BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

権藤圓立「聴覚による布教の仕方」(6)

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⊿ ⊿ ⊿ 以下、本文 ⊿ ⊿ ⊿ 

 “うつし世”について

 私の幼少の頃、郷里(宮崎県延岡市)で私の母達が先に立ち仏教婦人会を組織していた。この会は、毎月一回真宗の寺で集会した。その頃真宗の寺は四ヶ寺あったので廻り持ちに集会したものであった。集会の時は、その寺の住職によって仏前勤行。法話が行われ、法話が済んで歌を唱和し、その後でお茶を飲みながら雑談して散会という、極めてなごやかな会であった。そして毎月決まった日の夜開かれていた。会場になった寺には、昼間は紺地に白字で、延岡仏教婦人会と染め抜いた旗が立てられ、夜になるとおなじ字を書いた大張提灯が門にともされた。又茶話会の時の茶碗や茶瓶には、白地に金色で延岡仏教婦人教会と書いてあったことを覚えている。
 婦人会の運営は、会長もなく会期というようなものもなく、ただ篤信な中年の男の方二人が庶務会計のような仕事をして一切を司っていた。会費はどのくらい徴収していたか覚えていないが婦人会のあるたびごとに納めることになっていことだけは記憶に残っている。会員や会員の家の人が亡くなった時は、会から香典を贈り、会員皆で会旗を先頭に会葬していた。実に和やかに何のいざこざもなく、よく秩序だって統制されていた。入る者拒まず出る者追わずという、極めて門戸開放主義で、ただ法話を聞くということが会のモットーであった。今日から五十余年前にこういう婦人会があって、しかも歌を歌うていたことということは、今から考えてみると珍しいことと言える。それは私が小学を終えたばかりの頃であったが自分の家で婦人会のある度毎に歌われる歌が、いつと話にすっかり身に沁み込んでしまっていた。
 昭和の初め、前に書いた仏教音楽協会に、この婦人会の歌の曲を思い出して書きつけて出したら、皆非常に称賛した。藤井清水君が伴奏譜をつけて立派な曲譜となった。婦人会の時の歌詞は親鸞聖人の一代記を八五調に長く綴られたもので
  月日のうつるは こまのはし はやるや水より なおはやく
  野山田畑の 景色まで 今年も今また 暮れにけり
が歌い出しであった。
 教会ではこれを汎仏教のものにということで、新たに作詞を野口雨情氏に依頼して出来上がったのが、現在方々で歌われている「うつし世」である。私も好きな曲であるから、数え切れない程演奏もし講習もしている。
 この原曲というのは、その頃何んでも西本願寺系の人で宗因社というものをつくり、歌を歌うて布教していた人があったが、その歌をそのまま婦人会で転用したものと聞かされている。
 五十余年前の延岡仏教婦人教会は、消えてなくなってしまったが、その婦人会の歌は、今尚「うつし世」に生まれ代わって現存している。そしてまたこのうつし世の作詞者も編曲者も、今は故人となってしまったが、その作品は今なお生きていて世の人の心をうるおしている。人の命は短くも、芸術は永し。うつし世はこういう経歴を持った歌である。(つづく)

⊿ ⊿ ⊿ 以下、コメント ⊿ ⊿ ⊿ 

 今回、野口雨情(1882-1945)と藤井清水(1889-1944)の名前が登場しました。じつはこの二人に権藤師を加えた三人は「楽浪園の三羽烏」と称されるほど親交深く、音楽活動を通じて大きな業績を残した三人でした。権藤師は東京音楽学校入学前に東京音楽院受験科に入りましたが、そこで一緒になったのが藤井でした。二人は下谷初音町に同宿し、東京音楽学校では権藤は声楽、藤井は作曲を専攻しました。大正4年に権藤が卒業、藤井は翌年の卒業でした。卒業後は二人とも九州で教員生活を送っていました。
 大正10年に藤井が、そして翌年に藤井の誘いで権藤が大阪へ転出し、各種文化活動に熱心であった大阪市北区の私立北市民会館を拠点に、市民管弦楽団や合唱団を組織し、幅広い音楽活動を展開しました。そして二人は浪曲家、教育者などとともに「楽浪園」を結成しました。そして同園の事業の一環として大正11年11月に、当時詩人・童謡作家として有名だった野口雨情を招いて「童謡民謡講習会」開催しました。この時、野口の歓迎会を開いた際、「音楽による社会教化」を理想とする「楽浪園」の理念に野口が感激し、活動への参加合流を申し出ました。
 こうして始まった三人の活動は、以後、野口が作詞し、藤井が作曲した歌を、権藤が歌うという分担で構成され、演奏と講演を交えた講演行脚活動を全国に展開することになりました。その様子を世間は「楽浪園の三羽烏」と親しみを込めて呼んでいました。やがて楽浪園は一層の発展を目指し、世間の好評と賛同者の協力を得て、大正13年4月に「芸術教育協会」を結成しました。同協会は月刊誌『芸術と教育』の発行や、講演学習活動を展開していましたが、三人の東京転出に伴い解散となりました。
 東京吉祥寺に住んでいた野口は、藤井・権藤の二人に熱心に東京進出を勧め、大正14年には権藤が、翌15年には藤井が大阪を離れ、ともに吉祥寺駅近くに住まいしました。それぞれ結婚していた三人は、各夫婦共々に親交を深め、毎年正月には三軒を一日ごとに三日間で回る正月交換会を続けるようになりました。
 そのように三人にとっては恵まれた人間環境の中、昭和3年文部省宗務局に事務所を置く「仏教音楽協会」が創設されました。三人は揃ってその評議員となりました。このように次第に組織的体制を固めつつあった仏教音楽界にあって、三人は主要な役割を担っていたのです。
 しかし世相は満州事変、日支事変と戦争の黒雲中に飲み込まれて行き、次第に純粋な芸術活動は困難な状況となってきました。昭和16年、権藤は肺炎から心臓病を併発して療養生活を余儀なくされ、昭和18年には野口が宇都宮に疎開するということもあって、三人の正月交換会もできなくなりました。さらに昭和19年には学生時代からの親友・藤井が急死し、翌20年には野口までも亡くなってしまったのです。権藤は一人残され、敗戦前後の混乱の日々を深い孤独と悲嘆の中で過ごさねばならなかったのです。
 けれども次第に健康を回復した権藤は、新たな仲間達と昭和23年に浅草本願寺に事務所を置く「日本宗教音楽会」を結成し、『讃仏歌集』を刊行するなど、音楽教育活動を再開しました。また伊藤精次が尽力した戦前の「仏教音楽協会」の再建運動にも関わり、真宗大谷派の声明・音楽法要にも参加しました。このように三羽烏と言われた野口・藤井との死別、そして敗戦を乗り越えて、権藤にとっては再度の音楽活動に邁進しているさなか、曹洞宗梅花流の活動に加わることになるのです。
 今回の引用箇所の話は、前半が権藤の生まれた真宗寺院で母親達が歌っていた伝承曲のこと、後半には三羽烏の活動道盛んなりし頃のことが記されています。それぞれ前半からは亡き母に対する思慕の情、後半からはかけがえのない二人の友人、野口・藤井に対する懐古の情が伝わってくるようです。
 なお今回紹介された曲について、もうひとつ加えたいことがありますが、それは権藤師のこの文章をすべて紹介し終わった後に行うことにします。