【真読】 №3「鬼門」 巻一〈祈祷部〉(『和漢真俗仏事編』読書会)
webテキスト http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/818707 コマ番号13
委しくは『谷響集』中のごとし。『山海経』と『続博物志』と『神異経』とを本拠とす(ある説にいわく「北は陰の極まる處(ところ)なり。東は陽の始なり。陰のきわまる處には鬼類集まると云うことなるべし」)。
私にいわく、「『山海経』等の説に就いてはなはだ不審あり。度朔山(どさくさん)の大桃の東北こそ鬼門なるに、家々の東北を鬼門として忌むはまことに疑わしかるべし。然りといえども人もし家の東北を犯せば祟(たた)りを蒙(こうむ)ること各々現に瞰(み=見)るがごとし。ここをもって推し測れば、一家の東北の間だは鬼の出入し、或いは宿る所なるをもって、度朔山大桃の鬼門の名をとって家の鬼門と名づくるものなり」。
『続博物志』五にいわく「海中に度朔山というあり。上に桃木あり。蟠屈すること三千里。東北の鬼門に枝す。萬鬼の出入する所なり。荼(と)と鬱塁(うつるい)(二鬼の名)その門に居り、葦(あし)の索(なわ)を執(とっ)てもって鬼を食う。故に十有二月、歳竟臘(としのおわり)の夜、ついに荼・塁をもって、ならびに葦索を門にかけて」
『事文類聚』に『山海経』を引いていわく「東海度朔山に大桃樹あり。蟠屈すること三千里、その卑枝東北に向かうを鬼門という。萬鬼出入す。二神あり。一を神荼という。一を鬱塁という。衆鬼の出入する者を閲領して、執(とら)えてもって虎に飼(くら)わす(※原文ルビは「かいて?」)。ここにおいて黄帝(これに)法(のっとっ)てこれを象(かたど)る。因て桃枝を門戸の上に立て、神荼・鬱塁を画いて。もって凶鬼を禦(ふせ)ぐ。これすなわち桃板の制なり。けだしそれ黄帝より起こる。今の世、神像を板の上に画いて、なおその下において左は神荼、右は鬱塁を画き、元日をもってこれを門戸に置くなり。(今流布の『山海経』にこの文なし。『事文』に引けるは未渡の書なるべし)
⊿鬼門の由来について語るものだけど、途中に見える編者・子登のコメントはとてもまっとうなものに思う。元来、度朔山の大桃の東北を言っていたものが、そことは関係のない各地の家々でまで「東北」を鬼門とするのはおかしないか、ということだ。このあたり子登の合理精神みたいなものを感じるのだけどいかがだろう。
⊿冒頭の画像は、ある方のblogから拝借したもの。くだんの鬼門ストーリーがよく表現されているなあと思った。また以下に掲げるのは後段に紹介されている神荼・鬱塁の絵である。木札様になっているもの、切手になっているものがweb検索ではヒットした。今でも人気の衰えていないものなんですね。
⊿鬼について古今関心のある方はごまんといらっしゃるようで、歴史・民俗・宗教などさらには隣接諸分野まで含めると、ほとんど「鬼学」と呼んでいいくらいの膨大なウンチクの蓄積がある。おそらくこのグループに興味を持っている方々の中にも、「鬼のことならちょっと言わせてくれ」という方は少なくないだろう。これを皮切りに、どうぞどんどん活発な鬼談義を交わしていただければありがたい。
硬軟とり混ぜて話題の宝庫なのが「鬼」。もしや談論風発して収拾の付かない事態となったら・・。それこそこっちの方に話しを向けたこと自体、鬼門だったということになるかも。