BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

権藤圓立「聴覚による布教の仕方」(5)

 今回の引用箇所にある「巣鴨刑務所」、第二次大戦後にはGHQによって接収されて、「スガモプリズン」と言われたところです。その当時は戦争犯罪人の一時収容施設であり、さらには極東国際軍事裁判により死刑判決を受けた東條英機ら7名の死刑が執行(昭和23年12月)されたことでも知られる場所です。権藤師がここを訪れたのはいつか、引用文だけでははっきりしませんが(所長名があるので調べる手立てはありそうですが、今は未着です)、この文章「聴覚による布教の仕方」を脱稿したのは昭和28年12月ですので、それ以前のこととしても、ここが世間の注目を浴びる「あの」巣鴨刑務所であったわけです。とすれば、権藤師が1000名に及ぶ受刑者を前にした時の雰囲気は、まさに「名状しがたい」ものだったと思います。

 その空気の中、満場の受刑者を「唱和の悦び」にまで誘った権藤師の力量はまさに偉大なものがあったというべきでしょう。「唱和の力」もさることながら、権藤師の「人の力」に思いをいたすエピソードです。
 画像は昭和24年当時の巣鴨プリズン
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⊿ ⊿ ⊿ 以下、本文 ⊿ ⊿ ⊿ 

  巣鴨刑務所の場合

 私はかねてから刑務所の収容者たちに、よい歌を唱和さしたら、屹度教誨の一助になると思うていた。現在の府中刑務所の出来る前、つまり巣鴨刑務所時代のことである(以前は巣鴨監獄といってよく知られていた)。そこの教誨師に香川千巌師が居られた。ある時話のついでに、歌唱による教化のことを話したところ、自分もそれは考えていたところだった、といわれて香川師は早速実施することにきめ、私にその指導を依頼された。私は刑務所に歌を教えに行くのは初めてであるから、前から考えてはいたものの、少々危惧の念を抱かないではいられなかった。
 最初に行ったのは、丁度彼岸の中日であった。同じ色の着物を来た、全収容者一千名が一堂に集められて、粛然として微声だにしない。会堂の正面に立った時は、名状しがたい厳粛な感にうたれた。はじめ中道の講話があった。その次が私の歌唱指導である。オルガンのないことは前から承知していたので、木魚を用意しておいてもらった。私は壇に立つなり、一つボコッと木魚を打った。皆はびっくりして私を見た。中にはふふふと笑い声をもらすものもあった。私は開口一番
「これは中道ですな!」
と、また一つボコッと打った。皆ドッと笑った。
「今日は、この木魚を打ちながら、ここに書いてある歌を、一緒に歌ってもらいます」
というたら、奇異に思うたらしく、それでいてニコニコしながら、暖か味のただよったザワメキが起こった。まず歌う気分はこれで満点と思った。その時の歌は次の歌である。

  うつし世        野口雨情作歌 藤井清水編曲
 一
永劫つきせぬ 世なればや 我等は旅路の 身と思へ
旅行く身なれば 心して あせらずやすまず 歩まなん
 二
あせりて歩まば ころぶべし 休まばいつしか 日も暮れて
無明の闇路に 踏み迷ひ やがては嘆きの もととなる
 三
仏の教へを まもりなば 心の鏡に 日月の
隈なき光も やどり来て 無明の闇路も 照らすらん
 四
心にゆるみの ある人は 知らでや闇路に 踏み迷ふ
朝夕心に 鞭うたば ゆめゆめ悔ゆべき ことぞなき
 
 木魚を打ちながら「永劫つきせぬ世なればや!」と私が範唱する。その通りに皆が一斉に「永劫つきせぬ……」というようにして幾回か繰り返し、一通り四章とも、やっとどうやら、ついてゆけるようになった。最後に私も一同も、一斉に木魚のリズムによって唱和した。一番最初私が木魚を打って歌い出した時は、皆おかしさを我慢しているような表情であったが、次に一斉に歌い出した時は、おかしさ、珍しさ、面白さがゴッチャになったような表情になった。中にはわらい声をもらす者さえあった。繰り返して進むうちに、収容者たちの目は輝き、頬は紅潮してきて、講話の時とはまるで違った生き生きとした喜びの表情が見えてきた。唱和が終わったら、何かうごめくような、つぶやきとも、ささやきともつかない唸り声のようなものが起こって、私が退場するまで、その感動の声は消えなかった。
 この異常なる光景に、私は全く驚いてしまった。今まで学校で、永い間音楽の授業を通して、涙をそそったことはあったが、未だかつてこんな高揚した感激のあふれた光景に出会ったことはなかった。うたというものが、かくも人の心に作用するものか。唱和するということが、こんなにも人の心を感動させるものかということを、あまりにも如実に体験した私は、いよいよこれは捨てては置けないと思うたのであった。
 所長室に帰ったら、所長はニコニコ微笑をたたえながら
「実は刑務所では、お互い同士の話は勿論、監守などに対しても用件以外は絶対に話をしてはならないことになっているんのですよ。然し今日は、みんな思わないうたをうたわせられてうれしかったようでしたね!」
 といわれた。そこで私は
「無言の行ということは随分辛いことと思いますが、ここに居る限りそれも仕方がないでしょう。話したい、歌いたいという欲望や本能は、禁止しつずけでは却って反抗心を助長させるような恐れはないでしょうか。生理的にもよくないでしょう。ですから、ある一定の時を限って声を思い切り出させることが必要だと思いますが‐‐、それには、よい歌を声の限り歌わせることが一番よいかと思いますが‐」
と話したら所長は
「その通りではありますが‐」
と、あとは笑いにまぎらしてしまわれた。事実、唱和した時のあの収容者たちの輝いた目、明るい笑顔、そうした雰囲気を醸し出した歌の唱和を、所長は無条件に是認せざるをえなかったのであった。

 

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