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BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

【真読】(『和漢真俗仏事編』読書会) №2 巻一〈祈祷部〉 「庚申 附 三猿」

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 くわしくは『谷響集』中のごとし。三猿はこれ三尸蟲を形どるか。これ道教の法なり。『本草綱目』の中にもこれを載せる。
 問う、「庚申の本地、青面金剛として古くより仏家これを祭る。本拠何ぞや」
 答う、「経軌に明らかな説なし。古徳の口説(くせつ)に云く“青面金剛の法は、伝尸病を除く秘法なり(儀軌次下に出す)、しかるに伝尸すなわち三尸の蟲なりとす。これによって青面金剛を庚申の本地とす”と」。
 青面の軌(集経十)「もし骨蒸伏運伝尸鬼気病を患はば、呪を誦すること千徧せよ。その病いすなわち愈(い)ゆ。
 愚按ずるに、『北斗七星軌』に道教の庚申待ちのこと出(いず)れども、あながちにこれを貴ぶ説にあらず。ゆえに今出さず。
 わが朝、庚申の本尊の前に、目を塞ぎ、口を塞ぎ、耳を塞ぐ三つの猿居(お)くこと道書にも見えず。青面の軌にももとよりなし。愚按ずるに、これわが朝の好事(こうず)の者、庚申の申(さる)の縁より思いつけて、『孔子家語』の三緘の故事を取って、言わざる・聞かざる・見ざる、の教えを垂れるものなり。
 『家語』第三「観周篇」に曰く、「孔子、周の京(みやこ)に遊んで、太祖后稷の庿に至る。廟堂の右の階(きざはし)の前に金人(金をもって造られる人形なり)あり。三たびその口を緘(とじ)た形なり(三たびその口を緘るとは、三重に口を封ずるなり)。その背(せな)かに銘して曰く“古(いにしえ)の言を慎む人なり。これを戒むるや、多言あることなし、多言は敗(あやま)ち多し。多事なることなかれ、多事は患(うれ)い多く安楽にして必ず誡めよ。悔ゆる所行なうことなかれ、謂うことなかれ、何の傷(とが)ありて、その禍(わざわ)いまさに長ぜんとす。謂うことなかれ、何の害ありて、その禍いまさに大ならんとす。謂うことなかれ、聞かずと。神まさに人に伺う”」。これ、見ざる・言わざる・聞かざるのはじめなり。

コマ番号は国会図書館公開webテキストである、以下の頁に対応しています。http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/818707

コマ番号11

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 学生から院生時代に窪徳忠先生の講義に出逢ったことがあり、爾来数年間、自分が修験道について取り組んでいたこともあり、折に触れて教えをいただいた。道教研究、庚申信仰研究の第一人者である。猥雑にしてかつ複雑、それゆえにおもしろい、そんなことを教えていただいた先生の一人。大きな声、快活というよりは豪快な笑い、明るい人がら。庚申のことも講義中の話に始まり、先生の著書を求め、その後いくつかの資料を読んだりして今になる。

 『真俗』(真俗仏事編、以下同)に引かれる典拠のいくつかも近日洗ってみよう。

 この信仰のおもしろさは(ほかにも通ずるものはたくさんありそうだけど)、

 一つに、核になる神格がなにもないのに「庚申さま」と擬人化している点にまず求められる。庚申さまに相当する神体は無い。そこにあるのは「庚申待ち」という習俗だけなのだ。

 二つには、そうした実態としては習俗しかない「庚申さま」に、三猿、青面金剛、伝尸病、さらにさまざまな禁忌習俗が付加されて、複合的な信仰体系としてふくれ上がってゆくが、そうした逸脱しそうなものまで取り込んで、なおも「庚申さま」として存続しているところにある。神があって信仰があるのではなく、信仰があって神が造られてゆくのである。

 まだあるけど、今日はここまでにしておこう。