丹羽佛鑑師と洞慶院の梅園
先日洞慶院へおじゃました際に、「丹羽佛鑑師」という小冊子をコピーさせていただいた。佛庵師の先師。佛庵師を考える手がかりがあるだろうかと読んでみた。佛庵師への言及はなかったが、この中に洞慶院梅園の由来が記されていた。
その冊子は、『教の友』第14号 明治38年2月1日発行
「丹羽佛鑑師」著者は大内青巒とある。
内容は前半に佛鑑師の「講筵・薩埵行願 故丹羽佛鑑師述」があり、
後半が大内による「丹羽佛鑑和尚行状」である。
それによれば、佛鑑師は
文久2年9月19日生まれ
静岡県下駿河国豊田村曲金28番地 寺田傳右衛門 長男 才吉
明治6年2月15日 曹洞宗法蔵寺住職増田瑞明の養子となり得度を受ける(僧名・佛鑑)
明治9年5月から 洞慶院住職古知知常師の門下に入る
曹洞宗専門支校卒業の年 本師瑞明師に嗣法 ただちに曹洞宗大学林入学
明治18年 曹洞宗大学林卒業 大本山永平寺安居
明治20年5月 庵原郡袖師村龍雲院田中齢瑞師の後席として住職
明治29年春 洞慶院古知知常師が伊豆の修禅寺へ移転し、その後席として洞慶院独住三世住職
密雲環渓禅師が東京出張所へ来た時は曹洞宗大学在学中の佛鑑が身辺の世話をしていた。
環渓禅師遷化後、靑蔭雪鴻禅師のときに不老閣侍局
雪鴻禅師後の瀧谷琢宗禅師のときは縁がなかったが、
性海慈船禅師になって再び不老閣侍局
明治37年2月27日入寂 世寿43歳
以上が略歴。
いくつかのエピソードが語られているが、梅園の由来を述べているのは以下のくだり。それは、行状の冒頭に載せた大内作の漢詩について説く箇所である。
祖庭多事太匇忙 忽裘斯人亦断腸
忍見林園春寂寞 老梅千樹是甘棠
「只拙老の輓詩の結句に「老梅千樹是甘棠」と云ふておいたのは、聊か因縁のあることで是れは佛鑑和尚が洞慶院の境内に色々と種類の異なった梅を六百株あまり植込んだ、其れは何の為かと云へは第一に高祖大師は自ら老梅樹にお比しなされて、「永平拄杖一枝梅、天暦年間種植来」などと仰せられたこともなり、佛鑑和尚のかつて随侍せられた雪鴻禅師は高祖大師の讃を作って「老梅樹老梅樹」と賦せられたこともある、況んや洞慶院開山も亦た梅に深い御因縁があって、毎年の開山忌には参詣の信徒が必ず梅干しをうけて皈るといふ風習もあるのであるから、一は山門の標丰とし一は貧寺の経済を助ける為にもと云ふので、此の挙に及んだのであった、然るに今は其の数百株の梅の木を甘棠と見なさねは成らぬことに成ったのであるかと歎息した心もちであったのである。
先日訪れた梅園はちょうど冬を待つ枝だけの状態。たまたま寺に来ていた旧友のスリランカ僧(洞慶院の弟子)は「2月の末頃が花盛り」と言っていた。
「梅花流」の命名にしばし思いをはせた。