BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

彼岸を迎える

f:id:ryusen301:20180228072652j:plain

 戸数十件に満たない集落。少子高齢化の典型のようなそこでこの5年ほどの間に新築の家が三軒。三軒目の家の仏壇の魂入れ(開眼)をさきほど終えてきた。

「子供たちもみんなよそに所帯持ったんで私たち夫婦二人、前の家も古くなったし建てるなら今だと思ったんですよ。うちの子供たちここへ帰ってくるの好きだって言うんですよ。この集落好きだって。だから帰ってくるところなくせないと思って。私たちもべつによそへ行きたいわけでもないし前の家よりは半分になったけどこの小さい家でもいいかなって。冬の間の工事はやっぱり大変でしたね。でも雪消えると田も畑も忙しくなるし今に間に合ってよかったです。和尚さんも忙しいところどうもありがとうございました」

 明日から春彼岸。

【真読】 №145「支度(したく)」 巻六〈雑記部之余〉(『和漢真俗仏事編』web読書会)

 死に支度いたせいたせと桜かな 一茶

f:id:ryusen301:20180315123537p:plain

テキスト http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/818707 コマ番号61

 支度とは、本尊供養具の支具(しぐ)いかほどと度(はかり)こしらゆる意(こころ)なり。この文字の出処を繹(たづぬ)るに、『集経』十三(三十二葉)に、「荘厳道場及び供養の具支料度法」と標題せり。然れば俗に食物割烹するなどを支度と云うもこの意なり。

よこみち【真読】 №144「おまえはどうだ?」

「見抜く」の画像検索結果

 与えられた定命業をまっとうせず、不慮にして夭死してしまうことを非業の死と言うなら、それは普通のことではない。それゆえに非日常的なことであり不合理なことでもあり、絶対的少数なことであるはずだ。
 しかし七年前の三月十一日に起こった出来事はその不合理なことが圧倒的多数となった。国内のニュースでは公開されなかった人体の損壊を含む現地の惨状が、海外のメディアでは放映された。しかし多くの日本人が目にすることのなかったその光景は現地の人々にとってはごく一握りのものに過ぎなかった。あの体験を乗りこえた人々がこれからの日本の礎となることを信じている。あの体験によっていのちを喪われた人々があの世からこの世の成り行きを見守っていると信じている。
 ほんの四日前まではさかんにそんな空気を煽っていたメディアは、(ごく一部を除けば)今日はすっかりおとなしくなって、いやそのことを忘れたように他のできごとをつつきまわしている。
 メディアだけではない。311に乗り遅れまいと現地へ向いていたさまざまな動きが、その日を過ぎたとたんになりをひそめてしまった。
 たまたま本編を読み進めてきてこの機会にめぐりたった「非業の死」という項目。そんなことをふり返る試金石のように用意されていたのかもしれない。

【真読】 №144「非業の死」 巻六〈雑記部之余〉(『和漢真俗仏事編』web読書会)

f:id:ryusen301:20180226164256p:plain

テキスト http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/818707 コマ番号61

 非業の死とは夭死(ようし・わかじに)を云う。閻浮の人寿の定業に非ざれば、非業の死と云う。
 その本説を出さば、『金剛寿命陀羅尼経』に曰く、その時世尊、東方に向かって弾指し、一切の如来を招集してこの誓言をなしたまわく、「十方一切の如来、、衆生のためにゆえに菩提を証せば、みな我を助けたまえ、今我れ一切如来の威神力を以ての故に、悉く一切衆生の非命の業(非業の死なり)を転じて、寿命を増さしめん。我れ昔よりいまだ衆生のために、この法輪を転ぜしめず。今まさに転じて、よく衆生をして寿命・色力みな成就することを得て、夭死の怖れを無からしめん(乃至)一切如来寿命陀羅尼を説いて曰く(云々)」。

よこみち【真読】 №143「HAPPY BIRTHDAY」

関連画像

 子供の頃、誕生日と云えば友達を呼んでささやかな会食をしたり、親から玩具をもらって喜んだりという思い出がある。自分が子の親になってつくづく思うのだが、あれは親が子供の喜ぶ顔を見たくて行う家庭行事だったのだなとふり返っている。
 そんな俗っぽいことが仏教経典にも典拠があるということは意外なことだった。と同時に、それを意外と受けとめたということは、まだまだ自分には世俗の対極にあるものが仏教だという幻想が根強いのだなと反省した。この『真俗仏事編』を読みすすめてくるうちにしばしば経験したことは、ステレオタイプのように思っていた真(仏教)と俗(世俗)のあいだには思っていたほどの深い溝はなく、どちらも人間のいとなみとして同じ地平に根ざしていたという「気づき」だった。
 人間が考え出し、時を重ねるほどに遠い高みへとそのイメージをふくらませてきた仏教が、ほんとうは日常的、普遍的な人間の考えの内にあると云うことを、いつしか私たちは忘れていたのかもしれない。そんなことを今回もまた気づかされちゃったな。
 お誕生日おめでと。

【真読】 №143「誕生日の賀」 巻六〈雑記部之余〉(『和漢真俗仏事編』web読書会)

「ブルーナ 誕生日おめでとう」の画像検索結果

 テキスト http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/818707 コマ番号61

 俗に毎年の誕生日の賀をなすあり。
 按ずるに、秘軌にこの法、出でたり。『金剛寿命陀羅尼念誦法』に曰く、もしよく三長斎月(正・五・九月なり)或いは自らの本生日(誕生日なり)に於いて、この供養をなせば、よく災難を除き、寿命を増益す(乃至)一切の賢聖、その人を擁護す、と。

よこみち【真読】 №142「大人になんてなりたくない」

「ブリキの太鼓」の画像検索結果

 なべて生き物は年経ることによって成熟するものだ、と若い頃は思っていた。だがまわりを見回し自分を省みてどうもそうではないということが明らかになってきた。複数の経験から「なれ」を装う術は多くの人が見につけてゆくが、いったん切羽詰まった場面になるといわゆる「大人の対応」のできないことはままある。本編のように年ばかり食っても幼い振る舞いしかできないと批判されるのはなにも阿難だけではない。
 だが外見上は老人で中身は年少者という設定でも、必ずしも幼稚さ・未成熟というマイナス要因をかかえていない例もある。たとえば「ハウルの動く城」のソフィーがそれだ。荒れ地の魔女の魔法により老婆の姿にさせられたソフィーだが、彼女の資質は決して劣性のものではなかった。
 一方、外見は年少に見えつつも中身は成熟(ときに老成)している例もある。言うなれば「白髪の年少」じゃなくて「年少の白髪」というところか。
 たとえば名探偵コナン。その独白にあるように「たった一つの真実見抜く見た目は子供、頭脳は大人、その名は、名探偵コナン」となかなかわかりやすい。
 この例はかなりありそうだが、個人的に興味引かれる例をあと少し。
 孤児院育ちで、とある流産で子を喪った夫妻に引き取られていく少女エスター。あのじわじわ来る怖さはあとを引きましたね。
 もうひとり、「ブリキの太鼓」のオスカル。まだ二十歳そこそこで名画座でこれを見た時はすごかったなあ。馬の首のシーンなんてトラウマものだった。「ブリキの太鼓」の独特なのは、ほかの主人公達はなんらかの不可抗力によって肉体的な成長が止まる、あるいは時間的に遡行して年少化するのに対して、オスカルの場合は自らの意志で成長の停止・進行を制禦出来るところ。エスタ-の場合は成熟した女性になりたくてもフィジカルにはそうなれなかった悲哀があったが、その意味ではオスカルの場合はこれと対照的。歳月を経るに従って俗悪なものにまみれていく「人間の成長」を忌避したい気持ちは、おそらく多くの人たちが経験するものだと思うが、オスカルはあえてそのブレーキをかけたのだった。
 考えてみると白髪と年少とは、若さと老いをめぐるかなり普遍的なテーマだったと気がつく。子登がこのテーマを立項したのも、なにかそんなところに惹かれたのじゃないだろうかと、つい勘ぐってみたくなる。