BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

尼僧 小島賢道師

 「梅花流誕生」の背景を考えている。

 先般、新宿区観音庵の東堂・笹川亮宣師にお会いした折、師がこのように言われていたのが気になっていた。「私は当時、尼僧団の書記をしていたのですが、尼僧団の小島賢道さんから“あなた行ってきなさい”と言われて、先輩の野村さんや熊倉さんと一緒に行くことになったんですよ」。

 くだんの話題は、梅花流発足以前に、密厳流詠讃歌を修学のため埼玉県の真言宗寺院・錫杖寺へ「留学派遣」に至った経緯をお聞きしていた時のこと。「気になっ」たのは、詠讃歌修学への志向が、丹羽仏庵師を初めとする静岡県僧侶達の慫慂によるものではなく、「尼僧団」のものらしいということ。この時点で小島師の名前は『曹洞宗尼僧史』の発行者として憶えていたくらいで、詳しい知識はほとんどなかった。

 だが亮仙師のお話を伺っている際に、同席していただいた観音庵の現御住職・笹川悦道師のお話に、尼僧団の興隆に尽力された小島老師の活動に少しながら触れ、梅花の発足に関わりがあるのかもというニュアンスを感じていた。

 そんな矢先、笹川悦道師からお手紙をいただき、合わせて同師が小島師について執筆されていた玉稿掲載の『花はちす』という冊子を頂戴した。

 この文章によってほとんど知らなかった小島師の活動の概要を知ることが出来、非常に有難く感じている。ここに備忘の意味も込めてその全文を記し、合わせて小島師に関する少しの記事を添えて、当面の課題へのメモとしておこう。

 

曹洞宗尼僧団 全日本仏教尼僧法団 創設に命をかけた小島賢道師を懐古」

笹川悦導 記

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 曹洞宗尼僧団並びに全日本仏教尼僧法団創設の親、小島賢道師について少しばかり懐古してみた。
 師は愛知県で明治31年7人兄弟の末っ子に生まれた。正月とお盆に経をあげに来る僧侶や尼僧の姿にひかれ、もの心かついたときから「お坊さんになるんだ」と決めていた。親の反対を押し切り、12歳で隣村の観音寺に入り出家得度。関西尼学林で修行。しかし成長するにしたがい、男僧と尼僧の差別のはなはだしいことに憤慨の気持ちが絶えなかった。
 学林を加藤真成師と二人でやってくれと託されるほど、大衆の頂に立ち、統率力があった。
 女人禁制の駒澤大学に押し問答をして、やっと聴講生として入学を許された。後に、愛知専門に僧堂堂頭となられた加藤真成師、ルンビニ園創設者谷口節道師等と大正13年から昭和3年まで学ぶ。幸い熱心な勉学姿勢に、大学から専門部の卒業証書が出た。
 昭和12年頃から戦争が始まり、名古屋駅で出征する兵隊を見る。その頃ハワイ開教師の話があり、13年6月にハワイへ赴任。16年、真珠湾攻撃から太平洋戦争勃発。最後の船で帰国できた。
 法に飢えた身体を、永平寺の眼蔵会に参加して聴講した。室内に入れてはもらえず、廊下に座って拝聴。でも、有難くて法の一つ一つが感激であった。
 高祖道元禅師ご征忌逮夜、行道に入れたもらって感涙にむせび経を読んだ。それが問題になり「尼僧のくせに」と、とがめをうけ、僧侶にあこがれ出家したものの差別と矛盾の壁にぶつかる。これをなんとか打破せねばと、本来の性格が燃え高ぶった。
 戦時中は尼僧挺身隊として軍事工場、火薬工場に動員され、その間、監督役を申し出て宿舎で坐禅、読経と叢林と同じにつとめた。さらに、差別に立ち向かうために取り組んだのが、尼僧の教育と団結力。
 昭和18年1月、「尼教師錬成会」として講習会を開催。昭和19年2月には「曹洞宗尼僧護国団」を立ちあげた。終戦を迎え、20年10月にその名を「曹洞宗尼僧団」と改称。以後、三つの目標を掲げた。一つは嗣法問題、二つめは人材育成のために駒澤大学に通学する尼僧の寮の建設、三つめは孤児収容施設の社会事業
 三本柱の念願は、21年の6月に嗣法が新宗制で許され、男僧尼僧の教師資格が同格となり、尼安居と選挙権が付与された。22年の1月、戦災孤児収容施設「ルンビニ園」は富山市月岡村霊眼寺に開設。そして、23年の11月に多摩川河畔に古い建物を譲り受け、「駒大尼僧学生寮」が出来る。
 小島賢道師の熱き念願と実行力により、目標は速やかに達成した。さらに師の願欲はとどまらず、昭和26年9月に各宗の尼僧が手を繋ぐ「全日本仏教尼僧法団」を結成させた。しかし、この誓願目標を完結するまでには幾多の艱難と辛苦があり、想像を絶する大小の事件にも巻き込まれた。諸大徳の交わす意見も賛否両論。まとまらず夜を徹し火花を散らしたこともあった。師の独裁と真剣な熱き精神は、反対派を突きはね、大きな理想に向かう悲願に突き進んだ。こういう師を仰ぎ敬う人も少なくなかった。
 今日「曹洞宗尼僧団」は70周年を迎え、男僧・尼僧の制度上の差別は存在しない。明年「全日本仏教尼僧法団」は、65周年を迎える。両団とも小島賢道師が創立の大功労者である。無我夢中、命がけで尼僧の道に情熱を燃やし尽くした師をあらためて讃えたい。

『花はちす』227号、平成26年8月1日発行、発行人・川名観惠、公益財団法人全日本仏教尼僧法団(東京都新宿区大京町31)

 

 私が住まう秋田には尼僧は知っていたのは二人、知己と言えるのはお一人だけ。失礼な言い方になるかも知れないが、差別的な意識よりも「珍しさ」が先になってしまう。他地域の尼僧さんとは何人か知己があるが、やはり多かれ少なかれ尼僧であるがゆえの被差別観を吐露される。悦道師の「制度上の差別は存在しない」という表現の意味は軽くない、と思う。その問題は重いのだが、いましばらく小島師の活動に焦点を当ててみたい。

 

 戦前・中・後を通じて、尼僧であることへの不当な不遇に抗い、修行に、修学に、社会事業という名の衆生済度に邁進した小島師の行動に心から敬服する。悦道師があえて筆をはばかった艱難・辛苦と大小の事件がさらに横たわっていたことを思えば、さらに低頭するのみである。

 小島師が自らの意見を広く曹洞宗教団内に届けようと、昭和二十四年に曹洞宗宗議会議員に立候補を決意した趣意文が雑誌『大乗禅』に掲載されている。それを抄出してみよう。

 

「立候補の趣旨」
曹洞宗尼僧団常務理事 小島賢道
『大乗禅』昭和24年9月号

「私はいわゆる政治といはれるものは何も知りません。が、只敗戦後の混沌たる世相の中にあって、それと全く同調の如き宗門行政の様相を幾多見るにつけ、一体吾々というものは衆生済度の身でありながら、これでよいのだろうか、はたまた宗門の存在価値が一体何処にあるのかと深く疑い、この疑念を廣く宗門の識者に訴え、厳正な御批判の下、真に正しき宗門行政を確立実現したい愛宗護法の心情にかられて、臆面もなく恥も分際も忘れて立候補した次第でございます。」
「思えば、宗教は大自然の命を信ずることであり、正しい自然の法則に順応するものでありますが、江戸仏教は徳川300年の政策によって、その本来の使命を失い、命なき形骸仏教として、今日まで漸くその惰性によってつながれて参りました。然るに今敗戦という一大警鐘の下に、ゆがめられた過去封建の殻をぬぎすて、本然の姿に立ち帰るべく、その時機が与えられたのであります。今こその好機を逸することなく、宗門真実の和平、革新の道を開拓すべきでありますのに、今以て宗門行政の衝に当たる人達の中には、未だ何ら目覚むることなく益々騒動宗の異名をたくましうして居りますが、事ここに到らしめた最大原因は何処にありましょうか。そは宗門行政機構そのものが仏法必然の真理に逆らって全く尼僧の存在価値を無視した処にあると断言して憚りませぬ。
 大聖釈尊は、法の顕現としての人間性の平等を説かれ、宗祖もまた「たとえ七歳の女流なりとも四衆の導師なり、男女を論ずることなかれ」とたかい男女の絶対平等視を示されて居りますのに、何時の間にか尼僧の存在を無視して、男僧独裁の宗門とされたところに騒動宗の醜名を天下にさらすようになった原因があると思います。然し幸いにして昭和維新の大革命期を迎えましたる今日、真実に厳正公明なる法眼を以つて、男尼の悪差別視を撤廃し、尼僧えの得度権も、面授嗣法の変則も解かれるよう、徒らに男女の相に拘らず、只、得法の如何によって僧階、法階の次第も決せらるるよう、宗祖児孫の一員として、私は全生命を賭して立法の議場に叫ぶ覚悟でございました。与えらるるべきを与えられたところにこそ、自ら過去現在の消極性、他力性、を去って、真に生きがいのある吾々の使命感も確立するものと信じます。」
「思えば現今は男女円融せる平等の下、日本婦人はその過去のゆがめられたる道を改め、新しき世代の脚光を浴びて、政治に、学問に、宗教に、はたまた芸術に、あらゆる文化の一端を担って、華々しくその歩みを進めつつある時、つとに時代の先端を行くべき宗教者の世界にあって、未だその真実なる平等観が、あたかも弊履の如くにおきざりにされ、尚も伸びんとする若芽を徒に摘み取る如きことさえも行われんとする中にあるとは一体何を以てか仏法者の名を誇り、何を以てか宗教者の使命を完全に果たしうることが出来ましょうか。」
「さすれば今後の日本が家庭教育の向上、並びに宗教情操の堅持を必至とする時、一般社会のこの要求と相俟って、宗門に於いても主にその接触を婦人に持ち、家庭布教を担当せる尼僧の教養と信念の確立は、これまた当然なさるべき重大事項であります。その意味に於いて今後宗門は何としてもこの尼僧の修養教育機関に大いに意をそそがねばならぬ。従って今後布教面の重点は婦人布教、青少年布教にその拡充強化を図り、かかる時代の要請に即応するは当然の道でありませう。また社会事業面にも、寺院の社会福祉事業えの開放の徹底が為さるべきであります。尼僧団では孤児を収容保護して居りますが、こうした事業を廣く宗門の事業として大いに拡張して頂きたいと思います。宗教は只単にかくありたしと知ることではなくして、かくならんとなる事であると思います。」

 

 ここに小島師自身の言葉で、当時の率直な教団批判が展開され、さらに釈尊・両祖の意に立ち帰って、男女平等観に根ざした新たな曹洞宗教団の使命を唱えていることが読み取れる。

 そしてこの「趣旨」で注目したいことは後掲の引用文に見える、「家庭布教を担当せる尼僧の教養と信念の確立」という表現である。これは尼僧が担うべき宗門布教の分野を小島師が想定していた証左と見てよいものではないだろうか。無論、これが小島師単独の見解ではなく、当時の教団、もしくは尼僧団に共通するものであったかも知れないが、それは今の時点では定かではない。

 結果、小島師は昭和26年2月に宗会議員として選出され、尼僧として初めて宗政に参画することとなった。

 

 この年に笹川亮宣師等、3人の尼僧が密厳流詠讃歌修学へ「留学派遣」されていることを注意したい。これに関する小島師あるいは当時の尼僧団の意図はまだはっきりとはわからない。しかし、尼僧の地位向上、それを支える戦後の新しい布教教化方針の具体的な一つとして「詠讃歌活動」が求められていた見ることは出来ないであろうか。

 戦後の布教方針が、民衆への親和化を、そして青少年および女性などを対象としていくことはすでに検証してきた。さらに詠讃歌活動が密厳流を初めとする他宗諸流の活動により戦後再び活発になりつつあったことも確かめている。社会における女性の地位向上の気運に呼応して、曹洞宗教団における尼僧達が、自分たちの新しい布教教化手段として求めようとしたのが「詠讃歌活動」ではなかったろうか。

 昭和26年にその胎動を始めた曹洞宗の詠讃歌活動は、翌昭和27年に、日本国の名目上の独立、道元禅師700回忌とともに「梅花流」名前を得て発足し、教団が新しくテーゼとして掲げた「正法日本建設運動」とともに発展する。

 曹洞宗尼僧団もまた小島師を中心とする諸老師の尽力により、宗派を超えて各宗に僧団の要として歩みを進めていた。

 昭和30年9月、小島師が発行人となって『曹洞宗尼僧史』が刊行される。その冒頭、小島師の記した「啓白文」は次のようなものである。

 

「わたしども数十名の尼僧が厳冬氷雪の中を越のお山に拝登いたしまして、五昼夜を剋して端坐摂心、礼拝得髄の巻の御親示を仰ぎ、感泣して尼僧の真実道に邁進いたすことを祈誓し、大慈大悲の御照鑑を懇請いたしましてから十星霜を閲しました。
 わたしども尼僧が管長秦慧昭禅師猊下を初め、総務谷口虎山老師、教学部長山田霊林老師、教学部主事山内元英老師等の御支持のもと、尼僧団の結成をいたしましてから十幾年になります。
 その間に宗門御寺院並びに先覚諸兄姉の御扶掖によりまして、わたしども三千の尼僧は一心同体、不惜身命、もって宗教的人格の育成につとめ、仏教的教化の進展につとめてまいりました。そしてこの事に純一であればあるほど、高祖大師会下の尼僧、太祖大師会下の尼僧、乃至従上の尼僧諸師の行実の誠に偉大なるものあることを感得し、この偉大なる行実をわたしども尼僧の木鐸として、獅子奮迅三昧を行取いたさねばならないことを覚悟するに至りました。
 かくして、わたしども尼僧は曹洞宗尼僧史の編纂刊行を発願いたし、高祖大師七百年の大遠忌法要の機に於て、大師の真前に献上し奉ることに力めましたのも、それがためでありました(後略)
 昭和三十年九月大吉祥日
               曹洞宗尼僧史刊行専務理事 小島賢道 稽首敬白」

昭和30年9月29日印刷発行 曹洞宗尼僧史編纂会 発行人・小島賢道 発行所・曹洞宗尼僧団本部

 私には、ここに繰り返される「わたしども尼僧は」という表現に、小島師のなみなみならぬ信念と自負が感じられる。