BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

水鳥の道 その1

すでにFB上でやりとりしていた内容だが、その問題のおもしろさと私からの答えが中途で終わったままになっていることから、それを全うすることを果たすためにも、とここに取り上げる。

 きっかけは梅花流師範・小野卓也氏のブログにアップした以下の記事だった。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

水鳥は空の道
2012年11月29日 12:04 コメント(0)

水鳥の 往くも帰るも 跡絶えて されども道は 忘れざりけり

道元が「応無所住而生其心を詠む」という題で詠んだ和歌である。梅花流では『高祖承陽大師道元禅師第二番御詠歌』としてお唱えされる。

この歌詞について、次のように解説されていることに以前から疑問があった。

水面に遊ぶ鳥がさわりなくすいすいと自在に泳いでいます。「往くも帰るも」は水鳥があちらこちらと泳いでいる情景であり、「跡絶えて」は水鳥の泳いだ後にのこる波の跡がなくなっていくさまです。跡はないけれども歩むべき道を忘れてはいません。 (『梅花流指導必携・解説編』)

水鳥が静かに水面を泳いでいる。あちらへ行くかと思えば、こちらの方へ向かっている。自由で何の屈託もなく、その泳ぐ様子には何らかの跡形も見られない。しかしその水鳥は、その足で絶えず水をかき、警戒を怠らず、自分の本来の進むべきを忘れずに、その向かうところを知っている。(『新版・梅花に学ぶ』)

水面で「跡絶えて」道に迷うことなどあるだろうか。どんなに大きな湖であろうとも、岸辺には目印があるはずで、それは誰の目にも分かるし、忘れるはずもない。それよりも空路という解釈をしたほうがしっくりくる。

水鳥たちは、秋は南へ渡ってゆき、春は北へ帰ってゆく。行路には何の跡をも残さないが、しかし、水鳥たちはその行路を忘れることがない。(松本章男『道元の和歌』)

しかしながら、どちらも典拠のない解釈に過ぎず、決定的でなかった。そこに最近見つけたのが『法句経』。羅漢品に次のような記述がある(和訳は中村元『ブッダの真理のことば・感興のことば』・岩波文庫)。

satImanto uyyuJjanti te nikete na ramanti te pallalaM hitvA haMsA iva okam okaM jahanti //91//
こころをとどめている人々は努めはげむ。かれらは住居を楽しまない。白鳥が池を立ち去るように、かれらはあの家、この家を捨てる。
心淨得念 無所貪樂 已度癡淵 如鴈棄池

yesaM sannicayo natthi ye pariJJatabhojanA yassa suJJato animitto vimokkho ca gocaro tesaM gati AkAse sakuntAnam iva durannayA //92//
財を蓄えることなく、食物についてその本性を知り、その人々の解脱の境地は空にして無相であるならば、かれらの行く路(=足跡)は知り難い。―空飛ぶ鳥の跡の知りがたいように。
量腹而食 無所藏積 心空無想 度衆行地 如空中鳥 遠逝無礙

yassa AsavA parikkhINA AhAre ca anissito yassa suJJato animitto ca vimokkho gocaro tassa padaM AkAse sakuntAnam iva durannayaM //93//
その人の汚れは消え失せ、食物をむさぼらず、その人の解脱の境地は空にして無相であるならば、かれの行く路(=足跡)は知り難い。―空飛ぶ鳥の跡の知りがたいように。
世間習盡 不復仰食 虚心無患 已到脱處 譬如飛鳥 暫下輒逝

ここでは、水鳥の跡は空(AkAsaアーカーサ/梵AkAzaアーカーシャ)にある。「応無所住而生其心」も、内容的に「心淨得念」「無所貪樂」「心空無想」「虚心無患」に通じる。漢訳もあることから、道元も親しんだ可能性が高い。道元の和歌の典拠は、このお経にあると考えてよいのではないだろうか。中村博士は「人格を完成した人の生活の道は、凡夫のうかがい知り得ざるものがあるという趣意である」と解説している。

この『法句経』をもとにして解説すると次のようになるだろう。

水鳥たちは、春になると北へ行き、秋になるとまた同じところに帰ってくる。空の道は見えないが、通るべき道を忘れていないということである。仏祖も、何事にもとらわれなき心で涅槃に達した。その境地は凡夫には分からないものかもしれないが、修行を続けているものには自ずと開けてくるものである。

空と鳥といえば、道元の次の一節も忘れてはならない。

うを水をゆくに、ゆけども水のきはなく、鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。しかあれども、うをとり、いまだむかしよりみづそらをはなれず。只用大のときは使大なり。要小のときは使小なり。かくのごとくして、頭頭に邊際をつくさずといふ事なく、處處に踏翻せずといふことなしといへども、鳥もしそらをいづればたちまちに死す、魚もし水をいづればたちまちに死す。以水爲命しりぬべし、以空爲命しりぬべし。以鳥爲命あり、以魚爲命あり。以命爲鳥なるべし、以命爲魚なるべし。このほかさらに進歩あるべし。修證あり、その壽者命者あること、かくのごとし。(『正法眼蔵』現成公案)

鳥が空なしでは生きていけないのは誰でも理解できる。問題はそこをさらに進んで、空が鳥なしでは存在できないとした点である。道元はこれによって修証一如を説くが、そもそも湖(娑婆)を脱して空に羽ばたかなければ、修も証もない(湖にいたままでもよいというのは天台本覚思想だろう)。修行と悟りの道は、必ず空にある。

と、ここまで考察を進めてきたが、梅花流で「湖の道」という解釈が通用しているということは、何か別な典拠があるのかもしれない。諸賢のご高説をお伺いしたい次第である。

(以上、小野氏の文章)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 梅花流詠讃歌の歌意をめぐって議論の交わされることはまだまだ少ない。

 その理由について思う所もないではないが、これまで別の処にも書いてきたし、当面の課題でもないのでそれについては省く。ここでは小野氏の提起した問題について、私見を述べてみたい。