BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

権藤圓立「聴覚による布教の仕方」(8)

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⊿ ⊿ ⊿ 以下、本文 ⊿ ⊿ ⊿ 

  仏教青年伝道館の場合

 ここでの仕事は、たしか昭和6年から数年続いた。左の一文は東本願寺の施誌「十方」の昭和25年6月号に書いたものである。

木魚に歌う

 花祭りが盛んに行われるように努力された安藤嶺丸先生の発願によって建立された仏教青年伝道館。浅草観音さまの山門を入って左一丁ばかりのところに、この辺には不似合いな白亜造りの堂々たるお堂。戦災で今は跡型もないがこの伝道館の当時の主事は小林良甫氏(後の故安藤良甫氏)であった。私がここの日曜講演に、仏教の歌唱指導を始めたのは昭和6年と覚えている。日曜講演は毎月各宗廻り持ちであった。私はその講演と講演の間で歌唱唱和の指導をしたのであった。
 その頃私は駒澤大学の音楽部にいっていた関係から、同部の学生達を動員し、聴衆席のあちこちに交じって私が音頭を取るとその通りに学生達が歌う。聴衆者達もそれに誘われて歌うという仕組みであった。歌詞は略譜を入れて印刷したものを一枚づつ来聴者に配った。そうすると中には丁寧に押し頂く人もあり、済んだ後でわざわざ貰いに来る人も幾人かあった。二三十分繰り返してやっていると大体うたえるようになるので、最後に皆起立して大声を出して、私も共ども歌って終わるのであった。楽器は小さなオルガンが備え付けてあったが、最初範唱する時と最後に一同唱和する以外は、すべて木魚を使用した。
 この木魚唱和は数年つずいた。その間にはいろいろなエピソードがある。ある時主事の小林さんがこんな話をされた。
「この前の日曜講演のあとで、一人の右手の不自由な青年が訪ねて来た。その青年は、両親に亡くなられて、今は伯父さんのところに厄介になっている。片手で不自由なためにあまり働きが出来ないので、伯父さんもよくは見てくれない。他所へ行っても働かしてくれるところはない。いっそ死んだ方がましだと思いつめて、その死に場所をさがしにフラフラと浅草公園に来てしまった。ふと伝道館の前を通りかかると、歌が耳に入った。何とはなしに入り口に来てみると、木魚をたたいて「ようごうつきせぬ世なればやーァー」と大勢が歌うている。つい自分もそれにつり込まれて、中に入ってしまった。だんだんついて歌っているうちに、いつか自分も大きな声を出してうたっていた。最後に、いっしょに立っていい気持ちでうたった。
 歌が止んで自分にかえった。そして自分は死場所を探してさまよい歩いていたのだと気づいた。しかし、その時の自分には「死ぬ」というような気持ちは全然なくなっている。さっきとはまるで反対に、死にたくなくなってしまった。これは一体どうしたことだろうと、小林さんに尋ねた由。そして「これから後どうしたらよいでしょう。どうぞ教えてください」」
と相談に来たとのこと。私はこれを聞いて自分がやっているこの木魚唱和が、そういう尊い機縁となったことに驚くとともに、ややもすればお役目的な仕事にならんとする自分の心持ちを愧じたことだった。

  ドレミハを木魚でやる伝道館

 西島○丸氏のこの川柳が、谷脇素文氏のユーモラスの漫画、洋服の男が大きな口をあいて何かうたいながら木魚をたたいている。その下には紙片を持って幾人かがこれも大きな口を開いてうたっている絵と共に、昭和8年11月17日(金曜日)附の報知新聞に、「大東京を歩く」という見出しで載っていた。なんだかくすぐったいような、恥ずかしいような気がした。今でもこの漫画を見るとほほえましいような気がする。
 思えば既に20年も昔のことになった。この伝道館での日曜毎の木魚唱和は、今でも尚私の胸のおくどで、かすかに、しかしはっきりと力強く響いている。

 この伝道館の日曜講演に集まる人たちは種々雑多で、下町の店屋の主人風の人、老人、中年のおかみさん、生活にあぶれて居処がなく、腰掛けて休めるのを幸いに来たというような浮浪者、あてどなしに公園をうろうろする若人といった具合で、他の講演会などに見られない雰囲気であった。であるから入り口の扉も開け放しにして置かないと入って来ない。始終出たり入ったりしていた。それでも日曜講演を楽しみにしている常連が相当あった。私はいろいろな歌をやったが、結局「うつし世」に落付いてしまった。「うつし世」以外は皆うけつけなくなってしまった。

⊿ ⊿ ⊿ 以下、コメント ⊿ ⊿ ⊿ 

 今回は、権藤師が浅草の仏教伝道館の日曜講演で行っていた活動の紹介でした。その対象が、人数、性別、世代、職種のいずれもが不特定の状況で、歌唱唱和の魅力に引きずり込む権藤師の力量に、ここでも驚かされます。ふと自分のことを顧みてみると、たとえば「梅花流特派巡回講習」等は、あらかじめ作法詠唱練習をした受講者と、諸事万端整えていただいた会場関係者の皆さんにすっかりお膳立てしてもらった状況で、「遠来のお客様先生」として迎えられ、講習させてもらっている場合がほとんどなわけで、恥じ入るような気持ちでいっぱいになります。
 またもう一つ今回の話で注意したいことがあります。それは昭和6年の時点で、権藤師が駒澤大学の音楽部に関与していたことです。それがどのような形なのか、ここの文章だけでははっきりしませんが、少なくとも自分の行っている日曜講演に、学生の動員を要請できるような指導的立場だったことが伺えます。
 現行の『梅花流指導必携・解説編(資料)』(平成25年5月発行・改訂第4版)の「梅花流年表」によると、昭和28年2月10日の欄に、「釈尊霊場奉詠参加の折、会場となった箱根小涌園大広間に於いて権藤先生に野村師範が出会い、これが端緒となり、将来梅花流発展のため先生の指導を仰ぐことになる」とあります。おそらくはそのことが「梅花流」と権藤師の最初の接点かもしれませんが、駒澤大学音楽部との関係を通じて、戦前の昭和6年当時から、権藤師は曹洞宗との接点をもっていたと言えそうです。