BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

よこみち【真読】№122「折々の愉しみ」

会えない人を「思い慕い」てその姿を絵図・形像に再現し自分のそばに置く。本編のfbアップにもコメントいただいたように、その行為は釈尊に限らず、この世に生きる人たちにも共通するものだろう。
 だが私は今回の本編を読んで、特に引かれたのは『西域記』のエピソードだった。優填王が釈尊を慕う思い高まり、没特伽羅尊者に作らせた栴檀の釈尊像。その像が、釈尊帰還の時に起ち上がって本物の釈尊を迎えたというくだり。なんというドラマティックな場面だろう、と思った。真の釈尊と作り物の釈尊との立場、そして真の釈尊へ寄せる周囲の絶対的な心服の様子がこの一場面に結晶している。
 仏教経典にはしばしばこうした心が捉えられる場面がある。たとえば『法華経』序品の最後のくだり。そのあらましは次のようだ。

 日月灯明如来の入滅ののち、妙光菩薩は妙法蓮華経を保持し、八十中劫という長い長い時のあいだ、人々のために説いた。さて妙光菩薩の 八百人の弟子たちのなかに、求名と呼ばれるものが いた。名利を求め、名声を博したいと願っていたが、経を読んでも理解できず、すぐ忘れてしまうのであった。しかし求名は一念発起 して善行を積み、諸仏に仕え敬い礼拝した。弥勒よ、その時の妙光菩薩は、誰あろう他ならぬこのわたしです。そして あの怠け者の求名菩薩は、あなただったのです。

 これを読んだ時も目の醒める思いがした。たった今まで会話していた弥勒と文殊。その内容は果てしなく遠い過去の物語。その登場人物の妙光菩薩と求名が、じつは今向き合っているあなたと私なのだという。瞬時のうちに太古の昔と現在の語り手が同化してしまうというマジックのような展開。

 語り継がれ読み継がれるテキストというのはこうしたすぐれた文学性によるところも大きいのだろうな。そして遅々たる進み方ながら飽きずにあれこれ拾い読みしている〈かみくひむし〉の愉しみもこういうところにあるのだ。

【真読】 №122「仏像を安置す」 巻五〈雑記部〉(『和漢真俗仏事編』web読書会)

テキスト http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/818707 コマ番号53

 木像・絵像を礼拝恭敬することは全く如来在世の尊を拝するに同じ。ゆえに仏滅後、絵・木の像を安じて拝せしむ。
 『円覚経』に云く、もしまた滅後に形像を施設して心に存し、目想し、正臆念を生ずれば、はた如来常住の日に同じ。
 ○『西域記』五に曰く、如来、正覚を成じて忉利天に昇りて、母のために説法して三月還りたまわず。優填王(うてんおう)、如来を思い慕いて如来の像を図せんと願う。ここにおいて没特伽羅尊者(もつどくがらそんじゃ)、神通力をもって工人を率いて天宮に上り、仏の妙相を観て栴檀をもって刻ましむ。しかるに如来天宮より還りたまうとき、栴檀の像、起って世尊を迎えたまう。その時、世尊、慰して曰く、「教化、労なりや。末世を開導したまえ」と。(これ仏像の始めなり)。
 ○『仏祖統記』に云く、『増一阿含経』を按ずるに、帝釈、仏を請じて忉利天に昇りて母のために説法す。優填王(うてんおう)、思い慕い栴檀をもって如来の像を作る。波斯匿王(はしのくおう)、これを聞いて紫磨金(しまごん)をもって像を作る。また高さ五尺なり。この二像、閻浮提(えんぶだい)の始めなり。

よこみち【真読】№121「教えてイイコト、ワルイコト」

たとえば仏像開眼の儀礼作法を知りたいとしよう。
 そうした事情に明るいどこかのお坊さんに聞きに行く。
「教えて下さいな」
「そんなこと簡単に教えられるもんじゃないよ」
「そんなけちなこと言わないで教えてよ」
「なに言ってんだ、そんな軽々しいもんじゃないんだよ」
「ちぇ、じゃあいいよ他の人に聞くから。べ~~だ」
 とこんなことはないだろうか。
 本編が誡めているのはまさにこのことだ。
 儀礼作法に限らない。声明の細かな節回しであるとか、祈祷太鼓の打ち方であるとか。もちろん仏教に限らず、どんな業界にもこうしたことはあるだろう。
 ひとつの技術や伝承の修得にはそれなりの修練や辛抱を経てはじめて師から伝授されるもので、軽はずみに教えを乞うのは失礼な行為だということを人は忘れがちだ。そのことを示すよいエピソードを禅宗は伝えている。世に名高い慧可断臂の場面。中国僧・慧可が少林寺坐禅修行を続けている達磨大師のもとを訪れ、入室を頼む場面だ。以下、道元の『正法眼蔵行持』巻より引用しよう。

コノトキ窮臘寒天ナリ、十二月初九夜トイフ。天大ニ雨雪ナラストモ、深山高峯ノ冬夜ハ、オモヒヤルニ、人物ノ窓前ニ立地スヘキニアラス。竹節ナホ破ス。オソレツヘキ時候ナリ。シカアルニ大雪匝地、埋山沒峯ナリ。破雪シテ道ヲモトム。イクハクノ嶮難ナリトカセン。
 ツヒニ祖室ニトツクトイヘトモ、入室ユルサレス。顧眄セサルカコトシ。コノ夜ネフラス、坐セス、ヤスムコトナシ。堅立不動ニシテ、アクルヲマツニ、夜雪ナサケナキカコトシ。ヤヤツモリテ腰ヲウツムアヒタ、オツルナミタ滴滴コホル。ナミタヲミルニ、ナミタヲカサヌ。身ヲカヘリミテ、身ヲカヘリミル。
 自惟スラク、「昔人、道ヲ求ムルニ、骨ヲ敲テ髄ヲ取リ、血ヲ刺シテ飢ヱヲ濟ヒ、髮ヲ布イテ泥ヲ掩ヒ、崖ニ投テ虎ニ飼フ。古尚ホ此ノ若シ、我レ又タ何ン人ソ」。カクノコトクオモフニ。志氣イヨイヨ勵志アリ。
 イマイフ「古尚ホ此ノ若シ、我レ又タ何ン人ソ」ヲ、晩進モワスレサルヘキナリ。シハラクコレヲワスルルトキ、永劫ノ沈溺アルナリ。カクノコトク自惟シテ、法ヲモトメ道ヲモトムル志氣ノミカサナル。澡雪ノ操ヲ操トセサルニヨリテ、シカアリケルナルヘシ。遲明ノヨルノ消息、ハカラントスルニ、肝膽モクタケヌルカコトシ、タタ身毛ノ寒怕セラルルノミナリ。
 初祖アハレミテ、昧旦ニトフ。「汝久シク雪中ニ立ツ、當ニ何事ヲカ求メン」ト。
 カクノコトクキクニ、二祖悲涙マスマスオトシテイハク、「惟タ願クハ和尚慈悲ヲモテ、甘露門ヲ開キ、廣ク群品ヲ度シ玉ヘ」。
 カクノコトクマウスニ、初祖曰ク、「諸佛無上ノ妙道ハ、曠劫ニ精勤シ行シ難キヲ能ク行シ、非忍ニシテ忍フ。豈ニ小徳小智、輕心慢心ヲ以テ、眞乘ヲ冀ハント欲センヤ。徒勞勤苦ナラン」。
 コノトキ二祖キキテ、イヨイヨ誨勵ス。ヒソカニ利刀ヲトリテ、ミツカラ左臂ヲ斷テ置于師前スルニ、初祖チナミニ、二祖コレ法器ナリトシリヌ。
 乃チ曰ク、「諸佛最初ニ道ヲ求ムル、法ノ爲ニ形ヲ忘レキ。汝今マ吾前ニ臂ヲ斷ツ。求ムル亦タ可ナル在リ」。
 コレヨリ堂奧ニイル。

 文中「骨ヲ敲テ髄ヲ取リ」とは、常啼菩薩が演法を求めて自分の太腿を割き、中から骨を取りだし、その中の随を取り出して見せ、絶命した話。「血ヲ刺シテ飢ヱヲ濟ヒ」とは、飢えた者を救うのに自分の身を刺して血を与えた話。「髮ヲ布イテ泥ヲ掩ヒ」とは、仏の為に自分の髪を泥の上に敷いた話。「崖ニ投テ虎ニ飼フ」とは、崖から身を投げて飢えた虎に与えた話。いずれも自分の身命を賭けて求法に臨んだエピソードだ。
 途中で達磨が諭す言葉が慧可にとってはことさら痛い。
 「諸佛無上ノ妙道ハ、曠劫ニ精勤シ行シ難キヲ能ク行シ、非忍ニシテ忍フ。豈ニ小徳小智、輕心慢心ヲ以テ、眞乘ヲ冀ハント欲センヤ。徒勞勤苦ナラン」
 仏たちが伝えてきた無上の妙道は、永劫の時を超えて行じがたきを行じ、忍びがたきを忍びて伝えてきたものだ。どうして小賢しいだけの軽慢な心根の分際で真如の教えなど求めようとするのか。(そんなところに突っ立っていたって)まったくの無駄骨だ。
 慧可が自分の左腕を切り落とすに至るにはこうした経緯の末だった。
 
 本編からはいささか重みが違うかもしれないが、しかしそれほど離れた話ではないと思う。「盗法の罪」という言葉も思い出されてくる。
 もっとも、だからと言って気安くものごとを聞くことを牽制するものでもない。気軽に聞いていいこと、悪いことをわきまえるエチケットを大切にしましょう、というくらいのことだけどね。

【真読】 №121「たやすく印明を見聞きする罪」 巻五〈雑記部〉(『和漢真俗仏事編』web読書会)

テキスト http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/818707 コマ番号53

 『集経』第一(仏頂壇法)、仏、諸の比丘に告げたまわく、「いまだ一曼荼羅道場に入らざる者は、為に三昧陀羅尼呪印を説くことを得ず。聴聞することを得ず。法を見ることを得ず。もし為に説けば、まさに地獄に堕すべし。その法を聴く者は愚痴の報を得る。たやすく法を見る者は鬼神に瞋呵さる」。

【真読】 №120「露わにして印を結ぶことを得ず」 巻五〈雑記部〉(『和漢真俗仏事編』web読書会)

 

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テキスト http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/818707 コマ番号52

 問う、印を結ぶに袈裟の下にし、あるいは衣袖の中にして手を露わさざるいわれは如何。
 答えて曰く、これ印呪を重んずる義なり。もし露わにし軽くすれば、悪鬼神に碍(さえ)られて成就せず。
 『陀羅尼集経』第一(仏頂壇法)云く、自らかつて三昧道場に入り難ければ、心を用いて護し命を軽くせざれ。露處(あらわ)に印呪法をなせば、悪鬼神のために便りを得ざる。

よこみち【真読】№117/118/119「数珠ってどうよ?」

この連載で複数の本編項目にひとつの「よこみち」ってはじめてかも。
 にしても数珠に対する思い入れは強いね。そもそも巻一の№1からして数珠のことを取り上げていた。
http://ryusen301.hatenablog.com/entry/2015/02/10/064322
巻五になると上掲の№117~119なんだけど、本編にはここで取り上げなかった「数珠の標幟」という項目もあるのだから、ここまでで数珠は五回も項目として挙げていることになる。子登の属する真言系の教えではこのように数珠に対する意味づけが重要視されているということなのだろう。
 そこで「よこみち」では、私の属する曹洞宗では数珠をどう見ていたかということを紹介して両者の対比を試みてみたい。
 とういうわけで道元の場合である。たずねてみると道元の言葉中に数珠を名指ししたものがある。次がそれである。

「寮中、高声に読経唫詠して、清衆を喧動すべからず。また励声を揚げて誦咒すべからず。また数珠を持して人に向うはこれ無礼なり。諸事須らく穏便なるべし」。

 これは道元の著『衆寮箴規』の一節。衆寮とは禅宗寺院の中に設けられた坐禅堂は別の、言わば修行僧の生活スペース。その室内における生活規律を定めたものがこの本である。「数珠を持して人に向うはこれ無礼なり」。う~む。こんなことって真言宗はもちろん他の宗派では言うものだろうか。
 道元ははじめ比叡山で修行したのだから天台密教の経験はある。たとえば抹香を手にすりつける塗香は今の曹洞宗ではほとんど行なっていない。しかし道元の著作の中には塗香してから仏像に向かうことが書いてある。数珠に関する伝統仏教鎌倉時代道元以前のという意味で)の所説を知らないはずはない。「人に向かう」時、という限定付きではあるが、道元の数珠に対する評価はかなり厳しいと言える。
 で、この厳しい路線を江戸時代になってさらに徹底させた禅僧がいた。その名は徳巌養存。道元の『衆寮箴規』の解説書『永平衆寮箴規然犀』を元禄十四年(一七〇一)に刊行する。その中でくだんの一節を次のように展開する。

 今、あるいは襟上に数珠を係け、あるいは掐(つまぐ)りて客に対する。もって厳具となす。矯異眩耀にしてもって利名をむ。これらをすなわち「威儀の賊」となす。我が祖、謂いつべし、澆季を明察すること星衡藻鑑と。

 近頃は、数珠を首輪のようにしたり、くりくりつまぐって客人に相い対したり者がいる。これは数珠を法具ではない厳具いわばアクセサリーとしているものだ。ことさらに素材に凝ってみたりきらびやかにしてみせたりしてちやほやされたがる。こういう者たちを「威儀の賊」というのだ。我が祖・道元禅師の言葉こそ、まさに言うべし、時代の末を明らかに見通せることは秤(はかり)目のごとく正鵠を射ているものだ、と。
 こんな試訳をしてみた。「矯異」の意がやや心許ないがどうだろう。ここでもっとも痛烈な一語は「威儀の賊」だ。さしずめ今風に言えば「ファッションなどにとらわれているうつけもの」(あ、言い回しがやや古いか)というところだろう。ここではすでに本編で複数の典拠を引いて示してきた頂髻、頸、手、臂にかける数珠の意義など一顧だにされていない。曹洞宗のある一面をぐんぐん延伸してゆくとこうなるといういい見本のような事例とも言える。おそらくこの言葉に共感する禅僧は少なくないはずだ。
 宮廷仏教として官寺の地位を連綿と継承してきた真言宗、自他ともに「土民禅」と称してひたすら都を忌避してきた曹洞宗。実際はそんなものではなかったが、なんとなくそんなステレオタイプをイメージしてしまう。
 かくいう私は、いい年した曹洞宗僧侶が、中高生のようにブレスレットよろしく法要時でもないふだんから手首に「厳具としての」数珠を掛けているのを見ると、あまりいい気はしないのである。