BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

久我尚寛 「報謝御和讃」解説

私がこの御和讃を作詞しましたのは、先年山形県の余目に梅花流県奉詠大会があったとき、水島師範と共に審査員としてご招待を受け、藤島町法眼寺(百瀬師範の御自坊)に拝宿したときのことであります。
 百瀬夫人と御同行の石黒夫人とが交々ご接待に出られて、その夜すばらしい玉露を薦められました。その香りその味わい余りにも美味しかったので、私は遂に三煎まで所望して甘味に浸りました。しかし因果応報、その夜床についたが、どうにも眼が冴えて眠られません。そこで思い立ったのが報謝和讃の作詞で、先づ「お茶」の章が先に出来、次に「宿借りて」の章が生まれたので、これを忘れないようにと懐中電灯の光で、懐紙に書きつけました。その後さらに第三番の歌詞が出来たので、翌朝その喜びを百瀬師範に語ったところ、水島師範も大変喜んでくださいました。
 その日は百瀬師範の御案内で山形の霊山羽黒山に登り、温海温泉に泊まりました。道中、私は、思い出しては歌詞の推敲をしつつ、口ずさみながら、作曲節づけの工夫をしていました。そして温海温泉に着いた時、その試作を初めて口唱発表しました。
 その後自坊に帰って、楽器に合わせ採譜し、毎月実施する自坊の本堂再建托鉢の際には、ご接待を受けた答礼に、この御和讃を独唱していました。
 そして昨年二月二十日のことです。私達同行五名の子弟が、豊橋市内大山塚方面を托鉢していた時のことです。同地の梅花流御同行が案内役に当たって下さって、豊橋五大製菓に数えられる水島製菓の御本宅にお導き下さいました。お手厚い茶菓のご接待を受けた後で、一同が御仏壇へ読経して、私が帰り際に玄関先で報謝和讃を独りで奉詠しました。その時奥様が感激に充ちた面ざしで深くうなだれている様子が、如何にも殊勝で印象に残りました。
 その角先を出た時、私は思わず同行を顧みて「初めてお眼にかかった奥様だが、もの優しいお方だナ!」とつぶやきました。
 「そうです、しかし何だか物淋しい気がしましたネ」
 「そう云えば、影が薄いような・・・」
 「或いはご病気上がりか何かではないでしょうか?」
 一行が思い合わせたようにそんな噂を交わしましたが、その奥様が急逝しようとはその時誰一人知る由もありませんでした。
 私は新聞紙の死亡広告で、この奥様の急逝を知った時! 飛び上がるほどの驚きを覚えました。〈一期一会のこの世ぞと思えば尊し今日の縁、人の情けは末かけて忘れざらまし諸共に〉その折りの歌詞はそうなっていて、それを私が一人でお唱えしたのでありましたが、全くその歌詞の通り、この奥様とのご縁は、この初めの際会が最後のお別れとなったのであります。正に「一期一会」であります。私はこの時ほど、人生朝露の理を深く感じさせられたことはありません。お通夜の時、私がこの思い出を語って、報謝御和讃をお唱えした時、並み居る人々は皆泣き崩れました。その時の感動は今もなお、忘れられぬ思い出であります。この御和讃は発表までに、そうした蔭の話のあることもご参考にして下さって、これを活用していただきたいと思います。合掌

 感恩報謝の歌
 あな尊とし! 有縁無縁の諸人(もろびと)の 深き恵みを 受くる縁(えにし)は

 

高田道見と赤松月船

『跳龍』昭和51年4月号
「心の花は咲きそろう」
三宝御和讃解説(上)」赤松月船

(前略)この三宝御和讃は、高田道見老師のお作をもととして、専門委員会の方々が手をつくして、補正の上、こういう形に完成したものであります。
 今から六十年前、三宝唱歌として、オルガンを弾いてうたったものであります。当時高田老師は、瑞応寺僧堂の堂頭師家であり、東京の芝愛宕町に仏教殿(ママ)を経営して、仏教一般について、平明にして行届いた解説を旨とした新聞雑誌、並びに仏書の刊行をなさっておられました。
 夏の間は瑞応寺にお帰りになり、秋冬春は、仏教殿(ママ)においでなりましたが、どちらにも十四、五人の随身がおりました。暁天坐禅と朝課は、どんなに執筆が忙しくても欠かされたことはなく、若い間に勉強しておかなくてはいけないというので、檀務の時間を案配して、必ず講本をして下さった。どちらにおいでになっても粥、飯粥の食事、唯一の贅沢というのが「うどん」と「餅」を召し上がることでした。私は、瑞応寺時代は方丈行者、仏教館にあっては、編集のお手伝いをして、前後五年間お世話になりました。
 お亡くなりになって何年かたった時、追悼法要を洞上記者団主催のもと、大本山総持寺出張所で、栗山泰音禅師を導師に仰いで営んだ際栗山禅師の懐旧記に、「高田さんはもともと基礎的な学問をなさったお方ではなく、仏教をわかりやすく解説して、世の中に伝えたいという熱意から、勉強をしながら筆を執り、筆を執りながら勉強をなさった。全く精進努力の固まりのような人であった」栗山禅師は宗門のジャーナリストとしては、先覚のお方であり、学識といい、文章の確実で新鮮であったこと、そのエッセイ集「自選集」を拝見するたびに、今なお脈々として感銘の迫るものがある。高田老師は、禅師のもとに行って、文章上のいろいろな点で指導をお受けになったようで、栗山禅師のその時のお話の中にも、例話をいくつかお上げになっていた記憶がある。

追悼

2017年11月25日

 

この日、管理人を失ったあるSNSアカウントが二つ。

 

1~3ヶ月に一度くらいは顔を合わせて食事していた。

自分よりも5歳下の女性。

舌を巻くほどに聡明でものおじせずに自分の意見をつらぬく人。

どういうわけか慕ってくれて、いつも向こうから連絡をくれた。

 

体の不調をおぼえ、検査した結果がステージ4。

来年まではもたない、と。

最初に打ち明けてくれたのが去年のことだった。

「私が死んだらお葬式出してください」。

 

とまどいつつも承諾。

隣県の総合病院。

見舞いに行ったのは3回。

訃報が届いたのは今日。

 

このひと月、思いはありつつも見舞いに足を運んでいなかったことが悔やまれる。

弱みを見せる人ではないのに「気弱になりました」などと漏らすようになっていた。

「思うことはせいっぱいやったけど、これでおしまいかなって思うと残念」

そう言いながら涙をこぼしていた。

 

白くなった顔に数時間前まであったはずの表情を探る。

病状の急変を聞いて駆けつけた時には遅かった、というご主人。

日ごろは健康そのものだったのに、という実父。

なんとか院号のお葬式出してやりたい、という義母。

 

認知症になった義父の介護を一身に引き受け

身内以外には理解してもらえない理不尽にじっと耐えていた。

複数の外国語に堪能で数十カ国を訪ね歩いてきたまれに見る才媛が

くだらない田舎町の陰湿な気風に喘いでいた。

 

SNSに残された膨大なブログの量

好奇心の赴くままに綴った諸方面への文筆。

「本にしたらと友達が勧めてくれて」とその実現に動き出しそうだったが

ついに完成は見なかった。

 

痛快にさえ思える健啖家。

自らの振るう包丁も料理の東西を問わず達者だった。

食べるの好き飲むの好き話すの好き歌うの好き。

才媛はいろんな意味で才媛だった。

 

客でにぎやかなスナック。

「ここ入るの初めて」と言いつつドアを開け

すぐに曲を選んで「じゃ歌いま~す」

マイクを離したのは矢継ぎ早に4~5曲歌った後だった。

 

残されたSNSアカウント二つ

FBは外国の友達用だと言っていた。

ふだんから更新は控えめ。

饒舌に更新していたのはFC2のブログ。

 

2009年から毎月20越えで綴ったブログは分厚く長大な小説にも似ている。

管理人自ら凍結を設定するか近親者が設定すればそれで終わると言うがどうだろう。

M子さん

まだしばらくはあなたの言葉に触れていたいよ。

 

 

 

 

よこみち【真読】 №133「親孝行、したい時には・・」

 恩愛に関する話題はきっと私の中でも関心の度合いが高いのだろう。
「流転三界中 恩愛不能断 棄恩入無為 真実報恩者」
 この言葉に関するテーマは、これまでにも両親への孝養や、本朝高僧傳史上最も孝をつくしたと伝えられる元政のことなどたびたび取り上げてきた。
http://ryusen301.hatenablog.com/entry/2014/12/28/120642
http://ryusen301.hatenablog.com/entry/2016/11/24/160127
http://ryusen301.hatenablog.com/entry/2017/01/30/065820
 くだんの日蓮宗僧侶・元政こと日政の著した『釈氏二十四孝』という書がある。元政33歳、明暦元年(1655)の刊行である。その序文を素材にして若干のコメントをしておきたい。
 この本、釈氏すなわち仏教僧の孝行話を24人分集めたもので、中国僧17人、日本僧7人のエピソードを収めている。その内容は今回は触らずに、序の部分を読んでみよう。

 童蒙、予に問うて曰く、「仏法の万行、何を以てか本となす」。
 予、これに応えて曰く、「けだし万行は戒を以て首となし、孝を以て本となす。わが大覚慈尊、その因縁、出世の初めにあたって大戒を説き、すなわち言く“孝を名づけて戒となす”と。
 孝とは何ぞや。
 順の謂いなり。
 順とは何ぞや。性に順(したが)うの謂いなり。
 ここを以て、行は万殊なりといえども、孝を挙ぐればすなわち収まり、徳は無量なりといえども、性を語ればすなわち摂す。孝の道たるやかくのごとく大にしてかつ備われり。
 悲しいかな能仁没して慈氏いまだ出でず。魔説並び行われ、異端競い起つる。
 その放曠虚頭の徒はすなわち謂く、“なんぞ細行に膠して大道を妨げん。父を殺すもまた得たり。母を殺すもまた得たり”と。
 これ漫(みだ)りに卓挙不羈の跡を見て、その常に反(そむ)きて道に合(かな)う所以を知らざるなり。
 庸魂不肖の類はすなわち謂く、“出家の人は、恩を棄てて道に入る。すなわちこれ恩を報ずと。なんぞ定省に労せん”と。
 これまた僅(わず)かに無為報恩の言を聞いて、その恩を棄てて恩を報ずる所以を解せざるなり。
 これみな後世闡提の党を引きて、真に背き、妄に向かいて、同じく火坑に入る。悲しまざるベけんや。ああ、子、逆してこれを逃れよや」。
 
 ここにおいても話題の要は「流転三界中云々」である。「放曠虚頭の徒」「庸魂不肖の類」とはいずれも僧籍にある者をさすのだろう。放曠とは一般に自由気ままの意で必ずしも悪い意味ではないが、ここでは自分勝手な解釈を振り回す頭の空っぽなやつら、というニュアンスだろう。そして凡庸なる魂の愚か者たちということか。そんな連中は、棄恩の文字をごく表層的に捉え、親に対する孝養の念を捨て去ることと理解し、あまつさえ両親を殺してもかまわぬなどど口頭に上ることもあったのだろう。しかし元政は、それは真実の意味を介していないものの理解であると非難し、そのような輩は地獄の業火に焼かれてしまうという。
 十七世紀半ばのことである。これが儒仏論争のネタであれば、儒教側の批判に対する仏教側の対抗説と位置づけられるものだが、この文章を見る限り、元政の「敵」は同じ仏教者側の「徒類」のようだ。
 これは現代においても耳にすることがある。「俺は出家の身なんだから、俗世の親のことなんてあとは知ったこっちゃない」。元政の批判は今日のそうした者たちへも及んでいる。
 
 曹洞宗のことをかえりみれば、道元は早くに母とは死別したらしいが、その出家の動機は母、祖母、叔母たちの菩提供養にあった。瑩山は人ぞしる母に孝養を尽くした人であり、その師・義介もまた養母堂を建てて老母を住まわせた。禅宗といえども、必ずしも黄檗のように実母の川に沈みゆくのをタイマツをかざして見送ったエピソードだけではない。先ほどの「父を殺し母を殺し」のフレーズは、おそらく禅語の「殺仏殺祖」などから来ているのだろうけど、非世襲時代の禅宗といえども、孝養の大切さは軽んじられていない。
こうしたことは世襲一般化時代の現代にあってもっと注目されてよいことだと思う。「出家を標榜」などど絵空事をいつまでも口にしていないで、婚姻し、家庭を営み、実子に寺を相続させていくことをきちんと中心に据えた僧侶・寺院の「依るべきことば」を、とっくの昔に確立しなければならないのだ。

【真読】 №133「父母を寺に養う」 巻六〈雑記部之余〉(『和漢真俗仏事編』web読書会)

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テキスト http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/818707 コマ番号57

 僧に貧銭の父母あって寺に養はるるあり。三宝物を費やすゆえに、たとい親なりとも罪を結せんかと疑う者あり。
 僧はなお孝養を知るべし。なんぞ疑はん。今『行持鈔』の説を出す、これを読みてその趣を知るべし。
 ○『善見律』に曰く、「父母、貧銭ならば、寺内に在りて供養せよ」。
 ○また『僧祇律』に引いて云く、「もし父母、貧銭ならば、まさに寺中に至るべし。もし信有る者は、自ら恣に与えて、乏しきこと無きことを得せしむべし」。
 ○『五百問』に曰く、「父母、盲(めし)いしもしくは病んで、人の供給すること無くば、乞食して半を与えることを得すべし。自らよく紡績し衣食を与えば、罪を犯す」。(已上の二部の説は、父母、我が財了るに、寺に養わるるは、三宝物を貪るの罪ありと)
 ○『五分律』に云く、「畢陵伽、父母貧窮にして衣食を以て供養す。仏の言たまわく、“もし人、百年の中、右の肩に父を担い、左の肩に母を担い、上に於いて大小便利せしめ、世の珍奇の衣服を極めて供養するも、なお須臾の恩を、報ずることあたわず。今よりゆるす、比丘、心を尽くして父母を供養することを。しからざれば重罪を得る”」。

よこみち【真読】№132「暮らしのおなやみ解決します」

日常的な仏事の疑問回答集というスタイルの『真俗仏事篇』において、今回のような話題はやや異質だった。吠える犬を制する・・。
 こんなおよそ「仏事」とは遠い話題もしばしば出てくるところがこの本のおもしろいところなのだが、こんなところにオモシロサを感じてしまう私のような人たちにオススメしたい本がある。それは『修験深秘行法符呪集』という。タイトル通り修験道のもので、さまざまな行法万般にわたる護符作成法や呪法儀礼を集めたものだ。れっきとした仏教儀式に関わるものはむろんだが、あやしげでおもしろげなものも数多い。いくつかのその項目を挙げてみよう。
 火傷を治す呪
 酒の口を開ける加持
 悪酒を善くする符
 死霊教化の事
 狐の荒れ啼き亘る時立てる符形
 鼬(いたち)道を切る時立てる符
 鼠(ねずみ)退治の符
 鼠衣装等を喰う時立てる符
 盗人調伏の事
 悪人来を除(さ)ける符呪
 疱瘡を除(よ)けの符
 歯痛を治す法
 魚骨咽喉に立つ時抜く呪
 田蟲食損の祈祷札
 衆人愛敬の大事
 恋合の呪
 離別の法
 求子の大事
 難産護符
 小児の夜泣きを留める加持法
 etc.
 という具合である。まさに生活全般にわたる便利百科のような観がある。ご関心の御仁はぜひ実際に本書を手に取ってご覧いただきたい。
 と全くここで内容に触れないのも不親切だと思うので、一つだけご紹介しよう。それは「離別法」である。この秘法、男女間に関することらしい。別れたいがなかなか別れられない場合に、あとくされ無くきれいに別れるためのもののようだ。以下、秘法の紹介である。

 男より女を離別せんと思はば、女の着物の襟に本人の知らざるようにしてこの符を入れ置くべし。女より男を離別せんと思はば、男の着物の襟に入れ置くべし。
 この符を書くには、二又川の水にて、未だ別れざる所、まさに別れんとする所の水を以て書くべし。またこの符を書く墨へ、茗荷と山鳥の尾を黒焼きにして加え用いるなり。
 加持には観音経、心経、金輪の呪、荒神の呪を以てよくよく祈願するなり。

以上が本文。そして護符の書き様は次のようなものだ。

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 二股に分かれる川の、その別れ際の処の水を用いて墨を摺りその墨液にて書くのだそうな。「我れ思ふ、君の心ぞ離れつる。君も思はじ、我れも思はじ」なるほどねえ。

 実際にこの問題でお悩みの方もあるだろう。ものは試し。ぜひとも実行してはどうだろう。そしてその首尾ついてもぜひ教えてくださるとありがたい。

 ただし、もしも間柄が一層複雑になったとしても、このサイトおよび管理人は一切の責任を負わないことをお断りしておく。

【真読】 №132「吠える犬を制する法」 巻六〈雑記部之余〉(『和漢真俗仏事編』web読書会)

テキスト http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/818707 コマ番号57

 俗説に、狗が吠えかかる時、手を握って向かえば犬退く、これ犬を畏(おど)す術と云う。
 按ずるにこれもまた秘軌より出てて俗に伝ふるか。『大元帥軌』中(十三葉)云く、「もし犬、人を吠えば、手を以てこれに指し、すなわち地に於いて獅子吼王の虎を捉ふるを画け。犬、すなわち性を失って去る」。