BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

権藤圓立「聴覚による布教の仕方」(11)

⊿ ⊿ ⊿ 次回で最終回です。以下、本文 ⊿ ⊿ ⊿

  春秋二季の彼岸法要

 博善社では、春秋二季の彼岸には寺院方を招待して同社関係の火葬場でもすべての火葬者の供養法要が各火葬場廻り持ちで営まれる。その法要は、社員全員の「朝礼勤行」によって始められ、次に寺院方の法要が務められる。この時の朝礼勤行は、社長が導師を務めるのが普通であるのに、博善社では法要の営まれる火葬場の管理者が導師となって営まれる。こうした行き方も亦、他に類例のない民主的の務め方である。法要が終わると最後に「彼岸のつどい」が斉唱される。

  彼岸のつどい(仏教音楽協会制定 協会作詞 小松耕輔作曲)
  一
とこしえに 吾等の家を 護ります 代々の御魂を 共にまつらん
  二
むつみあう 吾等の胸に 御仏の 大御力は いつもやどらん
  三
御仏の はてなき慈悲に 照らされて すぐる月日の いかにとおとき
  四
さかえゆく 吾等の家の めでたさを 代々の御魂も 共にめずらん
 
 因みに私が指導消化した歌のうちでも、特に四弘誓願は、この博善社会員に非常な歓迎を受けていることを附記しておく。

  和讃、詠歌

 和讃は梵讃、漢讃に対しての名称である。大体平安中期に詠歌と共に発生した。和語漢讃である。その曲節は声明から出たもので。一般在家の親交深き人々が、これを口に称え、共に歌って仏徳を讃嘆したものであろう。
 詠歌は三十三箇所の霊場を巡拝する時に歌われた。三十一文字の巡礼歌である。三十一文字の和歌を以て讃仏することは、すでに奈良朝からあったが、今日伝わるその詠唱法は花山朝に和讃と共に発生したものと思われる。
 詠歌和讃は、声明が儀式的に規格を厳重に守り、頗る尊厳の体があるのに対して、分かり易いので一般に流布して歌い広められ、一種の在家勤行となり、僧侶合同の法会に用いられるようになった。従って普通の民謡や流行歌と同じようには歌われていなかった。然し昨今は、これが仏徳讃嘆とか、在家勤行とかいう根本的理念が非常にうすらいで、形式は法会であり勤行のようであるが、動もすれば唱え方の技巧のみを競い、若しくは詠唱の鑑賞のみに走り、それより一歩も出ないという風な傾向のように思われる。それは詠歌和讃の進歩発達には役立つに違いないが、結果としては詠唱する者自身の慰安娯楽にとどまるものではなかろうか。
 詠歌和讃を詠唱する者は、場所は普通の部屋であり、着物は普段着であっても、僧侶方が装束を正して仏前に声明を唱えるのと同じ心持ちであらねばならぬものではなかろうか。詠歌和讃を唱えることは、一種の菩薩行であらねばならぬと思う。よく唱えることの出来るものはよく唱え得ないものより菩薩行の進んだものであらねばならぬと思う。
そこには布施の気持ちがあらねばならぬものではなかろうか。詠歌和讃に指導的立場にある者は、この意識を深く持し、常に菩薩行を修する自覚の上に立脚せねばならぬと信ずるものである。何はともあれ、昨今関東一円の詠歌連盟が誕生し、日に日に隆盛を極めてきたことは、まことに慶賀すべきことである。
 去る九月の彼岸の中日(秋分の日)に、立川のあるキリスト教会の子供達が、多磨墓地に行って花束を捧げて、地下に眠る幾多の御霊を供養した新聞記事を読んで、一仏教徒たる私は非常なショックを与えられたのであった。布教といい、教化というても、それには一定の限度というものはない筈である。身証、体行に迄行って始めてその目的が達せられるべきではなかろうか。

⊿ ⊿ ⊿ 以下、コメント ⊿ ⊿ ⊿ 

 権藤師の音楽歌唱教化の実例は、今回の博善社彼岸会法要の紹介で終わりになります。
 後半の「詠歌、和讃」の章では、それに携わる者、とりわけ指導者の側に「菩薩行」としての自覚が必要であることが強調されています。声楽家として、いわゆる音楽の専門家としての立場からだけでなく、権藤師においては「仏教徒」としての主体的な自覚が強く意識されていたことがわかります。