犀の角の如く・・(続々)
この話題、もう一度触れることになるとは思っていなかったんだけど。
FBに先の文書アップしたところ、いくつかの反応。その中で、FBFのS師よりこんな質問。
「疑問です。水に汚されぬ蓮・・!?昔の水はそうとう汚かったのでしょうか? それとも、泥にはけして汚されない蓮が、水に汚される!というのでしょうか?教えてたも」と。
言われて見ればなるほど。たしかに「水」と「蓮」とくれば「泥中の蓮」に連想が及び、「ん?ただの水で蓮は汚れるのか?」と疑問に思うのは当然。これにまたFBFのB師も反応。
文書アップした当の私はそんなところまで気づいていなかったので、これを機にあらためて考えてみた。
折から娘たちと夕食に出て帰宅したばかり。ほろ酔い気分で、くだんの岩波文庫版・中村元訳『ブッダのことば-スッタニ・パータ-』を探し出してきた。26頁の№71が話題の詩句だったとたどりつく。でもって、あちこち眺めて、どうやらこんなことじゃないかという私見をひとつ。
問題の詩句は次の通り。
「音声に驚かない獅子のように、網にとらえられない風のように、水に汚されない蓮のように、犀の角のようにただ独り歩め」(スッタニ・パータ 「犀の角」)
ここで話題になっている「蓮」とは、「蓮の花」じゃなくて、たぶん「蓮の葉」なのだということに気づいた。蓮の葉にぽとんと落ちた水滴。葉の表面に水分がなじむことなく、コロコロッと丸っこい水滴になって葉からこぼれ落ちる。で落ちた後、葉っぱにはその水の跡形もない。他の植物の葉には見られない(サトイモなんかもあるけどね)この性質、ロータス効果という超撥水性質として知られているそうな。
「水に汚されない蓮」とはこのことを言うのだろう。言い方を変えれば「水に冒されぬ蓮」ということ。
いくつかサイトを見ていたら、このロータス効果の理解をもとに、「バガヴァド・ギーター」第5章の「すべての行為行動をブラフマン(宇宙の創造主)に委ね、執着を捨てて行為する人は、罪悪により汚されない。蓮の葉が水に汚されないように」(10スローカ)を解釈しているブログもあった。
これを踏まえて先の一文を解釈してみると、「水に汚されぬ蓮」とは、「水の中にあったり、水がかかったりしても、決して濡れることのない蓮の葉」を直接には指すのであり、「音声にたじろぐことのない獅子」「網に捕らわれることのない風」と同様に、真の自由な存在であり、何もののまつろいや染汚にも影響を受けないもの、ということかな。
始めに掲げた蓮の写真、昨年の秋に撮影したもの。同じ市内にあるK公園の池にある。この光景はMさんからのご紹介。すてきな場所の一つ。