、それがまったく特異だとはみなされてこなかった事実の方だ。この特異さは一種類の源泉資料にたいする 、〔研究者たちの〕一見して奇妙な、議論の余地のない好みらしきものにおいて歴然としている。

 仏教が歴史の中に結実してきた実態を正確に描きだそうとするなら、リーチやショペンがしめすように、規範的、理念的な文献の記述を再現するのみではなく、生活経験においてその理念がいかなる形で機能して北を問題にしなければなりません。そもそも「聖なる世界」は「俗なる世界」とともにって意味をなすものであり、この両者間においての緊張関係、リーチの表現を借りるなら「弁証法的関係」によってその存在意義が明らかになるものです。聖なる世界のみをいかに丹念に描いても、それが生活世界から分離されているかぎり仏教の全体像はあらわれてこないでしょう。文献を根拠として理念、教理、哲学として整えられ続けた仏教を、もういちど生活世界という文脈にもどし、そこにおいて理念が、いうなればいかなる身体をともなってあらわれているかをみなおさなければなりません。

 宗教人類学者の佐々木宏幹氏は、日本の仏教研究の現状をふりかえりながら、「生活」という視座を確保し、「生活仏教」を対象とする必要性を、あらためて論じました。佐々木氏の理解によれば、「生活仏教」なることばでしめされるところは、「人々の生活の中に生きている仏教を意味し、具体的には各地の寺院と僧職者、および寺院‐僧職者に直接・間接に関わる檀徒・信徒や一般人、さらに場合によってはこうした人びとが仏教儀礼)との関わりにおいて信奉する種々の民俗宗教職能者をも含むカテゴリー」を指します。
 私がここで取り上げた「実践仏教」という概念は、この佐々木氏が提唱するところと一部重なるものです。

 こんにちの学会における仏教研究をみるなら、〈真実の〉、〈本質的な〉、〈真正な〉仏教を、生活世界から切りはなしたうえで思想的、教義的なテクストの中に求めていこうとする態度はいまだに強固です。

 こうした研究態度を進める仏教学者たちは、仏教を過去の一部のテクストのうちに閉じこめたうえで、さらにその時代の生活世界から切りはなすという二重の操作をおこなっています。

 仏教が歴史の中に存在してきた以上、世俗生からは完全自由ではあり得ないという基本的な事実を、研究者はまず考察の前提に据えおく必要があります。
 
 ここで第一にたいせつなことは、「世間にかかわるもの」は「世間そのものではない」のと同時に「世間的でもなければならない」という両面の自覚です。仏教が世俗とかかわりをもつことは堕落などではなく、歴史的現実として重要な側面です。
 第二に銘記しておくべきことは、こうした仏教を観察しようとする研究者自身が、仏教と同様に生活世界に存在するという事実です。けれども〈真正な〉仏教を探求しようとする研究者たちは、研究対象を不変の世界に属するものとして、世俗性、状況性とも無縁の仏教を抽出しようとします。これは翻ってみれば、研究者が状況世界に依存することなく仏教を選び出しうる特権的立場に立っていることを物語っています。
 これら二つの点に無自覚であれば「歴史として生成されてゆく仏教」、つまり伝承として存在する仏教を理解することはできません。生活経験世界にあらわれる仏教は、世俗と拮抗しながら、その緊張関係に立ち続ける仏教です。

 タンバイアの関心は「現世に根づく民間宗教を信仰する人々は、どうして現世を放棄する宗教に心を奪われてしまうのか」というまことに素朴ですが重要な疑問に向けられます。つまり、現世の利益を保証する宗教が存在すれば、この世を生きてゆくに十分なはずなのに。そしておすした宗教はそれぞれの土着文化においてすでに存在しているはずなのに、なぜ人はそれを捨て去って、禁欲的で厳しい「出家」を説く仏教などに惹かれてしまうのか、という問いを建てているのです。言われてみればたしかに不思議な事態です。
 
 タンバイアは、仏教徒儀礼的、宗教的行為には矛盾・対立する二面があり、それらは仏教の基本を構成する〈仏・法・僧〉の三宝において、相互に矛盾する要素として現れているという、まことに注目すべき特徴を指摘します。まさにこれこそ実践的宗教の弁証法的特徴です。その具体的な理解をみてみましょう。
 生身の〈仏〉、すなわち釈尊は、涅槃という理想に到達したものの、すでにこの世に生存はしていなく、その意味ではまったく無力です。ところがその一方で、仏の物象化された形態であり、生命を欠いているはずの聖遺物や仏像は、現に〈魔術的〉力を有したものとして仏教徒たちには受容されています。
 聖典となった〈法〉は、第一義には死と欲望の克服、および涅槃の獲得による現世的束縛からの解放と救済とを説きます。しかしまた他方、一般の人びとにたいしては、現世におけるよき生活を保障する力の源泉となり、現世を正しく送るための倫理を与えるべくはたらいています。
 〈僧〉は、本来は出家行の実践をとおして、現世的欲望を捨て去ったはずの人びとです。ところが在家者にその力が振り向けられた場合、かれらの存在は在俗の世活をより理想的に実現し、現世での願望を実現する力となります。
 このように、三宝は、整然とした単一の意味体系のなかに固定的に据えおかれているのではなく、その体系を離れ、現実に存在するさまざまな要素と関係を取り結びながら、あらたな体系を構築しつつ機能しているのです。

 仏教を歴史的ブッダが説いた思想に限定し、〈原始仏教〉のみを本来の仏教として認めようとするのは、仏教を意味生成活動のすでに終了した過去に封じ込めるものでしかありません。

 インド仏教文献内部の歴史に加えて、仏典が伝播したインド外の広大な諸地域において誕生した文献群を加味するなら、仏典の形成は異文化間における、多様で異質な要素の創出とその要素間の相互運動から成る、巨大な歴史空間としてあらわれてくるでしょう。
 仏教は、過去と現在、文献と文献外資料、異なった文献、同一文献内の異なる要素というそれぞれの間において、テーゼとアンチテーゼとがはたらきあう運動としてとらえる必要があります。この立場から仏教を描きとるためには、仏教にゆいいつの純正な定義を与えるのではなく、異なった力がはたらく一つの〈力学の場〉として解明する態度が求められます。彼岸と此岸を分離してしまうことなく、弁証法的ありようをしているという意味で、実践的な次元でとらえる必要があります。

 近代仏教学がみいだすことのなかった「生活世界における実践的仏教」という視点を導入するとき、文献資料、文献外資料の区別にかかわりなく、仏教は諸力のはたらく場として理解され、単一のアイデンティティをもった静的な実態としてではなく、異なるベクトルを内包する運動体として描き直されます。
 注意しなければならないのは、ここでいう生活世界は、世間と出世間という、次元と種類が異なる諸力が集合する場を意味するのであって、けっして世俗と同義ではない点です。生活世界における実践的仏教を理解するさいに重要なのは、世間的価値と出世間的価値とが異なった二極としてせめぎあい、反発しあい、影響しあいながらはたらく事態を把握することです。仏教を世俗世界からのみとらえよ、というのではありません。

 現実の仏教教団を「堕落」として批判する人たちは、これまで述べてきたように〈真正な〉仏教を求める、原理主義にとらわれています。しかしそこで求められている仏教は、多くの場合、書物に閉じられ、個人の理念に閉じられ、ほとんど知識人の頭の中に存在する仏教でしかありません。

 仏教が一方で徹底して現世を否定し、彼岸に向く価値を有しているからこそ、他方ですでにさまざまな力がはたらきながら均衡をたもっている世俗世界に突入し、あらたな運動を起こし、世俗内に存在しなかった倫理を生み出せるのです。 
 一方、世間はあらゆる現世的な価値を総動員して出世間たる仏教教団に向かい、出家教団のもつ力を世間に向けなおし、つねに巻き込んでいきます。禁欲的に小欲知足に向かう力を、正反対の豊穣な生産性のなかに誘導し、多様性を持った表現へと変容させます。

 最後に、テクスト研究と現代のとの関係をめぐる問題、そして仏教の異文化への伝播という観点から。ひとことずつ言及しておきましょう。

 テクスト解読という作業を、過去のテクストと現在の読み手のあいだに生ずる葛藤と運動の展開として、意識的に分析、叙述するなら、過去のテクストを読み、現代語に翻訳するという作業そのものが、現代への批判的な関わりになります。

 仏教の伝播とは(中略)インドで生まれた仏教が、まったく異なった言語、歴史、社会、文化のなかであらたに仏教として生まれなおすできごとであり、伝播先の世界を母体としての再誕だったのです。

【真読】 №114「施餓鬼」 巻五〈雑記部〉(『和漢真俗仏事編』web読書会)

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吾が門の徒は日々必ずこの法を修すべし。儀軌にも獲る所の福利果報校量すべからずと云へり。
 ○『仏説救抜焔口餓鬼陀羅尼経』(不空訳)曰く、阿難、独り静処に居して所受の法を念ずるに、その夜三更以後に当って焔口と云う餓鬼、阿難の前に現ず。その形醜陋にして身体枯痩して口中に火燃え、咽(のんど)針鋒(はりさき)の如し。頭髪蓬乱し爪牙(そうげ)長利にして畏(おそろ)しかりけるが阿難に白(もう)して言く、「却後三日、汝が命尽きて餓鬼の中に生まれん」と。阿難、これを聞いてはなはだ惶(おそ)る。「我、いかなる方便をなしてこれを脱(のが)れむ」と問いたまへば、餓鬼こたえて曰く、「汝、もし明日に百千恒沙数の餓鬼と、百千の婆羅門仙等に摩伽陀国の斛(ます)にて一斛の飲食を施し、ならびに我がために三宝に供養せば、この功力を以て汝も寿(いのち)を増すべし。我もまた餓鬼の苦を離れ、天に生ぜん」と申しければ、阿難、はなはだ怖(おそ)るべく、疾に仏所に至って、彼の焔口鬼の我に語ることを一一仏に告(もう)しければ、仏、阿難に告げたまはく、「怖れることなかれ。我に方便あり。諸の餓鬼・婆羅門仙等に種々の飲食を施さしむべし。“無量威徳自在光明殊勝妙力”と云う陀羅尼あり。この陀羅尼を誦すれば、百千恒沙数の餓鬼及び婆羅門仙等に上妙の飲食を充足せしめ、一一の餓鬼に摩伽陀国の斛(ます)を以て七七斛の食を得せしむる」となり。世尊、重ねて言(もう)さく、「我、前世に婆羅門たりしとき、観自在菩薩の所と及び世間自在威徳如来の所において、この陀羅尼を受く。ゆえにこれより無量の餓鬼及び諸の仙等に種々の飲食を施し、諸餓鬼の苦身を脱して天上に生ぜしむ。阿難、汝今受持せば、福徳寿命皆な増長を得む」と。その時世尊、すなわち陀羅尼を説きたまう。

下田正弘「〈近代仏教学〉と〈仏教〉」『仏教学セミナー』73 2001年5月、大谷仏教学会

仏教学が仏教を変えてきた、あるいは仏教そのものを作り上げてきた〉

 アジアにはさまざまの仏教徒が生活をしています。(中略)これらの仏教徒たちはそれぞれの地域や歴史に限定された特色を持ちつつも、〈仏教徒〉として共通の世界に生きている意識を持っています。それは何よりも〈釈尊の教え〉という淵源を共有し、そこから生み出された世界を生きる意識に支えられています。もちろん地域格差や歴史的な相違を過大に評価するならば、それらはとうてい同じ仏教ではないという見方を主張することも可能なのでしょうが、実際には〈帰依三宝〉を中心とする教義や儀式の骨格、概要、体系など、基本的な要素を捉えるなら、いずれも仏教であるというのが穏当であると、ほとんどの人々は判断しています。
 ところでこうした意識は、どのようにして生まれ、形成されてきたのでしょうか。実は現在のこの理解は、伝統世界の仏教徒たちの心にずっと昔から変わらずに存在し続けたのでもありませんし、時が進むにつれて自然に形成されたものでもありません。考えてもみましょう。例えばヒマラヤの奥地で暮らすチベット仏教徒が、自分たちの今生きている信念体系が、見たこともない東南アジアの平原に伝播した宗教や、極東の島国に流布した宗教と、実は同じ淵源を持つ一つの世界である、などという認識を自然に持ちはじめることがあり得るでしょうか。

 こうした認識が得られるためには、それに見合う、しかるべき情報の収集、整理、組織化がなされ、さらにその組織化された体系の中に、自らの現状を客観的に捉え直す作業を完了していなければなりません。つまり、古代インドに起源をもつ一つのできごと‐釈尊の出現と仏教の誕生ですが、このできごとが時間的、地域的に展開し、その展開図の中に自らの日常を収め取り、俯瞰することができて初めて、いま私たちが抱いている〈仏教〉という世界が成り立つのです。

 実はこの情報の収集、整理、組織化をなし遂げ、アジア各地の宗教を一つの体系の中に特定し得たものこそ、西洋近代における仏教研究の大きな成果でありました。

 現在われわれが無意識のうちに持っているこの〈仏教〉とい認識は、ある特定の世界に、特定の期日をもって生まれてきたものです。それは十九世紀前半、ことに一八二〇年代前後のヨーロッパにおいてだと言われています。

 アジア各地に散在する諸形態の宗教を、それぞれの地域内部から観察しても、そしてインドにおいて眺めても、現在われわれが認識する〈仏教〉はどこにも見えないのです。インドに仏教徒が存在しないのは研究の進展にとって本質的困難となるものでした。ではいったい〈仏教〉はどうやって今の姿を取るようになったのでしょうか。初めはそれらがいかなる宗教なのか理解し得なかった彼ら(引用者注:ヨーロッパの仏教研究者)は、まことに多年にわたる議論の紆余曲折を経た後、ついに十九世紀の初頭、具体的には一八二〇年前後に至って、ようやくある決定的な結論に至ることになります。すなわち、南アジアから中央アジア、そして極東アジアまでにわたって観察される宗教は、実は古代インドの一人の人物、シャーキャムニに起源を発する同一世界のできごとであることが確信されたのです。

 もちろん日本でも中国でもあるいはスリランカでも、その伝統内部において仏教は歴史的な人物である釈尊あるいはゴータマから始まったものだという理解はあります。けれどもその認識は現在私たちが手にしている〈仏教〉という世界とは異なっています。この問題は後ほど取り上げます。

 西洋世界に誕生したこの新たな〈仏教〉という概念は、その後確実に世界に広がっていき、ついには今日の研究者たちの〈仏教〉認識の基礎となるに至ります。そしてやがてそれは日本の仏教世界そのものに浸透しはじめます。なぜなら日本における仏教界の理論的指導者は、その多くが大学という教育機関によって知識を獲得してきたものです。そして大学で学ぶ仏教は、西洋世界から入ってきた仏教学が大きな比重を占めており、否応無く西洋に誕生した〈認識対象としての仏教〉を受け入れることになるのです。こうして結果として、研究者たちによる〈仏教〉という新しい認識の誕生が、その意味で〈近代仏教学〉の誕生が、現在の仏教そのものの理解に大きく関わることになりました。

 このようにして生み出された〈仏教〉には、どんな特徴があるのでしょう。それはまず、〈仏教〉の中心点に来るものが、歴史的実在としての釈尊の存在である点にあります。(中略)歴史的人物が仏教の中心に置かれたことは、きわめて重要なことでした。しかしそれに劣らす重要なのが、その人物はキリスト教を布教したイエスとは異なって、預言者ではなく一大思想家、あるいは哲学者として考えられたことでした。〈仏教〉ということばを西洋近代で初めて使ったのは一八一七年、ミシェル・ジャン・フランソワ・オズレーの『東方アジアの宗教の開祖ビュッドウあるいはブッドウに関する研究』という書物であったと言われています。その中に記されていることは驚くべき今日的な事柄であり、この講演の中心テーマでもあります。
 そこにおいてはまず、ブッダが神格化された人間でありけっして神そのものではないこと、もちろん俗人ではなく、偉大な思想家、哲学者であることが宣言されました。今述べたように、原始神々の世界、あるいは異端派のキリスト教徒などと考えられていたブッダが、キリスト教とも神とも無関係な人間である。それも合理的な思想を打ち立て推し進めた人間であると明言されたのです。こうしてブッダの人間としての実在だけを想定することによって、偶像神にまつわる長い歴史の曖昧さは見事に払拭されてしまいました。彼の言葉によりますと「無知や迷信によって祀られた祭壇を降りたブッダは素晴らしい哲学者であり、人類の幸福のために生まれた賢者」だったのです。

 オズレーの態度は、またしてもわれわれの現在の姿勢を先取りしています。彼は「現在残された文献は神話的な装飾に満ちているが、その資料からかならず哲学者ブッダに相応しい合理的・知的体系が抽出できる」と主張するのです。
 
 この研究態度から近代仏教学における文献中心主義がほとんど決定的となりました。

 さて日本がこうした仏教学を受け入れたのは、西欧において〈仏教〉とうことばが誕生してちょうど五〇年後、半世紀のちになります。(中略)日本が開国した時期は西洋の仏教学がほとんど盤石な基礎を固めていた頃に当たります。

 さてここで現在の仏教学の特質を考察するために、二人のわが国を代表する研究者を例として取り上げてみたいと思います。一人は和辻哲郎で、一人は中村元です。

 まず和辻哲郎ですが、彼の名著『原始仏教の実践哲学』は一九二七年に出版されています。西洋にBuddhismという言葉が生まれて一〇〇年ほど後のことです。彼はいったいどんな態度で仏教を解明しようとしたのでしょうか。研究の基本態度について序文の冒頭に彼はこう書いています。
我々はあの大きい思想潮流の源泉として一人の偉大な宗教家があったという以上にその人物の内生や思想を規定しようとは望まず、ただ我々に与えられたる資料の内にいかなる思想が存しそれがいかなる開展を示しているかを理解せんとするのみである。
 ここには、まさにオズレーの宣言したことと、まったく同じ内容が描かれていることがおわかりでしょう。オズレーが何を言っていたか。ブッダは哲学者であり、彼の〈知の体系〉が必ず残された資料から抽出できるというものでした。一一〇年後の日本で和辻も、期せずして同じ態度を取っているのです。仏教は思想であり哲学であり、ブッダはその「大きい思想潮流の源泉」に設定されるべき「偉大な宗教家」なのでありますが、その宗教家は「内生や思想」が、つまりは人物の具体的なありようが問題とされるのではなく、その人物によって展開された思想、そしてそれを記した資料の解読のみが、すなわち一定の〈知的体系〉が導き出されることのみが目指されるべきなのです。きわめて明確な方法論的自覚に基づいたこの試みは原始仏教研究史上において画期的なものであり、和辻はその仕事を見事になし遂げ、はっきりと新たな時代を切り開きました。
 それでも和辻のこの態度は、次の二つの点で看過できない問題を含んでいます。一つは彼がブッダの存在を展開した思想の原点としてのみ捉え、その存在自体の考察を閑却してしまった点、もう一つはブッダの展開した世界を、一つの〈哲学〉に制約してしまった点であります。

 しかしブッダの思想のみではなく、ブッダ自身がいかなる存在であったかに関心を持つ人にとって、つまり何よりも〈信仰者たち〉にとって、しそうないようとブッダの存在とは切り離すことはできません。体系的な思想が何であるかなど全く分からないまま、生活の中でブッダのひと言に接するだけで人生観を変えた人々がいたという事実は、ここではまったく葬り去られてしまうことになります。したがって和辻の試みを多少極端な明瞭さで表現するなら、それは〈信仰者から独立した知的体系の仏教世界〉を日本の仏教学会に打ち立てたものであったと言うことができます。

 第二の問題も劣らず大切です。和辻は仏教がきわめて高度な哲学であるという意味でのみ思想であることを結論しました。そして、例えば律蔵に書かれている内容はあまりにも低級でとうていあの崇高なブッダと本来的な関係があるとは思えないとして退け、また経典に書かれていることであっても、たとえば縁起の解釈に輪廻を持ち込んだ理解などは、やはり同様の理由で考察の対象から外してしまいました。それは文献学的手続きからのみ帰結された結論というよりも、あらかじめ前提とされていた内容です。この第二の問題は、一見無関係に思える第一の立場とは実は一点で結びついています。それは仏教が〈信仰者を備えた宗教〉とうより、〈高度な哲学〉であるという理解です。

 和辻の作業を踏まえるとき、中村元の〈ゴータマ・ブッダ〉論は、和辻が考察の対象から外した仏教思想の源泉としてのブッダに、その〈内生と思想〉とを復活しようとした試みとみることができます。彼の方法は〈伝説的空想的要素の多いもろもろの仏伝の類を意識的に遠ざけ〉て〈歴史的人物〉としてブッダを描こうとするものでした。これもヨーロッパにおいて発見されたブッダ像と見事に重なり合います。それは神話から切り離されたブッダであり、曖昧さを払拭した偉大な思想家としてのブッダであります。彼にとって描かれるべきブッダは、宇井伯寿や和辻哲郎が提示した思想を担う担い手として相応しいブッダの姿でありました。それは知的な高度な思想の源泉として、何よりも神話世界とは訣別した理性世界の体現者でなければなりません。オズレーの言う「無知や迷信によって祀られた祭壇を降りたブッダは素晴らしい科学者であり人類の幸福のために生まれた賢者」だったという理解は、中村がその著書の中で目指しているブッダに生き写しのイメージであります。

 けっしてあらゆる研究がこの二人の碩学の態度に収まってしまうわけではありません。しかしそれでもこの態度は、現代日本における仏教研究の代表的なありようと言ってもいいのではないでしょうか。この二人の学者の作業を見たとき、いずれもが近代西洋において発見された歴史的ブッダ、そしてその思想としての仏教という認識の枠の中にうまく収まってしまいます。しかしその反面、わが国において伝統的に存続してきた仏教理解には必ずしも馴染まないのです。

 仏教界の理論的指導者は同時に仏教研究者であることが少なくありません。また各宗派の僧侶も大学という高等教育機関においてその教育を受けます。そこにおいて〈仏教とは何か〉という認識を作り上げる作業が行われるわけですから、仏教学のありようが仏教そのものに影響しないはずはありません。そしてブッダが何よりも理性的な人間であり、その経典には本来高度な哲学的思索のみが展開されているべきであり、一歩進んでその他の要素は仏教ではないと判断すべきならば、今日存在する仏教の内容の相当な部分が退けられなければならなくなるでしょう。少なくとも儀礼としての葬式に携わり、輪廻を想定することばを語り、歴史的人物であるブッダとは直接関係しない大乗経典を読む僧侶は、仏教徒の仲間入りはできないことになります。

 問題は大きく分けて二つあります。一つは西洋近代がブッダという存在を神とは切り離し、一人の偉大な〈哲学者、道徳家〉と捉えるところに発しています。もう一つは、これと密接に関連しますが、仏教の意味を〈インドという起源〉に強く限定してしまった点です。

 ブッダを〈哲学者、道徳家〉と決めたことによって、研究の前提として次の二つのことがあらかじめ決まってしまっています。一つは仏教は哲学であるため、解明する材料は特定の文献に限られること、もう一つはその文献から読み取られるべきものはあくまで哲学であり、理性を超えた神話でも、理性以下の日常でもないこと。

 このため、先に述べましたように、近代仏教研究においては文献偏重的態度が強固になりました。

 伝統的世界の仏教徒の場合、文献に向かいながらも彼ら自身は文献以外の広い仏教世界に包含されています。仏教徒である以上、一定の戒律に従い、儀式を守り、礼拝をし、さまざまな実践をするわけですから、生活自体がさまざまなレヴェルの表現に巻き込まれています。文献の世界はあくまでその中の一つとして存在し、文献外の世界との関係の中でその意味を発揮し続けてきたのです。ところが西洋近代の仏教研究に生まれた文献主義は、そうした土台を一切捨象し、生活の場から切り離された研究に向かいました。そもそも仏教徒でない彼らには、仏教という生活に包まれた文献のありようを想定することは容易ではありません。

 こうした点は現代の日本の仏教学者も置かれている状況が似ています。なぜなら学者であるためには、必ずしも仏教学者である必要はありません。したがって文献研究が仏教の文献外の世界に巻き込まれている必要はなく、そこでは文献のみの価値を周囲から自立させておくことができるのです。

 仏教が何よりも高度な〈哲学、道徳〉であるべきだという態度からは、研究の結果として目指すべきものが〈神以下で日常以上のもの〉に限定され、それに応じて研究者たちは、文献の中でも取り上げるべきものと捨て去るべきものの選択へと向かうことになりました。

 例えば和辻の原始仏教思想の研究では、当初は純粋に知的な思想であった原始仏教が徐々に民衆化し低俗な要素を含むことになったという筋を立て、それを歴史の実際だったかのように前提としています。けれどもきわめて高度な思想を持った仏教者でさえ、きわめて〈低俗な〉規定をなす律蔵には必ず従って生活をしていたということの方が、はるかに歴史的事実であろうと思います。歴史的現実は複数の要素を持って描かれるべきあり、単一の次元に還元しきれるものではありません。

 第二の大きな問題(中略)、仏教を〈インドという起源〉に特定する態度は、一口に言えば、仏教研究において起源の意味を表面化、あるいは単一化し、その起源からの正当性を重んじるという傾向を定着させました。

 もし現在までに展開した仏教世界が、その単一化された起源の意味によってすべて説明できるというのなら、仏教研究は本来インド仏教研究以外に、更には原始仏教研究以外に意味は持たないことになりましょう。
 近代仏教学はまさにこうした傾向を持っており、しばしば仏教の意味を起源のインドからの距離において計ろうとします。それは時に〈正統な仏教〉とい観念に研究者を誘導し、研究者はインドにおける歴史的ブッダの〈真説〉を確定し、そこからの遠近関係によって本来の仏教であるものと仏教に非らざるものとを確定しようとします。近代仏教学によって建てられた起源としての仏教は、理性的ブッダによって説かれた哲学ありますから、結局はこの理性的哲学に合わないものが非本来的仏教と見なされることになります。

 行き着くところの展開は、純粋なものの不純化、あるいは高級なものの低級化の流れであることを免れ得ず、せいぜい評価されるものがあるとすれば、それは明かされた起源の精一杯の模倣ということになります。
 こうなりますと、各地、各時代に展開した仏教のそれぞれの個性を積極的に仏教として認め、研究の対象としようとする試みは、きわめて現れにくくなります。起源が純粋であり、あとはせいぜいその模倣か、ほとんどの場合は不純化や堕落でさえあるとすれば、今世界に存在している仏教は、価値的に起源以下のものであるか、あるいはもはや仏教ではない何かでしかないからです。

 じつはわれわれが最も考慮しなければならないのはこの点でありまして、すでに一九世紀西洋において明かされた〈仏教〉の起源の意味は、仏教の一つの起源の姿ではあっても、そこにすべてが尽くされたわけではないと考える必要があるのです。起源によって現在が照らされているという構造を前提とし、未だに仏教の起源の意味が不確定であるという立場に立つなら、それはとりもなおさず現在の仏教の起源の意味が明らかになっていないことになります。起源からの意味が確定されていない世界とは、いまだ過去として完結していない世界であり、現在も意味形成途上にある世界であります。つまり、近代仏教学において明かされた仏教の起源の意味を一度疑問に付すということは、仏教世界を過去のものとして、すでに閉じた世界として捉えることを止め、現に生まれつつある開かれた世界として理解し直す試みなのです。
 そうなれば同じ仏教文献を相手にするにしても、その向かい合い方が変わって来ます。例えばある経典を読むとき、その読み方としては、それが過去のいかなる状況において生まれものかを探るという読み方もありますが、一方で現在いかに機能しているかを捉えることも必要になります。仏教がいまだに生み出されつつある一つの過程であるとすれば、経典の読み方も今造られつつある者と考えなければなりません。テキストには、過去の歴史において生み出されてきたという側面と、現に機能しつつあるという側面とがあるのです。実はこの二つの要素が共存するところにこそ、宗教世界一般を成り立たせる〈解釈学〉の生まれ出る余地が与えられるのです。(中略)テキストが現に機能しつつある世界とは、テキストの意味を生き続けている人々の世界であり、わかりやすく言えば今を生きる仏教徒の世界にほかなりません。

 実際の仏教世界において、〈法〉も〈僧〉も〈仏〉とともに成り立ってきたものであり、その〈仏〉は過去の歴史で存在が完結したゴータマに限定されているのではなく、仏教が存在している以上何らかの形で現に機能し、はたらき続けている性質のものです。この〈仏〉のはたらきが実感されるのは、認識としての〈仏教〉学の場においてよりも実際の仏教の場において、つまり仏教との世界においてでありましょう。実は近代仏教学に抜け落ちていた視点は、この〈仏〉を相手とすして仏教世界を生み出す〈信仰者の視点〉と言えるのではないでしょうか。
 この視点を意識した場合、研究者は二つの態度を取ることができます。一つは信仰者内部の視点に立ってみること、一つは信仰者の外部に立って彼を観察することです。これはいずれも仏教の研究にとって重要なものです。近代仏教学は往々にしてこの二つのいずれでもない第三の立場、すなわち信仰者のいない世界に立っていたように思います。

 実際に信仰者の存在を取り入れた仏教研究をなそうとすれば、現代の仏教徒を見定め観察した上で古代に遡っていくという、近代仏教学が出発点において行った作業を、より広い視野で再度やり直さなければならないことになります。(中略)そのためには現代を視野に入れた諸学問、文化人類学や宗教学をはじめとした隣接諸学問の手助けを借りることも不可欠となってくるでしょう。私たち自身はそうした学問を主要な方法とするものではありません。しかし、その成果に敏感であり、それによって自らを照らし直すことは可能であります。仏教という世界は、いつも変わりゆく現実と、変わらぬ歴史を超えた真理との関わりの中に保たれてきました。あるいはこの関わりを保つ努力こそが、仏教世界を作り上げていると言えるかもしれません。ここに実は、仏教の中心に位置すべきブッダの存在が、歴史的でありながら超歴史的でもある所以があります。

下田正弘「神仏習合という可能性‐仏教研究と近代‐」『宗教研究』81(2) 2007年9月

〈論文要旨〉神仏習合の裏面の問いとしての神仏分離には、近世から近代にかけて中央集権国家を構築した日本の歴史全体が反映する。仏教の迫害と変容の基点となった明治維新をとりまく暈繝には、権力支配の構造の変容と諸知識体系化の歴史が重なりあう。経世済民の思想、国学の進展、一国史編纂の企図は一体化して明治国家の理念を形成し、仏教を非神話化しながらあらたな神話を完成する。この構造全体を読み解いて未来をみすえるとき、生活世界に基礎をおく解釈学としての仏教学の構築が強く望まれる。

 かつて仏教が活動した第三の領域が消失したとき仏教は世俗内存在となった。もちろん近世以前であっても仏教は常に時の権力と調和しなければならなかったのだから、十全な意味で世俗外存在だったわけではない。だが近世以前にあっては、たとえば仏教会の新興勢力を弾圧しようとしてあらわれるのは世俗政権そのものではなくそれとむすぶ旧勢力や対抗勢力仏教界というすがたを取っていたことを想起するなら、仏教はいまだ自立した原理のはたらく領域にいたとみてよい。けれども寺を直接に壊滅させる信長の弾圧や寺社組織の徹底した改編を実行する徳川の統制は異なっている。かれらは‐ゆいいつ公家、朝廷の長である天皇をのぞいて‐独自の価値が成り立つ領域を地上から一掃し世俗世界に一元化した。全国をすみずみまで網羅し、あらゆるできごとを同一の次元で漏らさず把握する、精度は高くないが〈一望監視システム〉を構築した。

 中世のように個々の伝統が閉じて自存し、おのおの独立して活動する領域が与えられていれば全体を俯瞰する知は生まれえない。近世になって元政の領域が一元化され知を閉ざしていた伝統が解放されたとき、さまざまな伝統的知が一覧できる環境が整った。

 さまざま隠喩の森に分け入ってことばを精査した国学と、みずからの来歴をひとつの物語として描く国史学とは、幕末期の社会的混乱にあって社会全体のアイデンティティを表現する主体となった。二つの学は現世へと越境し、実証的調査資料を根拠とする経世の学に重なりあった。国学国史学とは現実性のいくばくかを経世の学から手に入れ、経世の学は存在の意味づけを二つの学が提供する隠喩的言辞から手に入れた。尊皇攘夷という政治運動に結実し、明治維新を準備する理念形成の言語戦略に、もはや仏教が入り込む余地はなかった。

 神仏分離に託された明治政府の深謀遠慮は、それから七二年をへた昭和一四年(1939)、宗教団体法の制定によってその正体をあらわにする。あらゆる宗教はその信仰理念までもふくめ翼賛体制に参集しなければならないというのだ。この結末にいたったのは明治政府の誕生から七旬の歳をへたがための変節の結果などではない。そうではなく、この政府の誕生が近世までの世俗政権とは一線を画した超世俗国家の出現だったことの歳月をへての再確認である。
 近世に整えられた世俗一元的支配機構はその内部にさまざまな組織や知識のシステムを保持していたが、明治政権のにない手たちはこの政治機構に幕末から顕在化する国の自己言及的概念である〈天皇〉を重ね合わせる。ここに生まれたあらたな〈天皇=国家〉は人文、政治、経済、社会、あらゆる知識体系をうちに呑噬するひとつの巨大な隠喩となった。近世までの世俗のながれに逆行した世俗政権の再神話化がここに達成された。
 
 では仏教研究者たちは〈概念〉となり神話となったこの〈天皇=国家〉にたしていったい何をなしたのか。第二節で述べた対神話化という課題にいかに対処したのかという問いである。結論を述べるなら総体としては無力だった。それはおそらくこんにちにおいても変わるところがない。その最大の原因は、近世から近代への移行にみられるひとつの事態の進行‐すなわち体系化された全体知の整備、下位の諸システムを内包した支配制度の組織化、これらにたいする隠喩の宝庫から取り出された同一〈概念〉の付与と実体化という、国家総動員で進められる壮大な冀図‐を解明することがないまま、限定された方法にみずからを閉ざした点にある。
 日本の近代から現代にかけての仏教研究がかかえる問題点についてはこれまでもしばしば取り上げたので再説はしないが、ひとことにまとめるならそれは歴史主義的立場に立ち非神話化を進めてきた。近代ヨーロッパから取り入れられたこの方法は研究の題材を過去のインドのテキストに閉ざすので日本に現存する仏教は見えなくなる。生きた仏教の存在が必要ない西洋のキリスト教世界ならこの方法で何の問題もない。ところが神仏習合して一千年を超える歴史をかかえ、あまつさえ神仏分離という未曾有の経験をへて危機に立つ仏教をかかえた日本にとって、これはあまりにも貧困すぎる方法だった。
 なかんずく非神話化とは伝統のなかに機能してきた隠喩を解体する作業である。仏教研究者たちが得意になってこの作業を遂行してゆく裏面において、明治国家は着々と〈天皇=国家〉なる〈概念〉を構築してゆく。〈概念〉の形成はひとつのことばに複数の意味を籠めそれをより高次ものにしあげてゆくが、非神話化はひとつのゆたかなことばを一段と低い貧困な部分に解体する。双方まったく逆向きの仕事をすすめていったのである。
 ミレニアムにおよぶ歴史のなかに伝統として定着しながらも明治維新という政変のゆえに瞬時にしてそこから排除された仏教は、本来なら新政府の進める冀図をみずからあばくことのできる立場にいた。ここで仏教知識人たちのほとんどがアカデミズムにおける文献研究に道を見いだしながら現実の仏教を研究の対象としなかったことは、日本の思想界あるいは歴史にとっておおきな痛手となった。
 
 それにもかかわらず仏教学が推し進めたのは仏教のさまざまな隠喩の解体作業だった。いったん神仏分離によってとりかえしのつかないほどに解体させられた仏教をさらに文献内部においても解体しようとするのだから、ほとんどの存在は消え失せてしまうだろう。
 
 神仏分離を経験した仏教界は明治国家によって伝統的意味を解体され、くわえてあらたな神話を突きつけられているのであって、その神話をあばかずして仏教にとってもっとも重要な隠喩である仏をかんたんに非神話化してしまうなら、仏教にとっては泣き面に蜂である。
 袴谷憲昭や松本史朗らによる批判仏教、ブライアン・ヴィクトリアによる鈴木大拙批判、耳目を惹きつける仏教をめぐる言説はいずれもが既成仏教にまつわる主要概念や象徴的人物像の解体に向けられ、対神話化の課題にはついに気づかれていない。むしろ仏教研究者の内部から生みだされる近年の仏教批判は、正邪を弁別し、正統と異端を創出し、虚偽を暴いて糾してゆくという論調にみち、既存の仏教に向かう姿勢において、神仏分離廃仏毀釈をなすものたちと驚くほどに親和的である。
 もちろんこれらの研究はそれぞれの領域で貴重な貢献はしているものの、その基本姿勢としては、すでに存在するものの意味をまずおおきく減じたうえでいくばくかをつけくわえようとする。この付加される部分に研究者の仕事が確認されるのだが、けれども結果として存在していたものの意味全体が減じられているとするならそれは十分な仕事になってはいない。ここでは解体を仕事と思ってはならない。というのも〈天皇=国家〉なる〈概念〉は歴史の変容ととともにあらたな意味がいまだに付加され豊富になりつつあるのだ。仏教の解体はかたわらで進むこの隠喩の構築をきわだたせる奉仕作業でしかないだろう。

 求められているのは〈天皇=国家〉とは異なった〈概念〉、すなわち社会的あるいは文化的意味の複合体を抱擁することばをもとめ、ゆたかにする作業である。伝統の中心にいながら明治国家から排除された既成仏教がこの〈概念〉を生む最有力候補のひとつだったことに異論はないだろう。隠喩が現実の意味をひとつ過剰にするものであったことを想起するなら、いま必要なのはさまざまな隠喩を解体するのではなく再生することである。
 その素朴で強力な道、それはあらたな〈神仏習合〉の創出だろう。もはや相容れなくなったものどうしが変転する歴史の隔たりをへてふたたび相手を認めあうなら、そこにはかつてなかった意味が誕生する。他者を受け入れて新たな自己を見いだすことはより豊穣な意味の産出である。世界に意味が付加されることによって、それまで不動に思えていた既成の価値体系はより豊かな方向へと揺らぎはじめる。

 あらたに神仏習合が実現するためには、仏教神道ともそれぞれがみずからに固有の伝統的姿勢をたもちつつ、同時にほとんど制止したすがたしか見えなくなった相手と〈ともに動く〉ことが必要となる。特別な方法は必要ない。生活世界において小さな単位で寺社が自主的に協働しさえすればよい。動けばかならず景色は変わる。意識が生活から遊離し、政治的であれ教義的であれ、イデオロギーに閉ざされたとたんに、じっさいには存在していない問題が障害として立ちはだかる。それは存在しないのだから努力によっても解きようがない。先入主(ママ)を排して相手に向き合うとき存在する問題は見えはじめ、努力をつづけるならやがて解決の道は開けてくる。そのときにはもはや寺社や神仏を習合させる必要さえなく、それぞれはすでに実現されていた一如に出会いなおすだろう。なぜなら歴史のなか神仏が共存した時間は別離した時間とは比較にならないのだ。

 仏教民俗学や宗教人類学などから提供される貴重な研究の諸成果を活かしながら直面する抜き差しならぬ問題を解決してゆくためには,確固とした理論的土台作りが不可欠なことであり、それには生活世界に根ざした解釈学的方法はもっとも有効である。
 諸体系を内包した支配制度の組織化とそれに対応する諸知識の体系化を図った日本の近代化における悲劇は、あらゆる存在が例外なく〈天皇=国家〉というあらたな〈概念〉の下位に一義的に意味づけられるところから起こった。全体へ編入しようとするこうした力に強さを備えていない個が抗してゆくためには、生活世界に根ざしつつ世俗の支配機構から自立しつづける中間共同体の存在が不可欠である。背後にそれぞれ固有の歴史と伝統をかかえた寺、社が、分離されたがために起こった不幸な歴史をともに背負いながら未来にむけて協働しはじめるとき、そのときこそはこの自立した共同体の出現となるだろう。神、仏をともにそのあるべき場所に、世俗を超え出た世界に帰さなければならない。世間をささえるものは世間ではない。

下田正弘「仏(ブッダ)とは何か」『駒澤短期大学仏教論集』第5号、1999年10月

 さまざまなヴァリェーションがある仏教において、最低限の共通項は何かと問われるなら、それは「三宝の存在」であると考えられること、それだけを申しあげておきましょう。
 仏宝、法宝、僧宝の「三宝に帰依をする」ことによって人々は仏教徒になっていく。時が経ち、社会宗教となった段階の、生まれながらの仏教徒でない限りは、この入信は世界各地の仏教で共通する出来事でありましょう。
 そうしますと、帰依の対象である三宝は、仏教徒にとって何らかの形で「存在」していなければなりませんね。ありもしない世界に帰依をすることなど不可能です。では三宝が存在するとは、どんなことを言うのでしょう。

 あるものが存在するとは、なんであれ実際に「影響を与えること」になる、こう考えてよろしいかと思います。神、愛、自由、解放、平安、故郷、旅。何でもよろしいのですが、例えばこうした抽象理念であっても、人の心に中を訴えかけ、実際に影響を与えるとすれば、その観念はその人にとって「存在する」ことになります。周囲に転がっていて、はっきりと見える、ありふれたものよりもはるかに大きな影響を与えるとすれば、それはより明らかに「存在する」ものとなります。

 現在の学会の理解に従えば、ブッダはなによりも歴史上の実在であり、開祖であり、人間です。そうである限り、すでに亡くなった人を問題にしていることにならざるを得ません。しかしこの理解は、三宝が存在する、三宝に帰依をする、と言う時のブッダ理解を十全に説明してくれてはいないようです。

 現代の仏教研究者の間には、ある強固な観念が存在します。それは、最初は部通の人間だったブッダが、後世の仏教徒の手によって徐々に神格化され、やがては神話的装飾に満ち溢れたブッダ観に至る、というものです。これを人間ゴータマの「神格化deification」「神話化mythologization」と呼びならわしております。 
 この理解に立って〈実証的な〉結果を求めようとする研究者たちは、神格化される以前の「人間としてのブッダ」の探求に向かいます。「脱神格化」、「脱神話化」と呼ばれる方法によって、つまり現在残された文献から、徐々に大袈裟な装飾を取り去って行けば、やがて本来存在したはずの「純粋な人間ブッダ」が再現できるはずだ、と考えて仏典に向かうわけです。

 「ブッダをめぐる記述を当時のインド世界内のメタファーとして読み取る」。この態度と真っ向から対立するのが、ブッダを「理性的人間」であると前提し、その理解と矛盾しない記述を「本来のもの」として採用し、それに沿わないものを「後代の神格化」として退けようとする、現代の研究者が陥りやすい態度です。

 ある種の古代の学問は、民衆ときわめて近い世界にいることがしばしば指摘されます。殿堂に閉じた学問ばかりでなく、市井に開かれた学問が存在するわけでして、後者においては実際に民衆を動かせないならば、その存在意義はなきに等しいものです。ブッダの披露する学問の一部は、明らかに後者の立場に立つものでありまして、単に専門家に向けた、純粋に思索的な内容ばかりを扱ったものとは考えられません。われわれの言う理性では超えられない壁、むしろ非合理的な世界さえを取り込む説得力を持つことによってこそ、民衆ははじめて動くのですから。
 こうした問題を考慮した上で、さらに前に述べた初期仏典のジャンルの多様性を考え併せるなら、理性的なブッダに焦点を専一に合わせて仏典全体を読み解くことの危険は、十分に予想されるはずです。

 仏教徒たちは、歴史的ブッダによって開かれた教えを、(引用者注:ブッダ入滅の)その後にみずからの責任において展開していきます。生身のブッダは消え去ってしまいましたが、彼らにとってはブッダの入滅は、ブッダの消滅を意味しませんでした。言うなれば、ブッダは弟子たちの中に内化されて存在し続けました。外のブッダが、内のブッダに変わりました。
 ここに言う「存在」とは、すでに述べました「影響を与え続けること」という意味での存在です。人物としてのブッダはいなくなっても、自分に与えられた影響は存在し続けています。彼らにとってブッダは、この自らの内に存する運動そのものでありましょう。
 死を選ぶはずだった者がブッダに出会い、その力に救われたことによって今現に生きている。自らが存在しつづけていること、このことこそブッダの力がいまだに働きつづけている証拠であり、それはブッダが存在し続けていることの証でもあります。彼らにとってブッダとは、この力そのものにほかなりません。相手とする目に見えるブッダの存在がないからこそ一層、ブッダは自らの内に残された運動に求められることになります。

 このように見てきますと、ブッダは特定の歴史上の存在でもあり、また特定の歴史を超えて存する実在にもなります。

 経典は「如是我聞、一時仏在・・・」から始まります。経典の冒頭において、伝承の中で先ず確認されなければならないのは、「自己の存在」と「ブッダの存在」であります。この二つは同時に存在が確認される事柄となっています。この確認は経典の成り立ちにとって重要な要素です。この経典で語られるブッダは、かつて歴史上の特定の時期に存在した歴史的ブッダですが、それが自分を通して現在に呼び戻されているのです。
 口伝の世界では、ことばの語り手は重要な意味をもちます。口伝である経典は語りを除いては存在しませんから、ナレーターが語り始める時に一頁が始まり、語り終わった時に経典の最後の頁が閉ざされたことになります。語り手は経典そのものを成り立たせていますから、、ブッダのことばをも成り立たせています。より正確に言えば、過去のブッダのことばを現在化しています。
 これが「伝承」の意味であります。過去は現在化されることがなければ単に過ぎ去って影響を持たせない死骸に過ぎません。伝承は、死骸を受け渡すことではありません。生きたものでなければ、伝承する努力は意味をなさないでしょう。こうして初期仏教の経典においてもすでに、聞き手と語り手が一つになって、ブッダを求める構造ができあがっているのです。

 これまで見てきましたように、歴史的ブッダであるゴータマに出会ったわずか一握りの人たちは、その後の膨大な数の仏教徒たちに、ほかならぬブッダの存在を伝えつづけました。後の時代の人々にとっては、ブッダに出会うことは、ゴータマという肉体に出会うということであろうはずはなく、分かりやすく言えば、伝えられる実感、感動に出会うことであります。それは、伝え聞いた過去が、現在として、現存する自己において蘇ってくることであり、そのとき、ブッダは、ゴータマに限定されない、「より根源的な名前を持つもの」として表現されはじめます。これこそが、伝統仏教に見られる過去仏思想であり、あるいは大乗経典に現れるさまざまなブッダであります。

 ブッダが歴史的存在の釈尊でもありながら、かつ、その根源となる真理そのものであり、また現在の歴史として現れるブッダでもあるとするなら、これこそは各地の伝統の中で、仏教徒たちが理解してきたブッダそのものではないでしょうか。歴史的ブッダ、つまり釈尊の存在を認めつつ、人々が他の新たなブッダをも同様に認めることは、少しもおかしなことではないのです。
 このことを認めさせない力として働くものは、いったい何でしょうか。ブッダが歴史的存在であったゴータマのみであり、他のブッダが捏造物に過ぎないのなら、ブッダの継承や存続は意味がありません。そこでは法・僧の二宝が存在していればよいのでああって、仏の存在は意味を持たないはずです。近代仏教研究は、ことにわが国において、事実上、三宝ではなく二宝の存在を立証してきたように思います。
 こうした強固な態度を産み出してしまう原因の一つは、「仏教の起源に純一なものを措定したい」という欲求であります。その純一なものとは、ここでは具体的には「理性的人間としてのブッダ」を指しますが、複雑で混沌とした存在を、研究者たちはなにかしら〈得体の知れないもの〉、ときに〈いかがわしいもの〉として敬遠する性癖があり、できるだけ単一で、純化された存在を求めるようです。
 ところが結果として伝わった仏教は、けっして単一、純一なものではなく、むしろ説明がつき難いほどに複雑多岐な様相をしています。この現象を前にして、研究者たちは、「その中には、正しいものと間違ったもの(ママ)混在しているからだ」と考え始めます。そして「正しい仏教は同質の正しい起源に、間違った仏教は同質の間違った起源に発しているはずではないか」と理解し、仏教の起源にあるブッダは、純一な、無誤謬な、理性そのものとでも言うべき人間として仮定されてしまうのです。

 まずわたくしたちは、資料に現れた複雑なブッダをめぐる叙述を複雑なままに記述し、そして今度は、その複雑さができるだけともに収まる、新たな次元を模索していかねばなりません。もしその作業が成功したなら、そのときは、釈尊とさまざまな大乗の仏が共存するに至った、仏教の歴史の訳柄が、手に取るように明らかになるかもしれません。