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BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

栗原健一「秋田藩における山村の備荒貯蓄-出羽国秋田郡小猿部七日市村を事例に-」『徳川林政史研究所研究紀要』48、201403

ときには毎日一本

 秋田県公文書館所蔵の長岐文書をもとにした本格的研究

 これまでの田口勝一郎を初めとする県内研究者の成果をしのぐものと思う。

 

はじめに

一 文政期の「郡方備米」と「郷備米」

(一)文政三年の「郡方備米」

(二)文政六~八年の「郷備米」

(三)文政十二年の七日市村小百姓騒動

(四)「郷備米」の貯蔵

二 天保・弘化期の「五升備米」

(一)「五升備米」の開始

(二)「五升備米」の帳尻合わせ

(三)「五升備米」の貯蔵

三 幕末期の「郷備米」

(一)安政二・三年の「郷備米」

(二)安政六年の「郷備米」に関する調査

(三)万延元年の「郷備米」計画

(四)慶応期・明治初年の「郷備米」

おわりに

 

〈いくつかのまとめ〉

 文政期の「郷備米」

文政6年(1823)から同8年にさまざまな形で出穀され、在村貯蓄を形成した。

「橋木浦山」から拝領した杉原木を売却して「郷備米」とするなど山村の特徴を有していた。

文政3年に郡方役所へ納めた「郡方備米」は「郷備米」に足し合わされた。

これらの貯蓄米は「貨殖」が繰り返され、利子を付けることで、貯蓄量を増加させていった。

「郷備米」の開始については、小猿部村々において少なくとも文化期から行っていたようである。周辺村落には安永期の事例が確認できる。

文政12年に七日市村で小百姓騒動が起こる。その要因は20年前(文化期)に貯蓄された「郷備米」の保存管理にたいする小百姓たちの疑念。この騒動の結果、親郷・寄郷村々で「郷備米蔵」の建築が模索された。

 

 天保期の「五升備米」

天保7年(1836)に仰せ渡された「五升備米」の検討。

本来は一人五升の基準が設定されていたが、小猿部では当初、出穀が困難。制度として機能していなかったが、天保12年から帳尻を合わせていく。

天保7年から13年までの七年間に取り集めるとした「五升備米」は、実際には天保8.9.12、弘化元年(1846)~同4年、嘉永元年(1848)の八年間に出穀して貯蓄を形成した。

貯蓄した米穀は蒸米・蒸籾にして、七日市村郷蔵・同村「上へ之蔵」・脇神村郷蔵の三つに分割して貯蔵した。

この「五升備米」は減穀もしたが、明治4年(1871)まで貯蔵が確認できる。

 

 幕末期の「郷備米」

小猿部村々では、文政期に行われていた「郷備米」が安政2年(1855)に再開された。安政6年には郡方より村々に対して手配方法を調査している。

万延元年(1860)には「郷備米」の五カ年計画を立てた。貯蓄量を4.4倍にするというもの。慶応期には小猿部村々の合計で計画を超える貯蓄量に到達していた。

 

近世後期において小猿部村々では、飢饉と備荒貯蓄期の繰り返しであったことが確認できる。

すなわち天明期の飢饉→文政期の「郷備米」→天保期の飢饉天保期の「五升備米」→安政期の「郷備米」である。

この繰り返しの中で、「買喰勝之村々」と自ら認識していた小猿部村々では備荒貯蓄を形成していったのである。

 

 小猿部村々の備荒貯蓄の特徴

1)山村としての特徴

 拝領した杉木の売却など多様な方法で貯蓄を行った。

2)いずれも時限的な制度であった。

 いくつかの制度を併存させることで対応。計画性があった。

3)制度運営の質が向上している

 小百姓騒動を契機として、制度に対して肝煎・小百姓ともにより自覚的になった。

 

 全体に密度の高い内容。

 公文書館より原文書の写真を撮ってきてじっくり向き合うことにする。

 しばらくは自習テキストとなりそう。