BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

葛黒火まつりかまくら その1

 

 私の住まいから川の上流方向へ約八キロ。

 現在は30戸に満たない葛黒という集落がある。

 ここに江戸時代から伝えられるという小正月行事「火まつりかまくら」がある。

 かつて長男が小学生低学年の頃、初めて目の当たりにした時

 小さな山里に伝えられた火まつりの偉容に驚いた。

 だが過疎・少子高齢化集落のならいにそって

 このまつりも十数年前に途絶えたまま今に至る。

 一時、街の中心部を会場に一~二年行われたが、中止になったままだ。

 もう一度復活を。

 この数年、折にふれて声をかけつづけた。

 コトが動き始めたのが、一昨年前にはじめた地域活動グループの起ち上げ。 

 地元旧家(江戸時代の肝煎、近代以降は村長の家柄)の文化財資料をもとに

 いくつかの地域活動を展開しているうちに「次はこれだ」の気運。

 そして当初は難色を示していた葛黒集落の中心メンバーが腰を上げてくれた。

 昨年秋には正式に開催しようとの合意を得、

 来月〈2月16日〉には、葛黒にていよいよ実施を迎える運びに。

 そこでまつりに関わるいくつかの民俗文化的検討を加えておこう。

 

 【1】斎藤壽胤氏「葛黒火まつりかまくらと秋田の小正月行事」

 

 (以下は平成25年11月9日に葛黒集落自治会館で行われた秋田市在住の民俗研究家・斎藤壽胤氏による「葛黒火まつりかまくらと秋田の小正月行事」と題する講演のダイジェスト。この内容、若干の私見も加えながら、適宜取捨編集して紹介することをお断りする)

 

 ◇ かまくらと「火まつり」◇

  「かまくら」と言えば横手のかまくらのように、雪をドーム状に作るのが一般的ではないかと思う。だが葛黒の火まつりかまくらは、子供たちの作るミニかまくら(これは後で作るようになったとも言われている)を別にすれば、ドーム型のかまくらはない。むしろ中心になるのはワラや豆ガラを巻きつけたご神木であり、これに火を着け燃え上がるのがまつりのクライマックスである。だがじつはこの形態が「かまくら行事」のより古い形を伝えている。

 江戸時代の資料『秋田風俗問状答(ふうぞくといじょうこたえ)』に、久保田城下(現、秋田市)のかまくらの記事がある。「一月十四日、二~三日前より家々の門外に雪を積み重ね、水をかけ固めて方形の雪壁をつくり、当日にはその中にカヤを積み、松の内に家を飾った門松、しめ縄なども入れられ、周りには鎌倉大明神、左義長、爆竹などと書いた紙の旗や様々なシデ、ホタキ棒、まゆだま、米俵、などが飾られ、小机には餅や神酒を供える。子供らはホタキ棒を持ち、道行く若い女性の尻を打つなど戯れをする。これは元気な子供に恵まれるようにとのマジナイが起源だが、若い女達はこの日ばかりは恐れをなして外出を控えたほどだったという。夕刻になると木のホラを吹き鳴らし、それを合図に火打ち石で火をおこし「かまくら」の中に火を放つ。勢いよく燃えあがる火を米俵に移して振り回すと、見物人の若い衆もこれに加わる」

 まったく同じではないが、〈火〉〈鎌倉という言葉〉〈子どものまつり〉など、葛黒のかまくらと共通するところが多い。次にはそれぞれの意味について考えてみよう。  (下図は秋田風俗絵巻より)

f:id:ryusen301:20140108103049j:plain

 

◇ 「かまくら」は「カミクラ=神の座」◇

 葛黒かまくら行事で最も重要なのは、夜、ご神木を燃やした後、燃え残ったご神木を小さく切り分け村人がそれぞれ家に持ち帰り、その木を囲炉裏にくべて餅をあぶっていただくと、一年風邪を引かないとか、火事にあわないなどと伝承されていることです。

 燃えた後のご神木にはそれほどの「神の力」があると考えられているわけです。その神の力はどこから来るのでしょうか。ご神木は近くの山から切り出してきますが、その時点ではまだ神の力は宿っていません。いつその木に神の力が宿るのかというと、夜空に高く炎が上がり、天の彼方にいる神さまが、その明るい炎めざして、その木に降りてきた時に宿るのだと考えられます。つまり、木を燃やすのは、夜、天の高みから地上へと降りてくる神さまの目印とするためと考えられるのです。そして神が宿った後の「ご神木」には一年の恵みをもたらす「神の力」が宿っているので、それを分け与えてもらうために、それぞれ大事に家に持ち帰ると考えられるのです。

 この考えによると、ご神木は神さまの降りてくる「座」と言うことになります。「座」は「くら」と訓むことからわかるように(たとえば七座など)、「神の座」つまり「カミクラ」、この言葉の転化したのが「かまくら」であると言えるでしょう。「葛黒火まつりかまくら」は、そうした日本人の精神文化を大切に伝える貴重な民俗文化であると言えるのです。

 

(以上、その1)