BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

大賀亮谿師範 その1

 

 梅花流師範先達のお一人に大賀亮谿師範(静岡県・見性寺五世)がいる。

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 『必携』の年表などにその名前は見え、丹羽佛庵老師を筆頭に曹洞宗詠讃歌活動胎動期の一翼を担った人として伝えられている。
 しかしその人と業績についてはほとんど知られていない。
 たとえば、安田博道師、赤松月船師等はそれぞれに回顧録あるいは歌集、詩集ほか足跡を知るための参考資料が公刊されているため、それを手がかりとしていろいろと知ることが出来る。だが大賀師をはじめ、権藤圓立師、久我尚寛師等については巷間に知られているものが少ないため、ごく近縁の人々以外にはその業績のよく伝わっていないのが現状である。
 そうしたことから、以前このblogで権藤圓立師については幾度かに分けてその情報を掲げてきた。
 http://ryusen301.hatenablog.com/entry/2014/06/30/221818 飛鳥寛栗の著作より
 http://ryusen301.hatenablog.com/entry/2014/07/02/100452 権藤師の著述より全12回
 同様に、久我師他についても収集した資料をもとにその備忘をまとめておきたいと考えている。ただそうした資料収集作業において、大賀師のものはこれまでなかなか求めることが出来なかった。それがこのたびの静岡・見性寺様拝登において、貴重な資料の撮影をさせていただき、また恵与いただくという幸いに出逢い、これまでの認識を新たにすること大いなるものがあった。
 そこで、これから数度に分けて、大賀亮谿師範関連の情報をアップしていきたい。
 なお、今回の調査に際しては、見性寺大賀堂頭老師のご厚意はもとより、龍雲院大塚堂頭老師、龍興寺大賀堂頭老師、そして今回の調査のきっかけを支度してくださった大霊寺近藤副住老師等の親身な御協力をいただいた。心から感謝申し上げる次第である。

 初回は大賀師の三十三回忌に臨み(平成4年3月28日)、安田博道師が述べた「思い出」のご紹介である。
 大賀亮谿師は、明治33年生まれ、ご遷化は昭和35年8月。61歳であった。

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(写真は昭和28年3月30日 静岡県連合支部結成大会 向かって右が大賀師範、左が安田師範)

 (以下、安田師範の話)

 今も司会の方からご案内がありました通り、亡くなられました亮谿老師とはともに梅花の講習とか、指導に全国を廻って歩いたコンビでございます。思い出の一つ二つをご紹介し、追善の供養とさせて頂きます。

 年月の経つのはまことに早いもので、亮谿老師が亡くなられてもう三十三年ということで、先般本日のご案内を戴いて、もう三十年を過ぎてしまったのかと、老師のいろいろなことが脳裏に展開されてまいりました。ただいま焼香させて頂いて、須弥壇上のお位牌を眺めますと「おい、どうだいご詠歌の方はしっかりやっているかい」と言っているような、何かこう問いかけられているような気がして、私、本当に感無量でございます。
 私がいま一番残念だなあと思うことがございます。それは十周年記念奉詠大会を目前に控えてのご遷化でございました。ちょうどその準備態勢に取りかかっている時なんです。もう一年と言うより、ほんとに間際でございました。皆様方の中にも覚えがあろうかと思いますが、十周年記念奉詠大会は東京の文京公会堂でございます。舞台が廻り舞台になっており、真ん中に金屏風があり、その裏側が銀屏風でした。前の組の登壇奉詠が終わると、すぐくるっと廻ってきて逆になるのですね。それで私たちは金屏風でよかった、私たちは銀屏風だったといって、講員さんは本当に喜ばれました。素晴らしい大会が出来たわけですけれども、そうした光景、状況を私、亡くなられた亮谿老師に見てほしかったと思うのです。
 私が、七月のお盆を迎えた末に、見性寺様へお見舞いに来ました。そして顔を見ますと、さほどお悪いようには見えませんでした。だけど、一つ気になりましたことは、手桶の水の中にタオルを入れて、足を冷やしておられたことです。不通ならば足を温めるというのに、七月の暑さも加わってきた当時ですから、無理ないと思いながらも、一言、大賀さん、足を冷やしてはいけないんじゃないのと言ったら、「いやいや、これがとっても気持ちがいいんだよ」と言って、足を冷やしておられました。長居は病人にとって苦痛のことですから、記念大会の準備のお話をして、そして帰りがけに「来年の四月だから、元気でまた二人で本部の仕事を手伝いましょうや」と言って、手を握りあって分かれたのが、最後でありました。
 いまも申した通り、亮谿老師とはほとんどコンビでございました。興津の駅で待ち合わせね、私が先に乗ってくるのですが、宗務庁へ何遍か通いました。あるときに一寸見ましたら、肩から水筒を下げていらっしゃる。大賀さん水筒下げてなに、お茶が入ってるのと聞くと、「お茶はお茶だけど、あんたには差し上げないお茶だ」と言うのです。その当時定かではないんですが、奥様が手作りのお酒なんです。お酒を好きでいらっしゃったからね。ニコニコしながら水筒をさすっておられた姿が、今でも目に見えてくるような気がします。そして、とうとうお酒だということを知りました。奥さんが「今日はこれくらいしか飲んではいけませんよ」と、持たせたのだろう。奥さんのこころ、情愛だろうと思って、私はうなづいて笑っていました。
 ときおり、私は東北地方に巡教に出ましたけれど、大賀老師は、京都の桂林寺の方丈様に信頼を受けまして、度々講習、指導に出かけられました。そんな関係から、二三の方が見性寺まで師範養成という意味でいわゆる留学生が参りました。一週間くらいだったかな、指導を受けて帰られました。その中の一人が、後で初代の詠道課長になられた小川義道という方です。
 亡くなられた時には、宗務庁はもちろんですけれども、全国の上級師範が別れを惜しんでこの本葬にお参りさせて頂いたことも、私の目の前に見えるようでございます。従って、梅花の功績を重んじられて、管長様から「贈正伝師範」を贈られたのです。正伝師範という級階はこれが初めてなんです。何ヶ月か後で、私と久我老師が正伝師範になったわけです。正伝師範の称号を受けたのは、亡くなってから贈られたにせよ、こちらの方丈様が最初なのです。
 こんなことで、亮谿老師様はお唱えもたしかにお上手でございました。しかし本来はあの方は解説の方が好きでして、唱えるより解説することを喜んでやっておられました。渥美の潮音寺というお寺がありますが、そこの梅花授戒に行って、一週間のいわゆる日鑑を書いて上げたり、みんな私とコンビでありました。ですから、私は大賀老師に弟のように可愛がられました。
 当時、私は四十を一寸越したばっかりで、私は大賀さんがいくつでなくなったかわかりませんが、六十を超していたと思います。私と二十くらい違っていたのではないでしょうか。だけども、こうしていろんなことを考えていますと、苦労したことが脳裏に展開されてまいります。こうしてお話ししててもニコニコとして、一寸浅黒い顔をしていましたが、威厳のある方でございまして、お寺様方も「大賀先生、大賀先生」といって、好かれた人でございました。
 先ほど申し上げました小川義道さんもお酒が過ぎたということで、もう住職をお弟子様に譲ったということであります。ここの本葬の時は一番心配してくれた方です。そういう方がだんだん亡くなってきて、私自身もほんとうに寂しくなりました。。大賀さんの前に亡くなられた方は、私たちが最初音譜に対して一番詳しかった群馬の横川さん、この方もなくてはならない方でした。大賀さんやら、神奈川の水島さんという方、みんなして一緒になって、梅花がなんとかして発展するようにと努力したわけです。
 でも、私たちがこうして、いろんなことで苦労はありますけれども、何の憂いもなく精進出来たというのは、先程大島先生もおっしゃっていましたけども、今の永平寺の丹羽禅師さまのご本師でございます佛庵老師様が、昭和二十七年の大遠忌に向かって、一般の檀信徒の方々に対して、ご開山様のお徳を知らしめるには、何が一番よいかとお考えになったのが、詠讃歌だったのですね。音律にのせてご開山様のお徳を、先程大島先生が唱えておられました。あれが私たちの最初に勉強した、誕生和讃、得道和讃、説法和讃、涅槃この四段に出来ているのです。それを作られて、私たちを励まされたのです。それを宗務庁に進言されても詠讃歌が分からないので、どうしても取り入れてくれなかったのです。
 何回となく進言されても出来ないので、よしそれなら静岡だけでもやろうとして、佛庵老師様に私たちが言われてお習いしたのが、ご開山様の一代を説いている四段です。あれを見たら、ご開山様がどういうことをなさったかお分かりになるわけです。
 そして、私たちが静岡でご詠歌を始めて、一年くらい経ちました時、とうとう宗務庁でも黙っていられなくなり、宗務庁で梅花講ということになってきたのです。このことに関しても、洞慶院の佛庵老師とそれに大賀老師のおかげで、私達が何の憂いもなく梅花流に勤められるのだということを、宗務庁で言ったことがあります。それほど深い心を持った亮谿老師でございました。
 今日は何十年ぶりで見性寺さんにお詣りして、お位牌をつくづく拝まさせて頂きました。大寂定中、ご冥福を祈りながら、私の話を終わらせて頂きます。ながい間有り難うございました。
(以上)

 見性寺調査の帰途、お寺の近くの興津駅から宿のある静岡へ向かう。

 

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 1月23日。秋田は雪で埋もれているが、ここは雪のかけらさえない。折から今日の午後は十数度という陽気。コートを着ていない人も少なくない。アユ釣りの名所・興津川臨済宗の名刹・清見寺などの案内板が立つ小さな構内。

 奥さんの支度した酒の水筒を下げて、このホームから大賀老師が電車に乗り込んだのだ。

 

 話の中で、京都の小川義道師のことに触れているが、これは昨秋訪れた京都・西方寺の先住様のことである。そこの開山堂に祀らていた「梅花流正伝師範照山亮谿大和尚禅師」という位牌の裏には、「昭和三十五年八月十三日示寂 静岡・興津・見性五世 沙門義道護持」と刻まれていた。
 http://ryusen301.hatenablog.com/entry/2014/11/04/101359
 また大島賢龍老師についても触れているが、いまもご健在な同老師にお会いした時、くだんの四段に分かれた道元禅師御和讃への愛着を繰り返しお話しされていた。
 http://ryusen301.hatenablog.com/entry/2014/11/12/083941

 梅花流草創期のことを調べ始めたまだ日が浅い。だが、これまでその名前の字面でしか知らなかった先達師範達の足跡が少しずつ分かってくるに連れて、当時の老師達のつながりの中に、自分も踏み入っているような思いになる。ことに大賀老師は、明治三十二年生まれであった弊師とほぼ同年代。親しく梅花のことを聞けなかった自分と師僧とのことを顧みて、この「つながり」に関わっている今の状況が、なにかしらの縁に引き寄せられているように感じている。