BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

【真読】 №125「礼拝」 巻五〈雑記部〉(『和漢真俗仏事編』web読書会)

テキスト http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/818707 コマ番号54

 仏を礼するに三拝をなさしむるは『智度論』に曰く、三毒を滅し、三宝を敬い、三身を求め、三界をなす等と(『義楚六帖』)。
 ○『増一阿含経』に礼拝の五功徳を説きたまえり。
 一には、端正。謂く、仏の相好を見て歓喜するが故に、この因縁を以て来世には相貌端正なり。
 二には、好声。謂く、如来の相好を見て三たび南無仏と称名するに因って、この因縁を以て来世に好き音声を得る。
 三には、多財。謂く、如来の前に散華然燈して礼するを以て、来世には大財宝を獲る。
 四には、長者。謂く、如来の相好を見て至心に礼するを以て、来世には長者の家に生ず。
 五には、命終わりて善処天上に生ず。謂く、如来の功徳を恭敬礼拝するに由って、来世にかくのごとし。
 ○按ずるに礼拝に九種ある(『唯識演秘』に云く、『西域記』に云く、西方の敬儀に総じて九種あり。一には発言等)中に、五体投地の礼を上品とす。『智度論』に曰く、礼法に三有り。一には、問訊。下品の礼と名づく。二には、膝を屈し頭べを地に至らずして長跪す。中品の礼と名づく。三には、頭べ地に至らしめ頂礼す。上品の礼と名づく。(略文) 

よこみち【真読】№124「聖なる場所」

 

「道場」という言葉が「聖道を証する所」にもとづく言葉だと知ったのはこの本編が初めてだった。それより先に「剣道場」や「空手道場」などの用語に慣れていたのでごく一般的に、武道をならう施設、という解釈をしていた。本編の引く『西域記』がオリジナルとすれば、日本の武「道場」のルーツは仏教にあるのだろうか。そのあたりの前後関係についてはもう少し調べないとなんとも言えない。ただ、「民謡道場」とか「そば打ち道場」「ピザ道場」など、なにかを作り上げる、あるいは技術を修得することを目的とした所に「道場」と名づけるのは、「武道場」の延長なのだろう。
 そしておそらくそれと同じ方向にあるのが、「書道教室」「茶道教室」などの「教室」の用例だと思う。これを日本人の特性と考えてよいのかどうかよくわからないが、何事かをならう過程のことを「道」と名づけて、ある精神性をその中心に植え込んでいくことがある。「空手の道」「茶の道」等など。
 武道場に神棚を設置することは「近代」の作為であったという議論があるみたいだが、条例等のことはさておいても、「道」という捉え方のベースになんらかの「神」を見いだしていることは近代以前の例にも数多く見いだせそうだ。いわゆる「聖なる場所」が別の文脈を通ってまた別の「聖なる場所」になっているというわけだ。
 とこんなコメントに続いてはなはだ低俗なオチになって恐縮だけど、かつて街中を歩いてきた時のことである。冒頭の画像のような「お琴教室」の看板が目に入った。その時、いくぶん疲れていたのだろうか。アナグラムの落し穴に落ちた。奇怪な疑惑に捉えられたのである。「男の教室」ってなにを教えるんだろう?

【真読】 №124「道場」 巻五〈雑記部〉(『和漢真俗仏事編』web読書会)

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 仏の在(いま)す處を道場と云うは、『西域記』第八に曰く、賢劫の千仏、金剛座に座し金剛定に入りたまう。聖道を証する所なればまた道場という。
 ○按ずるに、秘軌の中には本尊の在す所を精室と名づけ、または神室と称(なづ)く。

よこみち【真読】№123「教えてSiri」

とても初歩的なことのように思えていささか恥ずかしいのだけど、正直に話してどなたかに教えていただこうと思う。

 うちは曹洞宗のお寺だけど、庫裏の中に仏壇があって、そこには私の祖父母ほか亡くなった親族の位牌を祀っている。で、そこを「お内仏」と呼んでいる。
 たまたま近頃ある出版物に掲載する読み物の原稿で、登場人物のお寺のこどもがお内仏の祖父の遺影を指さす場面を書いたところ、編集担当者から「お内仏って何ですか?」と聞かれた。え、それ知らないの?と説明すると、彼もお寺の子弟だったのだが、「うちは今も元気な父の代からお寺の住職になったので、お寺の中には親族の仏壇がないんです」という答え。あ、そういうケースもありか、となんとなく納得した。
 今回の本編の言う「内持仏」とはその発生事情が違うだろうと思うのだが、そんなわけで「内仏」についてちょっとひっかかってしまった。
 浄土真宗以外の日本仏教諸宗派が住職の婚姻を公認されるのは一般に明治五年からと言われている。当時は賛否色々だったようだが、結局、婚姻し家族生活を営む「お坊さん家族」が日本中を席巻してしまった。こうなると家族の中から亡くなった者は順次故人として仏になり、仏壇に入る。それが今言った「住職家族の故人を祀る仏壇」としての「お内仏」というわけだろうか。
 そんなことを思いながらあれこれ見ていたら、浄土真宗の「お内仏」の考え方に出会った。真宗では仏壇と内仏はちゃんと区別するのだという。

 以下はネットで拾った真宗大谷派の例。

 浄土真宗では、「お仏壇」のことを特に「お内仏」といいます。みなさん、お仏壇とお内仏の違いがわかりますか。これがわからないと、真宗南無阿弥陀仏の教えがわかりませんよ。
 みなさんの町に、「仏壇店」があるでしょう。全国に○○仏壇店とか、何々仏壇店とかあります。でも、○○お内仏店とか、何々お内仏店とかはありません。これはどういうことでしょうか。「仏壇」は売買の対象で、売ったり買ったりしますが、「お内仏」とは売ったり買ったりする対象ではないということです。我が家にお内仏があるということは、我が家には“金では買えんものがあるのだよ”ということを教えているのです。金で買えんものとは、“いのち”です。お内仏は、いのちの尊さを教えている。そういう人間形成の文化を“お内仏”といいならわして伝えているのです。お仏壇を買い求めてくる。そして、その中に阿弥陀様の軸をお掛けし合掌する。その瞬間に、仏壇はお内仏になる。手を合わせなければならんほどの大切なことを、み仏に手を合わせる形で教えてあるのです。そして、“いのち限りなからん、光り限りなからん”とみ仏より私に呼びかけられているのです。
 日頃、私達はお仏壇と言いならわし、又、聞きなれていますが、この違いだけは認識しておいて下さい。(引用以上)

 ふむふむ。こうなると仏壇と内仏とを同義に考えていた自分をちと反省したりする。でも、ということはうちの方の宗派で仏壇を内仏と呼ぶようになったのは、近代以後のことだとしても、それは真宗経由の呼称だったのだろうか。

 さらにうちのような地方の小寺では本堂以外に(家族の仏壇以外の)、別置の仏像安置の場がないので、「内持仏堂」「持仏堂」と呼んでいる場所がないのだが、「内持仏堂」と「お内仏」の連続性ってあるのかな?

【真読】 №123「内持仏堂」 巻五〈雑記部〉(『和漢真俗仏事編』web読書会)

 問う、吾が邦、本堂の外、方丈あるいは寮の内に仏像を安じて内持仏堂と云う、これ本拠ありや。
 答えて曰く、義浄の『南海寄帰伝』に出たり。彼に云く、僧房の内、尊像を安ずることあり。あるいは窓上において、あるいは故(ことさら)に龕を作る。食坐の時、像前に布慢をして遮障す。朝朝に洗沐して毎(つね)に香花を薦め、午午に虔恭して餐に随て奉献す。ないし南海諸州の法、またこれに同じ。これすなわち私房尋常の礼敬の軌なり。その寺家の尊像、ならびに悉く別に堂殿あり。

よこみち【真読】№122「折々の愉しみ」

会えない人を「思い慕い」てその姿を絵図・形像に再現し自分のそばに置く。本編のfbアップにもコメントいただいたように、その行為は釈尊に限らず、この世に生きる人たちにも共通するものだろう。
 だが私は今回の本編を読んで、特に引かれたのは『西域記』のエピソードだった。優填王が釈尊を慕う思い高まり、没特伽羅尊者に作らせた栴檀の釈尊像。その像が、釈尊帰還の時に起ち上がって本物の釈尊を迎えたというくだり。なんというドラマティックな場面だろう、と思った。真の釈尊と作り物の釈尊との立場、そして真の釈尊へ寄せる周囲の絶対的な心服の様子がこの一場面に結晶している。
 仏教経典にはしばしばこうした心が捉えられる場面がある。たとえば『法華経』序品の最後のくだり。そのあらましは次のようだ。

 日月灯明如来の入滅ののち、妙光菩薩は妙法蓮華経を保持し、八十中劫という長い長い時のあいだ、人々のために説いた。さて妙光菩薩の 八百人の弟子たちのなかに、求名と呼ばれるものが いた。名利を求め、名声を博したいと願っていたが、経を読んでも理解できず、すぐ忘れてしまうのであった。しかし求名は一念発起 して善行を積み、諸仏に仕え敬い礼拝した。弥勒よ、その時の妙光菩薩は、誰あろう他ならぬこのわたしです。そして あの怠け者の求名菩薩は、あなただったのです。

 これを読んだ時も目の醒める思いがした。たった今まで会話していた弥勒と文殊。その内容は果てしなく遠い過去の物語。その登場人物の妙光菩薩と求名が、じつは今向き合っているあなたと私なのだという。瞬時のうちに太古の昔と現在の語り手が同化してしまうというマジックのような展開。

 語り継がれ読み継がれるテキストというのはこうしたすぐれた文学性によるところも大きいのだろうな。そして遅々たる進み方ながら飽きずにあれこれ拾い読みしている〈かみくひむし〉の愉しみもこういうところにあるのだ。

【真読】 №122「仏像を安置す」 巻五〈雑記部〉(『和漢真俗仏事編』web読書会)

テキスト http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/818707 コマ番号53

 木像・絵像を礼拝恭敬することは全く如来在世の尊を拝するに同じ。ゆえに仏滅後、絵・木の像を安じて拝せしむ。
 『円覚経』に云く、もしまた滅後に形像を施設して心に存し、目想し、正臆念を生ずれば、はた如来常住の日に同じ。
 ○『西域記』五に曰く、如来、正覚を成じて忉利天に昇りて、母のために説法して三月還りたまわず。優填王(うてんおう)、如来を思い慕いて如来の像を図せんと願う。ここにおいて没特伽羅尊者(もつどくがらそんじゃ)、神通力をもって工人を率いて天宮に上り、仏の妙相を観て栴檀をもって刻ましむ。しかるに如来天宮より還りたまうとき、栴檀の像、起って世尊を迎えたまう。その時、世尊、慰して曰く、「教化、労なりや。末世を開導したまえ」と。(これ仏像の始めなり)。
 ○『仏祖統記』に云く、『増一阿含経』を按ずるに、帝釈、仏を請じて忉利天に昇りて母のために説法す。優填王(うてんおう)、思い慕い栴檀をもって如来の像を作る。波斯匿王(はしのくおう)、これを聞いて紫磨金(しまごん)をもって像を作る。また高さ五尺なり。この二像、閻浮提(えんぶだい)の始めなり。