BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

よこみち【真読】 №144「おまえはどうだ?」

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 与えられた定命業をまっとうせず、不慮にして夭死してしまうことを非業の死と言うなら、それは普通のことではない。それゆえに非日常的なことであり不合理なことでもあり、絶対的少数なことであるはずだ。
 しかし七年前の三月十一日に起こった出来事はその不合理なことが圧倒的多数となった。国内のニュースでは公開されなかった人体の損壊を含む現地の惨状が、海外のメディアでは放映された。しかし多くの日本人が目にすることのなかったその光景は現地の人々にとってはごく一握りのものに過ぎなかった。あの体験を乗りこえた人々がこれからの日本の礎となることを信じている。あの体験によっていのちを喪われた人々があの世からこの世の成り行きを見守っていると信じている。
 ほんの四日前まではさかんにそんな空気を煽っていたメディアは、(ごく一部を除けば)今日はすっかりおとなしくなって、いやそのことを忘れたように他のできごとをつつきまわしている。
 メディアだけではない。311に乗り遅れまいと現地へ向いていたさまざまな動きが、その日を過ぎたとたんになりをひそめてしまった。
 たまたま本編を読み進めてきてこの機会にめぐりたった「非業の死」という項目。そんなことをふり返る試金石のように用意されていたのかもしれない。

【真読】 №144「非業の死」 巻六〈雑記部之余〉(『和漢真俗仏事編』web読書会)

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テキスト http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/818707 コマ番号61

 非業の死とは夭死(ようし・わかじに)を云う。閻浮の人寿の定業に非ざれば、非業の死と云う。
 その本説を出さば、『金剛寿命陀羅尼経』に曰く、その時世尊、東方に向かって弾指し、一切の如来を招集してこの誓言をなしたまわく、「十方一切の如来、、衆生のためにゆえに菩提を証せば、みな我を助けたまえ、今我れ一切如来の威神力を以ての故に、悉く一切衆生の非命の業(非業の死なり)を転じて、寿命を増さしめん。我れ昔よりいまだ衆生のために、この法輪を転ぜしめず。今まさに転じて、よく衆生をして寿命・色力みな成就することを得て、夭死の怖れを無からしめん(乃至)一切如来寿命陀羅尼を説いて曰く(云々)」。

よこみち【真読】 №143「HAPPY BIRTHDAY」

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 子供の頃、誕生日と云えば友達を呼んでささやかな会食をしたり、親から玩具をもらって喜んだりという思い出がある。自分が子の親になってつくづく思うのだが、あれは親が子供の喜ぶ顔を見たくて行う家庭行事だったのだなとふり返っている。
 そんな俗っぽいことが仏教経典にも典拠があるということは意外なことだった。と同時に、それを意外と受けとめたということは、まだまだ自分には世俗の対極にあるものが仏教だという幻想が根強いのだなと反省した。この『真俗仏事編』を読みすすめてくるうちにしばしば経験したことは、ステレオタイプのように思っていた真(仏教)と俗(世俗)のあいだには思っていたほどの深い溝はなく、どちらも人間のいとなみとして同じ地平に根ざしていたという「気づき」だった。
 人間が考え出し、時を重ねるほどに遠い高みへとそのイメージをふくらませてきた仏教が、ほんとうは日常的、普遍的な人間の考えの内にあると云うことを、いつしか私たちは忘れていたのかもしれない。そんなことを今回もまた気づかされちゃったな。
 お誕生日おめでと。

【真読】 №143「誕生日の賀」 巻六〈雑記部之余〉(『和漢真俗仏事編』web読書会)

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 テキスト http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/818707 コマ番号61

 俗に毎年の誕生日の賀をなすあり。
 按ずるに、秘軌にこの法、出でたり。『金剛寿命陀羅尼念誦法』に曰く、もしよく三長斎月(正・五・九月なり)或いは自らの本生日(誕生日なり)に於いて、この供養をなせば、よく災難を除き、寿命を増益す(乃至)一切の賢聖、その人を擁護す、と。

よこみち【真読】 №142「大人になんてなりたくない」

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 なべて生き物は年経ることによって成熟するものだ、と若い頃は思っていた。だがまわりを見回し自分を省みてどうもそうではないということが明らかになってきた。複数の経験から「なれ」を装う術は多くの人が見につけてゆくが、いったん切羽詰まった場面になるといわゆる「大人の対応」のできないことはままある。本編のように年ばかり食っても幼い振る舞いしかできないと批判されるのはなにも阿難だけではない。
 だが外見上は老人で中身は年少者という設定でも、必ずしも幼稚さ・未成熟というマイナス要因をかかえていない例もある。たとえば「ハウルの動く城」のソフィーがそれだ。荒れ地の魔女の魔法により老婆の姿にさせられたソフィーだが、彼女の資質は決して劣性のものではなかった。
 一方、外見は年少に見えつつも中身は成熟(ときに老成)している例もある。言うなれば「白髪の年少」じゃなくて「年少の白髪」というところか。
 たとえば名探偵コナン。その独白にあるように「たった一つの真実見抜く見た目は子供、頭脳は大人、その名は、名探偵コナン」となかなかわかりやすい。
 この例はかなりありそうだが、個人的に興味引かれる例をあと少し。
 孤児院育ちで、とある流産で子を喪った夫妻に引き取られていく少女エスター。あのじわじわ来る怖さはあとを引きましたね。
 もうひとり、「ブリキの太鼓」のオスカル。まだ二十歳そこそこで名画座でこれを見た時はすごかったなあ。馬の首のシーンなんてトラウマものだった。「ブリキの太鼓」の独特なのは、ほかの主人公達はなんらかの不可抗力によって肉体的な成長が止まる、あるいは時間的に遡行して年少化するのに対して、オスカルの場合は自らの意志で成長の停止・進行を制禦出来るところ。エスタ-の場合は成熟した女性になりたくてもフィジカルにはそうなれなかった悲哀があったが、その意味ではオスカルの場合はこれと対照的。歳月を経るに従って俗悪なものにまみれていく「人間の成長」を忌避したい気持ちは、おそらく多くの人たちが経験するものだと思うが、オスカルはあえてそのブレーキをかけたのだった。
 考えてみると白髪と年少とは、若さと老いをめぐるかなり普遍的なテーマだったと気がつく。子登がこのテーマを立項したのも、なにかそんなところに惹かれたのじゃないだろうかと、つい勘ぐってみたくなる。

【真読】 №142「白髪の年少」 巻六〈雑記部之余〉(『和漢真俗仏事編』web読書会)

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テキスト http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/818707 コマ番号60

 たとひ白髪の老僧なりとも、無徳なれば小僧に同じ。これを白髪の年少と云う。『行持鈔』に云く、律の中に、阿難、衆を摂するに無法なるを、迦葉見て呵して「年少」と呼ぶ。阿難、問うて云く「我れ今、頭白し。何故に年少と呼びたまう」。迦葉、答えて曰く「汝、善く察することあらざれば年少に同じ」と。

よこみち【真読】 №141「やけどするわよ」

 かつて、近くのお寺でぼや火事があり、お見舞いに伺った。庫裏には方丈様がおいでになり、そのお寺の総代さんが二人ほどいて、事の対処に相談中のようすだった。表書きに「祝融見舞い」としたためた赤のし紙の清酒二升を床の間に捧げ、このたびは大変なことでしたと口上を述べた。
 と、居合わせた総代さんの一人が床の間の品を怪訝そうに見つめながら私にこう言った。
 「方丈さん、これはなんと読むんですか」
 「しゅくゆうと読みますが」
 「赤のしにお祝いというのはどういうことですか」
 険のある口調を隠そうともせずに総代さんが重ねて言う。
 なにか怒っているのだろうと不審に思い、すぐに気がついた。
 「あ、この“祝”とあるのは“お祝いの”意味じゃないんですよ。“祝融”と言うのは火事のことで、もともとは火の神様ということなんです」
 あわててそう弁解したが、向こうは自分たちのお寺が火事で大変な目に遭い、こうして深刻な相談をしているのに、「お祝い」とはどんなふざけた料簡だ、とそのように受けとめたらしい。懸命に誤解を解くべく努めたが、「赤のし+祝」の持つお祝いムードは思った以上に強い効果だったようで、総代さんの不快な表情は最後まで崩れなかった。
 知ったかぶってそのような表書きを用意したわけではないのだが、ふり返ってみれば、人の受け止め方に対して配慮が足りなかったということになる。自責点1というところか。

 祝融三国志演義ではかなり強力な女性キャラとしても描かれる火の神である。
 世に「触れたら火傷しそうな女」という言い回しがあるが、それはなにもこの祝融に触れることではない。おそらくは恋愛の煉獄に引きずり込まれそうな魅力をたたえた女性のことをそう言うのだろう。幸か不幸かプライベートでそのような危険な目に遭った事がないので想像でしかものが言えない。
 そうしたアブナイ女とはまたタイプが違うようだが、本編で挿画に使った八百屋お七。その実像と世間的イメージとの違いにも議論がにぎやかなようだが、ここではしばらくそうしたにぎやかさから離れて物語の中のお七、西鶴好色五人女』の八百屋お七のことに触れてみたい。

 ここに本郷邊に八百屋八兵衞とて賣人むかしは俗姓賎しからず此人ひとりの娘あり名はお七といへり。年も十六花は上野の盛月は隅田川のかげきよくかゝる美女のあるべきものか都鳥其業平に時代ちがひにて見せぬ事の口惜是に心を掛ざるはなし

 お七登場の描写はかくも美しい(それにしてもこのあふれるごとき文章の饒舌、話が逸れるのでここでは追わないがすごいなといつも思う)。で、一方の主人公、小野川吉三郎との初見の場面。

 やことなき若衆の銀の毛貫片手に左の人さし指に有かなきかのとげの立けるも心にかゝると暮方の障子をひらき身をなやみおはしけるを母人見かね給ひ。ぬきまゐらせんとその毛貫を取て暫なやみ給へども老眼のさだかならず見付る事かたくて氣毒なる有さまお七見しより我なら目時の目にてぬかん物をと思ひながら近寄かねてたゝずむうちに母人よび給ひて。是をぬきてまゐらせよとのよしうれし。彼御手をとりて難儀をたすけ申けるに。此若衆我をわすれて自が手を痛くしめさせ給ふをはなれがたかれども母の見給ふをうたてく是非もなく立別れさまに覺て毛貫をとりて歸り又返しにと跡をしたひ其手を握かへせば是よりたがひの思ひとはなりけるお七

この「やんごとなき若衆」が吉三郎。お七とのふれあう場面は青春ストーリーもののように淡いタッチ。じつはこの物語を読んでいて思ったのだが、表面的な物語としてはついに展開せずに終わるのだが、お七の母の吉三郎に寄せる思いがほの見えるところが個人的にはけっこう趣あっておもしろく感じた。
 やや話はもどるがこの二人の出会いの舞台、駒込の吉祥寺である。もとはと言えば天和2年、江戸に大火が出て、多くの人々が焼け出され非難した先が吉祥寺。そこに身を寄せたまま過ごしていたお七の出逢ったのが、寺小姓として吉祥寺にいた吉三郎だったのである。銀の毛貫をきっかけの出逢いもそうした状況の中でのことだった。
 広壮な建物のようすの吉祥寺、二人の居場所は離れていたようで、そのいきさつがあった以後は再び出逢うこともなく翌春の正月となったある雨の夜、折から葬儀のために住職以下寺僧達は外へ出かけた。春雷の音激しく深夜にいたり、お七は母親のそばから布団を出でて吉三郎を探し求めて寺内をさまよう。たまたま台所で出逢った姥や常香盤役の小僧の導きで吉三郎の寝所にお七はたどり着く。二人寄り添い、聞けば吉三郎も十六歳という。もどかしいやりとりを応酬した後に結ばれる場面。

 何とも此戀はじめもどかし後はふたりながら涙をこぼし不埓なりしに又雨のあがり神鳴あらけなくひゞきしに是は本にこはやと吉三郎にしがみ付けるにぞおのづからわりなき情ふかくひえわたりたる手足やと肌へちかよせしにお七うらみて申侍るはそなた樣にもにくからねばこそよしなき文給りながらかく身をひやせしは誰させけるぞと首筋に喰つきけるいつとなくわけもなき首尾してぬれ初しより袖は互にかぎりは命と定ける

 現代風の具体的事柄に描写の及ばないのが西鶴の節度なのだろう。言ってみれば町娘のお七が、寺で見初めた小姓の部屋に夜這いへ出かけた場面である。発表当時はかなりの評判を呼んだらしい。
 さて翌朝、お七を探しに来た母親に見つかり、ことを察した母親によってお七は厳しい監視の目の元に置かれることとなる(ここにもお七の母と吉三郎との“関係”がうかがわれるように思うのだが)。二人の中は以来進展したようすがない。
 この後、寺を出でて暮らしに戻ったお七の家へ、ある日、松露土筆などを手籠に入れた物売りの少年が訪れる。里から来たと言うも折からの雪となり、亭主は土間の片隅に一泊の宿りを勧める。ところへ姪がお産との知らせ、亭主夫婦は出かけ、家に残った物売りの子の笠をお七がのけてみるとそれは身なりをやつした吉三郎その人であった。再会の喜びに浸るもつかの間、父親が帰ってきてしまい、二人は隠れて文を書きつけては見せ書きつけては見せするほかどうにもしようがなく朝を迎える。従前に増して思いが募ったまま別れる二人。
 よく知られたお七が火つけに及ぶのはこの後の話。もう一度火事になれば吉三郎に出逢えると思い。あとはご存じのように未然に終わった火事騒ぎではあったが、その咎人であるお七は死罪に。世をはかなんだ吉三郎は出家して僧となりお七の菩提を弔ったという。物語としては蛇足めいているがその落髪の場面。

 此前髪のちるあはれ坊主も剃刀なげ捨盛なる花に時のまの嵐のごとくおもひくらぶれば命は有ながらお七さい期よりはなほ哀なり古今の美僧是ををしまぬはなし惣じて戀の出家まことあり

 お七にも増して吉三郎の俗縁を断つ場面を「なほ哀」れという西鶴。ここにちらりと見える男色の気配もしばしば話題となるところではある。
 さてこの話、大胆な行動に突き進むお七の恋情パッションが主要なテーマではあるが、もう一つ、十六歳の女性をそこまで駆り立てた吉三郎の「美僧」ぶりが重要な要素となっている。のちに物売りの里の子に身をやつしてお七の家を訪ねてゆくあたり、吉三郎にさほどの世知に長けたかけ引き上手のようすなないのだが、それだけにイノセントな美少年性が際立つ。女をして恋の煉獄に引きずり込まずにはおかない、「触れたら火傷しそうな男」と言えるだろう。