BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

「改良衣」のこと

 かつて〈トリビアの泉〉というテレビ番組で、お寺やお坊さんの使う仏具や法衣のほとんどが通販で購入できるということにかなりの数の「へえ」が上がっていた。たしかにそうなんですね。たぶんこの20~30年でその傾向は格段に進んだ。

 それはいいのだけどこの「改良衣(服)」と呼ばれている服。棚経シーズンも最中なのでこの姿のお坊さんを見かけることも少なくないと思う。だいたいどちらの宗派も似通ったスタイルで、一般には気づかないくらいの部分にちょっとした違いがある。
 で、問題はこの名前。ほぼ名詞化して定着しているのだけど、「改良」という以上は、従来あった形を改良してこの形にしてこういう名前になったはず。
 ではいつ頃、どういうわけでこのように「改良」したのだろうか。

 業界の皆さんにはご存じの『禅門宝鑑』の編著者、来馬琢道師。博学にして闊達の禅人、寺院経営にも秀でて、社会活動にも活躍した近代~現代をつなぐ宗門キーマンだと思っています。じつはこの人のことを近頃調べておりまして、くだんの「改良衣」に関する資料を見つけました。
 ここに紹介するのは、昭和8年(1933)に発行された『明治仏教の研究・回顧』(松岡譲編、現代仏教社)に収録されている、来馬師執筆による「明治僧風の変遷」という一文の内容です。
 同書は書名の通り、明治が終わって約20年余を経て振り返った「明治時代の仏教」を諸方面の観点からそれぞれの研究者が寄稿した論文集です。
 この中で来馬師は、明治時代の僧侶の風俗は大別して二種あったと言います。
 その一は浄土真宗で、これを在家宗と来馬師は呼んでいます。そしてこの宗は平素は俗服を着けて、法要時に法服を着ける。
 その二はその他の宗派で、法要時の法服は勿論だが、平時でも俗服というのではなかったというものです。
 この「その二」について三種あるというのです。
 第一は、平素も必ず法衣を着けていることに定めている宗派。これは天台宗真言宗
 第二は、都合によって一種軽便な法衣に類するものを着ける宗派。これは曹洞宗臨済宗
 第三は、小さい法衣を制定してこれを着ける宗派。これは浄土宗とその他の宗派。
 ただ以上は大体の傾向であって、自分の記憶では、

 第一種。天台宗では「阪浄衣・サカジョウエ」と言って、大きな衣の袖を紐で絞り上げて袖が邪魔にならぬようにする装置があった。曹洞宗の場合の玉襷・タマダスキ、上手巾・アゲジュキンという形があって、類似のものである。
 第二種。禅宗真言宗、浄土宗のいずれの場合もあるが、法衣を着けずに被布着ける場合、または道行すなわち合羽の形の崩れたのを使う場合。道行は俳諧師などが着けたもので、曹洞宗ではこれを「変哲」と呼んでいた。
 第三種。小さい法服を用いる宗派。臨済宗や真宗の一部で間衣・マゴロモと呼んでいた。また素絹という一種変わった衣を学校の講義の時などに着ていた。
 以上の他に「法衣身」というものがあり、袖を紐でかがり、羽織のまちの入るところも紐でかがり、真宗の間衣と普通の法衣を折衷したようなもので、ちょっと見るといかにもありがたいものである。自分もこれを使用し、今も持っている。

 以上のような状況の中、各宗の僧侶が共通に困ったことは、平素、袖の大きな衣を着ける不便さを何とかしたいということであった。
 そしてついに袂は羽織の如く縫い付け、胴は小さい衣の如き形にし、長さも少し短くして下に袴を着け、紐は衣の如く二ヶ所で結ぶようにしたものを用いだした。自分が雑誌『仏教』に僧服改良論を揚げた(注:前回の投稿コメントで菅野 宗一さんが紹介してくださった川口高風先生の論文にその要旨が載っています)時はまだ何宗でも用いていなかったものである。
 ゆえにその衣が出来た時に「改良服」と云われ、後に名称を定めて「伝道服」と云われ、また更に略して「道服」という宗派もある。ただしその略服の背の横に横に縫い目を入れ、ヒダを中央に入れるか入れないかが今なお各宗の間で問題になっているようである。
 自分の考えでは元来偏衫・裙子から出たものであるから、帯のところで一遍区切って後にもヒダを着けた方がよいと思うが、今はだんだんその線は取られるようになってきた。即ち約20年の間に日本の僧風は平素は皆軽便なる伝道服を用いることになったと云ってもよい。今日東京市中歩いてみると、玉襷で上手巾をして居る僧侶もなく、坂浄衣を着て袖をたくし上げて歩いている人もなく、間衣、素絹の類を着し居るものもなく、ほとんど一定した形のいわゆる改良服を着ているのを見ると、明治僧風の変遷はここにうかがうことが出来るようである。

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 この問題に関する川口高風先生の論文
http://zenken.aichi-gakuin.ac.jp/research/26/08.pdf
も合わせ考えると、「改良服」という名称は何度か使われ、その示す内容もその都度変わっていたように思います。そして明治期には各宗ともそれぞれの対応で足並みが揃っていなかったものが、昭和初期までにはほぼ改良服(ここでは伝道服と云うも同じ)型に各宗とも落ち付いてきたようですね。