BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

梅花流以前の梅花 その5

【2】

 次いで、昭和21年5月発行の『大乗禅』昭和20年8月-昭和21年4月合併号(通巻249)を採り上げよう。

 ここに、戦時中とは異なる大きな変化を認めることが出来る。

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 それはタイトルにうかがわれるように、

1)「民主主義」「自由」という、民主化・自由化への志向

2)「新世に生く」という、新しい出発への期待

という二つが先ず挙げられる。

 言うまでもなく、この二つは戦時中にはまったく見えなかった特徴である。

 無論これらは、日本社会が戦時中の全体主義的傾向から、敗戦を経て、占領軍の指導のもと、一転して民主化路線へ方向転換したと指摘されてきたことと同じ状況を示すものであって、とりたてて大きく騒ぎ立てることではないという見方もあるかも知れない。

 だが、ここに見える執筆者達、そして次号以降に名を連ねる者たちは、ほぼ戦時中と変わらぬ人物たちであり、その意味では、戦時中に全体主義的戦争礼賛節を叫んだものに「代わって」、民主化推進を唱える者達が出てきたわけではない。同じ人間が、敗戦を機に「変わった」のである。

 このことを本号の鈴木大拙「禅と民主々義」は厳しく糾弾する。

 「近頃は誰もかも民主々義で、民主々義大ばやりだ。今までは戦争熱をあほるやうに「指示」せられ、それとばかりに、便乗主義、迎合主義、機会主義の本色を発揮して、毫も後悔の色を出さなかった禅宗の坊さん達-今日は君子豹変して我さきにと民主々義の太鼓叩き。禅宗の坊さんほどどえらい人はないとつくづく思ふのである。どんなお悟りの御持合かは知らないが、知性的には何等の自主性もなく矜持もなく抱負もないところを見ると、それでどうして近代の青年者達を導いて行けるかと、大いに危ぶまれざるを得ないのである」(2105,p8)

 「昨日の帝国主義者、全体主義者、軍国的侵略者が今日の民主々義者となつて平然たる禅僧達は、この豹変者となる前にまづ公衆の面前で大懺悔をしなくてはならぬ」(2105,p9)

 おそらくは痛烈にして正鵠を射ているこの指摘は、終戦直後から翌年の4月に至る8ヶ月余りの禅宗教団の実情を暴いているものだと思う。

 しかしながら、この批判を真摯に受け容れ、「公衆の面前で大懺悔」した例はあまり知られていない。果たしてそのような事がどれくらいあったのだろうか。少なくとも『大乗禅』のこれ以降の号を見る限り(市川白弦等少数の例を除いて)、鈴木が批判した側の言論は洪水のようにあふれ出し止めどなく続いてゆく。その流れの中で禅宗教団は新しい教団の形を模索していくように見える。