BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

江戸時代「警策」論議(6)

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 こんどは、ここで面山さんは、禅杖を受ける人と禅杖を行ずる人、双方の心の持ちようについて語る。

 受杖の人はよくよく心に念うべきである。
「自分は髪を落とし衣を染めて僧侶となった身である。有為転変する生死流転の世界にあって得難き人間の身をもって生まれることができた。ひとたび今生の生が尽きれば、私のタマシイは来生のものとなってしまう(原文「一息既に絶たば、識来生に属す」)。今この世において修証しなければ、いつやれることがあろうか。心は、暗く落ち込みやすくまた落ち着きどころなく散漫になりやすい。深い悟りの境地に至るのは容易なことではない(原文「昏散は侵し易く、三昧は熟し難し」)。だが幸いにもいま禅杖によって睡魔を退散させることができた。この恩の広大さを肝に銘じておこう」と。
 また行杖の人もこのように念じなくてはいけない。
「私がこの役目をさせていただくことによって、修行者の睡魔を退散させることができるのである。そしてその修行者は禅杖の力によって、深い悟りを得ることができる。“禅杖を行ずる功徳”はそれほどに偉大なのだ。修行者が眠りに襲われるたび毎に、私の行杖の功徳も積ませていただくことができる。たとえ何度眠ることがあろうとも、どうしてこの役目を厭うことがあろうか。菩薩の行願は人のために尽くすことである。この任に当てられたからには、しっかりと如法につとめよう」と。
 もし禅杖を行ずる者と受ける者。お互いがこのようであれば水乳相い和するごとくして、正しい仏祖伝来の坐禅は脈々として相続されるのである。そもそも禅杖を用いる目的は、ただに眠りを覚ますためにあるのである。横になって熟睡し、いびきや寝言を言うようになっていたとしても、ちょっと声をかければすぐに起きるのがふつうである。ましてや坐禅の定中にあってほんのわずか眠気に襲われるだけのことである。どうして強打し暴撃してこれを驚かすことがあろうか。
 
 というのである。こうしてみると面山さんの言いようは、どこまで「坐禅」という聖行を全うさせるために心を尽くしているようなところがある。よく知られた言葉だけど、中国の禅書に『信心銘』の中に、「至道無難、唯嫌揀択、纔無憎愛、洞然明白」(道をきわめることはむづかしいことではない、ただえり好みする心を嫌う。少しの憎愛もなかったならば、あるべきところはすっきりとして明らかなのだ)という意味合いと通じるような気もする。

 さて、いよいよ結びの一段。次回でお終いです