BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

七左衛門の除蝗録 その6

注油駆除の具体的方法(三)
先の図に続いてこれも実際の稲虫の退治のようすです。
右から順に、しなへ竹、ははきをもて稲葉に付きたるむしをはらふ図、油を入れわらははきにて水をまぜる図、水に油をさしている図、稲葉にのぼりたる虫をはきとる図、あぜにて火をたき虫を焼く、油を入れ置き火を点したたき落とす図、油を入れその水をわんにて稲かぶへくりかくる図、竹の筒に油を入れ田に入るる図、大勢並びて葉に逃げのぼる虫をたたき落とす図、火をたき虫を焼く図、ささにて稲葉の虫をはらい落とす、水なき田に油を混ぜ打ちかくる。
以上のように、状況に応じて実に細やかな方法で対処していることがわかります。そしてこの油は、(その2)で見たように、鯨油ですので、田に残ったとしても土壌を荒らすことなく、むしろ施肥効果の方が高かったでしょう。しかも油まみれの虫はそのまま焼き殺すことができ、その実効性はかなりのものであったことがうかがえます。

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七左衛門の除蝗録 その7

 以上の方法は「鯨油」の調達に比較的容易だった九州地方で流行していたものでした。(その1)で触れたように、この『除蝗録』は七左衛門の死後に出版されたものです。七左衛門在世当時、まだ東北にはこうした「注油駆除法」は広まっていませんでした。じつは『除蝗録』は、九州地方で発展したこの駆除方法を、東北地方に広めようとの意図もあって出版されたのでした。
 ところが、その総論の部分に注目すべき一文があります。
「東北のうちにても出羽秋田ばかりはこの備えありと承りぬ。げにありがたき事也」というのです。「この備え」とは、注油駆除に用いる油と駆除技術の知識ということでしょう。東北一円に未発達だった注油駆除法、それが秋田においては、なぜか普及していたというのです。そしてそれこそが長崎七左衛門の功績でした。以下、七左衛門の著作をひもといていきましょう。

七左衛門の除蝗録 その8

 ここでは便宜的に七左衛門の「除蝗録」という書名を掲げてきましたが、七左衛門の著した正式な書名は『羽州秋田蝗除法』と言います。先ずはこの書の輪郭について述べていきます。
 『羽州秋田蝗除法』について(一)
 一、本書の所在
 本書はもともと、七左衞門の暮らした北秋田市七日市・長岐宗家に所蔵されていたものと思われます。ただ、現在は長岐家蔵書の中にそれは伝えられていません。また長岐文書を1529点移管保存している秋田県公文書館の長岐文書資料の中にもそれはありません。ではどこに所在があるのかというと、それは明治18年1月に刊行された『歴観農話連報告』第3号という農業雑誌に掲載されたもので確認できます。この書は秋田県の農業指導者として名高い石川理紀之助(1845-1915)がその仲間たちと主宰刊行したもので、秋田農業に資する先人の業績を、蒐集・書写・翻刻して世に広めようと刊行したものです。ここに掲載されているということは、石川を初めとする明治初期の秋田農業者達にとって、本書の意義が高く評価され、注目されていたと言うことを示しています。なお、この『歴観農話連報告』は写本として、長岐家蔵書の中に伝えられています。おそらく七左衛門の自筆本、あるいは後人の写本などは散逸したのかもしれません。
(画像は『歴観農話連報告』第3号目次の一部)

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