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BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

「過疎」という表現

 住まいは北秋田の一隅。

 かつては七日市村、のち周辺町村と合併し町の名前となり、10年ほど前に近隣四町と統合して市となったが、村当時の連帯意識は今に継承されている(ネガティブな意味で言っているのではない)。ほぼ当時の七日市村に該当する北秋田市七日市でこの三日、新春交流会が行われた。参加者は約80名。

 集落に伝わっていた駒踊り、女性達の大正琴演奏や舞踊など、ささやかな、と呼ぶにふさわしい宴の時間を過ごした。

 挨拶と酒を交わしながら考えていたことを書きとめておこう。 

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 東南に位置する竜ヶ森が分水嶺、そこを発して北側に小猿部川、南側に品類川が西方へ進む。やがて合流し、七日市本郷を過ぎり、米代川へと続く。山峡に細い潅漑用水を引き、猫の額の様な田畑を切り開き、農家収入で足りぬところを山林資源にたよって生活してきた。それが江戸時代のこの流域に発展した集落の姿だったろう。

 紐のゆるくなった数珠の様に川の流れに沿って十数の集落が点在する。大きな集落でも五十戸に満たない。小さなところでは十戸に足りない集落も複数ある。


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 来賓の挨拶に、あるいは隣席と交わす談話に、「過疎」「少子高齢化」「限界集落」という言葉がしばしば出る。

 

 昨年(2014年)10月1日現在の調査によれば、

 北秋田市の人口は33,745人(男15,639人、女18,106人)。

 世帯数は12,522(前年比-65、人口に対する構成比率3.2人)。

 人口構成を年齢3区分で見ると、

  年少人口(0~14歳)    3,100人 9.2%

  生産年齢人口(15~64歳) 17,142人 50.8%

  老年人口(65歳以上)   13,475人 39.9%

 過去一年間(2013年10月~2014年9月)の人口動態は、

  -640人(-1.86%)であり、この内訳は

   自然動態 自然増減数:-454(-1.32%)

   社会動態 社会増減数:-186(-0.54%)

 

 さらに周辺のデータと比較してみると、

 まず秋田県全体の過去十年間の人口動態を見ると、下のグラフのようになる。

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 次に秋田県全体の人口構成を見ると、

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 前掲の北秋田市の「人口構成の年齢3区分」もおそらくこれに相似しているだろう。このグラフ、二十代前半が極端に少ないのは県外の大学などへの一時的流出と見てよいだろうが、そえが果たして再び戻ってくるか、そして何よりも問題なのは、六十代以上の人口がふくらみ続けていく気配なのに対し、それを社会経済的に支えるべき若年層が極めてか細いことである。

 このように老年人口が増加傾向にあるのは秋田に限ったことではない。全国と秋田県の老年人口割合を比較すると、次のようになる。

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 なにやら悲観材料ばかりを並べているようだが、これら足下の現実を踏まえた上で、言いたいことは別にある。

 

 仕事で『過去帳』を扱う。檀家内の死亡者を亡くなった順に年月日、戸主、続柄、戒名などを記載する、言ってみれば単純な死亡者台帳である。だが単調に見える記録の中にも、ページをめくっている内にいろんなことに気づく。その一つが今回の問題に関わる。

 古い例では400年くらい以前、檀家のおそらく半数近くは百五十~二百年前くらい以前までさかのぼることが出来る。つまりはそれぞれの家が200年くらい以前からこの地域に住み続けてきたということ。そうして、おどろくのは、現在七~八戸くらいの小規模集落は、200年前もそれくらいの規模であったということである。くどい説明になるが、かつて数十戸あった集落が長い年月を経ているうちに漸減して現場となっているのはないということだ。

 その例もないではない。火まつりの舞台となる葛黒集落はかつて約五十戸あったところだが、現在はそのほぼ半数になっている。この例は他にもある。だが、再度強調したいのは、十戸にみたない集落は、かつて江戸時代後期にあってもほぼ同じ戸数の集落であったのである。これは非常に重要なことだと思う。

 もちろん、一戸を構成する家族の人数が違うとも言える。かつて子だくさんの大家族であった家に、今では高齢者夫妻、あるいはその片方だけ、という例は珍しくない。だがそれでもやはりこの点に注意したい。

 なぜ、100年~200年の長きにわたって存続してきた集落が、今になって「限界集落」といわれるようになったのだろう。

 近世期の農民の移住に関わる規制の問題を考慮しないわけではない。

 しかし、なぜ戦後、いやおそらくはこの30年ほど(かもしれない)で「もうこの部落にはいらいね」「子どもがた学校さ入るったばもっと街さ出ねばね」などという考えが広く浸透してしまったのだろう。

 「金」「労働」「流通」「文化」「心」などいくつかの回答が想起される。そしておそらくはそれらのベースにある「しくみ」の転換が、私たちの生きてきた時代に起こったのだ。その転換の延長にあるのが「過疎」という表現だとにらんでいる。

 ここでベストセラーを取り上げるのはいささか気が引けるが、藻谷『里山資本主義』を読んだ時、妙に腑に落ちたのはそんな思いが自分の中にあったからだと思う。

 「しくみ」の転換によってもたらされた現状そして将来は、「しくみ」の再転換によって書き変えてゆくことが出来るのではないか。

 抽象的な話ばかりもしていられる時期ではない。具体的な「書き変え作業」に取りかからなくては。

 冒頭に掲げた写真、上舟木地区伝えられた「駒踊り」である。かつては十数騎いた「駒」は、この舞台では四騎。演者は地元の小学生児童達である。成長した彼らが活躍する「地元の舞台」を整えてやるのは他ならぬ私たちの使命であるのだから。