BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

権藤圓立「聴覚による布教の仕方」(3)

  今回の引用は「声」と「音楽」に関するものです。

 はじめの方に見える「ダミ声」の例はなかなかおもしろいと思いました。
 また軍隊生活のことに触れていますが、権藤師は、大正4年(1915)に東京音楽学校を卒業後、山梨県師範学校に勤め、次いで兵役に従事していますので、その頃のことでしょう。兵役後また福岡県と佐賀県の高等女学校に勤め、教員としての生活を送っています。
 
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 声の調整について

 腹式呼吸によって出てくる声は、音階(ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、ド)を楽器によって唱う練習をすることが最も捷径である。「私はダミ声ですが、声楽を勉強すれば美しい声になりますか」という質問を受けた時、私は次のように答えた。
 「声楽をいくら勉強しても、あなたのダミ声を変えることは出来ません。ダミ声の人はダミ声なりに、しゃがれ声の人はしゃがれ声なりにただ調整されるだけです」と。
 ダミ声の人はそのダミ声の真のダミ声が出るようにするのが声楽である、声楽によって調整された声は、人にきわめて自然に、耳障りにならず。その人の心に通ずる。
 声の調整が出来たら、次は言葉の抑揚が大切である。いくら調整された声でも、汽笛のように出放しでは興がさめる。強弱、高低が整えば聴覚を疲れさせない(原文「疲らせない」)。抑揚を整えるには、韻文(詩)を絶えず朗読することが肝要である。さすればおのずとその人独特の抑揚が会得できる。韻文の朗読と平行して更に必要なのは作曲された韻文を歌うことである。調整された声音によるうたは、歌う人もそれを聴く人も隔てがなくなり融合する。無差別平等となる。いわゆる一如の世界が顕現する。
 これはライオン歯磨き会社の女工さん達に、歌唱指導に行っていた頃のことである。ある日、唱和が終わってから、女工長の木村さんと歌のことについていろいろ話し合った。その時木村さんが話された話を今も忘れられない。
 「うちの母は英語などちっともわからないのに岡倉先生の英語の放送の時間となると、ラジオの前に座って一生懸命聞き入っているのです。又ロッパが出る時間になると何が何でもスイッチを入れて聞き入るのです、そうしていいナァと一人で楽しんでいるのです」と。
 ラジオに聞く古川ロッパ氏は、言葉使いが実にうまい。その声には慈味がある。慈愛が漲っている。ほのぼのとした暖か味がある。氏の演ずる役は、正直で真面目で、そのために却って世の中から虐げられる。それでも人をうらまず、世をうらまず、いじけず素直に大きく生きていくというような人物である。戦前永い間ラジオの初等英語講座を担当して名放送と謳われた、故岡倉由三郎先生の声にもロッパと同じものがあった。岡倉先生は、その慈愛に充ちた声で英語の教授をされた。その教え方も非凡であった。木村さんのお母さんと同じく、私もいつも楽しく聞きほれたものだった。声はまことに人である。

 歌唱、唱和の力

 君が代を唱えば、歌う人もそれを聞く人も国家の中に皆が一緒にとけあうてしまう。「南無帰依仏ととなえよや」と和讃を唱和すればその和讃と一如の世界になってしまう。唱和はまことに不可思議なる力である。
 私は且つて軍隊生活をしたが、軍隊では毎日の起居動作が音楽によって統御されている。軍隊程合理的に音楽を用いている社会はなかったようである。起床、食事、就床。野外では集合、行進、突撃、停止等、朝、床をはなれることから消灯(就床)まで毎日毎日それこそ死に至る時迄音楽で行動している。中でも最も不思議なことは行軍である。行軍中話し声が出なくなって、黙々として歩くようになれば疲労のキザシである。その時は必ず軍歌を歌わせる。軍歌を歌い出せば、疲労も何も打ち忘れて一里や二里は知らぬ間に行軍が出来る。考えてみれば不思議である。重い背嚢を背負い、銃をかついで歩く、そのことだけで既に疲労しているのに、その上に声を出して軍歌を歌えば、身体のエネルギーを二重に費やさなければならない。つまり二重のエネルギーの負担によって疲労は倍加するわけである。然るに、それは正反対で、気持ちは爽快になり足は軽くなって疲労を疲労と感ぜずに、長い行軍の持続が出来るのである。
 又行進のラッパが鳴り出せば、おのずと歩調が揃うて、心持ちも勇ましくなってくる。行進ラッパの音を耳にした人は、それに誘われて、勇み立って皆飛び出して見る不思議なのは音楽の力である。
 人間は音楽に対してはまことにもろい。無抵抗である。つまり人間は音楽によって、どんなにでも引き廻される。敬虔な心持ちに浸らせたいと思うなら、敬虔なる音楽を、悲しみの気落ちを起こさせようと思うなら、悲しみのあふれた音楽を、聴覚に訴えればよいのである。音楽を耳にしただけでも、われわれは、その音楽によって左右される。まして声に出して歌えば、一層その音楽の中に溶け込んでしまう。
 ここに於て“説く”ことより更に歌うことの重要さを痛感するものである。洋楽では唱歌は音楽を学ぶものの必須の科目になっている。聴覚による布教の重要性はこの点にある。こういう立場から私がこれまで経験した二三の例を次に記してみる。