BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

水鳥の道 その3

 以上を踏まえれば、少なくとも中世歌語としての「水鳥のあと」は、水面上の航跡と考えるのが一般的であるように思えます。ただこれは短い時間で手元の資料を拾い読みしただけのことですから、空路とする例もあるかもしれない、と付け加えておきます(個人的にはその例の見つかることを期待していますが)。

 ついで、くだんの道元の和歌が、曹洞宗の中ではどのように解釈されてきたのか、その経緯をふり返ってみます。

 

2)道元和歌に対する伝統的理解

 

 現在知られている道元和歌の解説書・研究書は、近世後期の面山『傘松道詠聞解』(あるいは『傘松道詠聞記』とも称す)が嚆矢とされ、以降近代に至るまで、それほど多くはありません。近年の解説書については、すでに小野さんの投稿にフォローされていますので、ここではそれ以前の代表的なもの四種から、「水鳥のあと」をどのように解釈しているか、該当の箇所を採り挙げておきます。

 

a:面山瑞方『傘松道詠聞解』(延享3・1746)

「水鳥は鴛鴦や白鴎の類、水上の往来なればあとはないけれども、鳥の方では跡を知てをる。されどもとは去と云縁語に使ふ(後略)」

 

b:覚巌心梁『傘松道詠略解』(嘉永5・1852)

「水とりの水上に往来すれども、不染汚にてして少しの跡なし。しかれども而生其心にして、鳥はよく其あとを知れり(後略)」

 

c:笠間龍跳『傘松道詠講述』(明治15・1882)

「水鳥は都て水みすむ鳥類を云。もとより水上の往来なれば、跡方は無い。されどもは然れどもにて、去るてふ縁語より(後略)」

 

d:大場南北『道元禅師和歌集新釈』(昭和47・1972)

「湖上に遊ぶ水鳥に水路らしいもの、レールらしいものは一向に見当たらないのに、その足どりは縦横無碍・自由自在であり、その通り過ぎた跡は忽ちかき消えて、何らの拘泥駐留渋滞の跡もなく、尋ねようにも全く蹤跡はない。それにも拘わらず(されども)一向に逸脱する処も、法を踏み外す処もない。これは住着なくしてその心を生ずるからである、という意味を、水に遊ぶ鳥に譬えて述べたものである。(後略)」

 

e:旧版『梅花流指導必携』(昭和47・1972)

 「水鳥が水の上を行き来する様子を見るに、往くにも帰るにもその足跡は絶えて残さぬけれども、しかもそれでいて決して自分の道を忘れてはいない(後略)」

 

 以上のように曹洞宗における伝統的な解釈では、おしなべて水面上の航跡と捉えていることが確認できます。そしてこれらの解説書は先行のものを順次参照しつつ撰述されていたことから(『詠讃するということ』参照)、aの解釈がその先例となったと考えてよいでしょう。小野さんが「梅花流で湖の道という解釈が通用しているということは、何か別な典拠があるのかもしれない」と疑問を呈されたことについて、以上のことが一応の回答になると思います。

 ところが、こうした宗門の道元和歌解釈のもう一つの事例として、注意したい一例があります。それは、良寛が道元和歌を踏まえて詠んだものです。大場(敬称略)が、d『道元禅師和歌集新釈』の中で、道元の和歌の参考例としてこれに触れています。

 〈良寛遺詠 水鳥の行くもかへるもあとたえてふれども路はわすれさりけり〉

 私は、道元の「水鳥の」一首を考える場合、特に今回問題となっている「水鳥のあと」を考える場合、この歌の意義は重要であると考えています。

 この歌の「ふれども」について、引用者の大場は「古れども」「降れども」の解釈例を批判した上で、「経れども」が妥当との見解を示しています。そして大場は「経れども」説を採った上で、なおも水鳥の往来を水路と考えていますが、これについて私の見解は反対です。

 その理由は以下の通りです。「ふれども」が古・降・経 のいずれであるか、そこに大きな差はないと私は思います。良寛が行なった「ふれども」という表現の肝要なことは、道元の本歌よりも、時間の経過が明瞭になった点にあると思うのです。その時間とは、「水鳥のあと」が消えるまでの時間、あるいは水鳥がふたたびそのあとを「かへる」までの時間です。言うまでもなく、「ふる」とは、「年降る(この場合、古・経ともほぼ同様の用例として使われます。私が三者に大差ないという理由もここにあります)」という語があるように、一定の歳月の隔たりを前提とした表現です。このように考える時、水上の航跡が消えるまでの短い時間を「ふる」と表現するのはいかにも不自然です。すなわち良寛歌における「水鳥のあと」は、水上の航跡のことを言っているのではない、と考えられるのです。ここで浮上してくるのが、空路説です。湖上(あるいは川や池の場合もあるでしょう)の水鳥がそこを去って、一定の月日の後にまたやって来る、「ふる」とは、それを前提とした場合にこそふさわしい表現と考えられます。この場合、水鳥の往来する路とは空に求める以外にないでしょう。

 「水鳥のあと」を、水面上の航跡と捉えることが、中世歌語の一般的用例と思われることは1)で述べた通りであり、また面山以降の道元和歌の解釈の伝統においてもそうであることは今回のa~dの通りです。しかし良寛の例はそれと異なるものと言えます。良寛の生卒年(1758-1831)を考慮すると、少なくとも良寛は、aを知っていたはずですが、あえて違う見解を施したのでしょうか。このあたりは確たる傍証ができず、憶測でしか言えませんが、良寛はことさらに伝統的解釈に異を唱えようとしたのではなく、ごく自然に(aなどの解説書に拠らず)道元の和歌を受け止めたように思えます。「されども」と「ふれども」、たった一文字の違いですが、良寛は「水鳥のあと」の意味するところを、くっきりと描き出したとは考えられないでしょうか。今回、小野さんの投稿を拝見してすぐ、個人的メールで私も空路説を支持する旨、お伝えしていましたが、小野さんとは違う脈絡で空路説にたどり着いていた理由がここにあります。

 これまでの叙述では、道元は当初から良寛の描いたような空路を意図していたのかどうか、まだ判然とはしていません。その問題を頭の片隅に置きながら、今度は道元の時点に遡り、和歌の教意について考えを進めていきます。(未了)