尼僧団団歌
〈FBの過去記事に埋もれそうなのでこっちにあげておこう〉
雑誌『大乗禅』昭和25年3月号の記事です。
曹洞宗尼僧団の団歌が完成発表となりました。
赤松月船師の作詞です。
梅花流発足以前に〈赤松師-歌-尼僧〉の関係を示すもの
梅花流発足には尼僧さんたちの強い慫慂があったと聞いて
この消息と何か関わりがあるものでしょうか。
お気づきのことあれば、お教え下さい。
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飯島 惠道 赤松月舟師、賀来琢磨師のお名前は、「曹洞宗聖歌」の中で拝見したことがあります。仏教聖歌を沢山作られていたのですね。先達の尼僧様方が、その方々と直接やりとりがあったとは存じ上げませんでした。一般の方にも、子供たちにはわかりやすく仏教を伝えるために、歌や梅花流にエネルギーを注がれたのではないかと思います。先先代が生きていれば、聴けたのですが・・・。青木先生もご遷化され、当時のことを知る尼僧様がどんどん減っていっております。できれば、記録として遺したいと考えております、が、一人では無理ですね・・・。
来年は、尼僧団発足70周年となります。終戦後、尼僧団が結成された拝啓には、男僧さんが戦争に行ってしまって、諸々がとどこってしまわないよう、各地の尼僧たちが活躍していたのだと思います。それまでは、おそらく出番がなかったのではないかと思います。大きな法要などでも、典座、接茶寮配役になり、表舞台には立つことが無かったのではないかと思います。しかし、戦時中は、男のお坊さんの代理を務めることにより、自分たちも男のお坊さんと同じことができるのだ、という手ごたえを感じたのではないでしょうか?そして、同じことができるのに、何故、女であるというだけで、同じことをさせてもらえなかったのか?という疑問が生じ、宗門に対して男女平等を訴えたのではないかと思います。戦後、男のお坊さんが帰ってきて、もとのポジションにおさまると、尼僧の出番は、また元のポジションに戻ってしまいました・・・。制度が変わっても、社会はなかなか変わらないものですね。
梅花に力を注いだのは、そこに尼僧の居場所を見つけたからかもしれません。男のお坊さんと同じ土俵に立って頑張れる「場所」。修行をした場所の制約をあまりうけずに、自分の実力で頑張れる場所。そんな風に思います。
尼僧が梅花に力を入れた背景についての本当のこと、知りたいです。
話がそれてしかも長文申し訳ありません。以上、私の所感まで。 -
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