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BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

洞慶院にて

 臘八のさなか、静岡・洞慶院を訪れた。

 快晴の富士、寒気さえも好ましい朝。

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 初めてここを訪れたのは30年以上前。二十歳前後のこと。東京別院の学寮で一緒だったスリランカの友人がここの前堂頭・丹羽簾芳師の弟子。彼の法戦式に随喜したのがその時だった。記憶の中の風景と眼前の景色が重なる。

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 梅園には花も葉もないが、ドウダンツツジの朱が誇らしげだった。

 この秋に堂頭・鉄山師が遷化。偶々静岡を梅花特派の巡回であった。巡回中出逢ったb養成所二十期の丹羽崇元師。彼が現在鑑寺として洞慶院に入っているという。その師父・儀裕師が後継として来年の晋山が予定されているという。実際にお会いすると、かつて別院でお会いしていた人だった。

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 崇元師の話では「先代の資料はまだ何も整理していない。私たちも手をこまねいていたところ。どうぞ自由に調べて下さい」と。

 先の堂頭師の居室、不老閣の地下室、2階の物置、書棚の全て。至る所を開放し調査に供してくれた。鉄山師、簾芳師、仏庵師、三代の遺品と蔵書は膨大なものであった。特に蔵書はちょっとした研究所の質量を軽く凌駕する。

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 自他共に認める「梅花の発祥地」。顕彰するスペースもしっかりある。

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 ここを拠点に梅花流が始まった経緯を簾芳師が綴っている文章がある。

 

「梅花流詠讃歌の創設」

 小康をえると、もうじっとしていられないのが師匠の性格でした。
 昭和27年には、ご開山道元禅寺様の、七百回御遠忌が予定されていましたが、旧態然たる計画で目新しさがない。師匠の仏庵は、この御遠忌を長い戦争で荒廃した人心をいやし、あわせ宗門の復興発展をはかる絶好の機会であるととらえていました。監院時代の昭和20年12月、早くも大遠忌の第1回準備会を開くという熱心さでしたので、通り一遍の内容に満足できませんでした。
 当時、曹洞宗には宗門としての詠讃歌がありませんでした。心要な時には、金剛流などから譜を借りて間にあわせていましたので、「曹洞の乞食節」と呼ばれるあわれな状態でした。
 師匠はこの点に注目しました。ご遠忌までに、なんとかご開山のご和讃やご一代記をつくり、そのお徳をたたえるしんみりした譜づけを完成したいと願いました。そこで、昭和25年の小松原国乗宗務総長の時でしたが、師匠は宗務庁にご詠歌の創設を再三にわたり進言しました。
 いっぽう、宗門の図書や印刷を担当している古径荘という会社が東京の青山にありますが、そこの森地明睦さんに「ご詠歌の先生を知っていたら紹介してほしい」と相談しました。
 「それは、ちょうどよかった。今、埼玉県の川口市に住んでいるけれども、金剛流からわかれた密厳流という新しいお流儀があって、なかなか明るい作曲をしている」という、森地さんのお返事でした。
 さっそく、高野山大学を卒業した川口市の長岡紹臣さんという、当時25,6のお若い師範をつれてきてくれました。そこで、昭和25年から毎月長岡紹臣さんを講師に招いて、密厳流の研究会を始めることになりました。
 宗務庁がご詠歌の創設に躊躇しているのをみると、師匠は北村大栄師の「高祖大師御一代記」の和讃をもとに、出来上がった作詞に自ら手を加えて、「降誕」「得道」「説法」「涅槃」の四段にわけ、長岡紹臣さんの師匠にあたる小河原玄光師に作曲を委嘱し、この年の12月完成をみました。
 翌昭和26年の1月から、師匠をはじめ私ども静岡県第1宗務所の大賀亮谿、安田博道、大島賢竜、丹羽鉄山等20数名の有志が、二日間泊まりこみで本格的な勉強にとりくみました。長岡さんが、観音さんの秘曲といわれる密厳流のすばらしい譜を詠じてくれましたが、そのつど感激して聞きほれたものです。
 2月に入ると小松原内局にかわり佐々木泰翁師が宗務総長に就任しましたが、師匠は社会部長の山喜紹三師にご詠歌創設を引き続き進言しました。師匠の再三の進言に加え、大遠忌局企画部次長の山田義道老師の要請に刺激され、6月にいたってともかくも研究会が曹洞宗の外郭団体として発足することになりました。翌7月には、山田霊林禅師さま、堀口義一、高田儀光、山内元英、赤松月船、永久岳水、小暮真雄、関岡賢一の八師に、詠讃歌研究員が委嘱され、ここに具体的な歩みを始めました。これまで長岡師範の毎月の旅費からお礼まで、すべて師匠一人で負担しておりましたが、ようやくにむくわれたという思いがしました。
 宗門としてとりくみはじめれば早いもので、10月には各研究委員が詠讃歌の歌詞の原案をもちより、山喜社会部長の骨折りで密厳流遍照講本部長でもある新義真言宗智山派教学部長石川隆淳師に作曲を依頼しました。こうして1月には、「大聖釈迦牟尼如来御詠歌」「高祖承陽大師御詠歌」「太祖常済大師御詠歌」をはじめ全19曲の完成をみました。と同時に、流儀の名前を決めるのに、最初「正伝の仏法」だから「正伝流」にしようという意見が強かったのですが、結局は「梅花流」に決まりました。ご開山の『正法眼蔵』の「梅花の巻」および中国留学時の、大梅山の「梅花一枝の霊夢」の故事、太祖常済大師の『伝光録』中の「梅花」に因んだ名前です。この時の会議には、私も出席させていただき、「それでは一番上の位の人を『正伝』としましょう」と提案し、満場一致でさいたくされました。
 大遠忌の年、昭和27年、一回目は高階瓏仙曹洞宗管長臨席のもとに永平寺東京別院で、二回目は大本山永平寺で講習会が開かれました。永平寺の講習会の時、私ども役員が泊まっているところに酒を飲んだ雲水が「曹洞宗大本山永平寺ご詠歌大会を開くとは不届き至極だ。曹洞宗は坐禅していればいいんだ」ということで暴れこんでくるというような一幕もありました。
 それから同年11月、最初の検定会が鶴見のご本山総持寺の紫雲台で行われました。石川隆淳師、鷲山浄隆師、小河原玄光師等、密厳竜の大師範が居並ぶなかで、私ども20数名が検定をうけ5級師範に合格しました。考えてみれば、他流の人々の検定を受けるということほど哀れなことはありませんでした。
 今日になってみれば、梅花流は布教の上で大きな役割を果たしているといえます。教学部の特派布教があるので、集合するように指示してもいっこうに集まらない。それが、梅花ですると号令をかければ大勢の人が集まるというようなぐあいです。大衆の心に溶けあうことの必要さをつくづくと感じました。」
丹羽簾芳『梅花開‐わが半生』昭和55年第1刷(56年第2刷)洞慶院

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 この旗はどんな由来によるものか。ほとんどやつれずに2階の和室にあった。

 『梅花開』には、仏庵師が洞慶院の2階で最期を迎えたことが記されている。この部屋だったろうか、と思う。

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 資料中眼を引いたのがこの日鑑。おそらく堂頭師の手で毎日の出来事が綴られている。できれば昭和20年代半ばのものが見たかったが、この時点では未見である。

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 ところでうれしい出来事が一つ。冒頭記したスリランカの友人・ビジタ師が先代住職遷化の報に接し、お寺に来ていた。別院時代、その後の院生の頃まで一緒に過ごした。今年65になるという。変わらぬ姿になつかしさがあふれた。

 

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