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BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

よこみち【真読】 №4 「肌身離さず」の思想

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 「手元供養」という言葉をご存じだろうか。都市部の方々であればすでによく知っている方も多いと思うが、私の住む秋田などでは聞いたこともないという方がほとんだだろう。

 ある業者のHPからその説明をたずねてみよう。

 

 手元供養とは? 故人のご遺灰や形見等を身近に置いて供養。

―いつも近くで見守っていて欲しい。大切な人を想うその心をこめて―

大切な家族や最愛のひとが帰らぬ人になってしまったとき、気持ちの整理がつかずに「故人をいつも身近に感じたい」「いつも近くで見守っていて欲しい」 という声が多く聞かれます。そのような方々の想いを叶えてくれるのが手元供養というご供養のかたちです。
 小さな容器やペンダントに故人の遺灰や髪の毛などを収め、ご自宅に置いたり身に着けることで、いつでも大切な方との絆を感じることができます。

最近は、親と同居せずに家庭を持つ人たちが増えたことで、先祖のお墓が遠く、お墓参りに行く機会のない方や、住まいの欧風化から、お仏壇を家に置かない家庭も増えてきました。 「お墓や仏壇はあるけどもっと身近で供養したい」「思い出の場所に一緒に行きたい」「嫁ぎ先にいても近くに感じていたい」等、従来のかしこまったしきたりや宗教儀礼にこだわらない、さまざまな供養への希望を持たれる方々に広く親しまれています。

http://www.ohnoya.co.jp/temoto/ 

 

 その流行分布で察せられるように、散骨・自然葬など葬送観の変化、墓所を新たに求めることの困難さ。居宅内に仏壇のスペースを確保しにくい住宅事情など、都市部では静かに定着しつつあるのではないだろうか。写真のようにアクセサリとして加工したものはメモリアル・ジュエリーとかソウル・ジュエリーとよぶそうな。

 でそうした手元供養の社会背景への考察はひとまず置いて、「故人をいつも身近に感じたい」「いつも近くで見守っていて欲しい」 という部分に注目したい。

 これって本題の「守り囊」にあった「常に持して身に随うべし」と通じるところありそうに思う。

 故人を墓や仏壇の中に「離して」おくのではなく、ブレスレットやブローチ、ペンダントとして自分の身から「離さずに」おく、ということ。故人はすでにあの世、いわば異世界の存在。異世界の存在を肌身離さずにおくということ・・。

 「守り嚢」は、その中に納めてあるのは「神呪を記した紙」、つまりは護符・祈祷札である。これは、祈願する者が期待するところの願いを実現してくれる「仏菩薩の神異的な霊力」の象徴だった。つまりは神異的な霊力という名の「異世界の存在(力)を肌身離さずにおく」という点で、ソウル・ジュエリーに通じている。故人もまたこの世に生きる縁者を、あの世から守ってくれる(と期待されている)存在なのだから。

 こうして「異界の存在(あるいは力)を肌身離さず身につけている」という〈しくみ〉を取り出してみると、これはもっと大きな広がりをもった考え方であることがわかる。その広がりの振れ幅を次の二例で確認してみよう。

 ひとつはポケモンことポケットモンスター

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 もう二十年になる人気キャラクターだが、いつもはモンスターボールという小さなボールに入っている異世界の存在=モンスターの話。これが飼い主のポケットに入る、つまり「肌身離さぬ」存在である好例。このバリェーション、まだまだラインナップできそうだよね。

 で、もうひとつ、こんどはオカタイものから挙げておこう。

 曹洞宗で太祖と呼ばれている瑩山の母親が護持していた観音像である。

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 瑩山の誕生するずっと前、まだその母が結婚もしていなかった十八の頃。母(瑩山の祖母)と生き別れになった瑩山の母(ややこしくてすいません)が、願掛け参りに詣でた京都清水寺の参道で拾いあげた小さな十一面観音像の頭部。それが縁となって無事に母に巡り逢うことになった。その際、瑩山の母が誓った言葉。

「予が母に遇はしめたまへば、すなわち御身を作り継ぎて、一生頂戴の本尊となさん」(訳:私の母にめぐり遇わせていただけたなら、御身体を作り、このお頭に作り継いで、一生の間頂戴護持して、私のご本尊とさせていただきます)『洞谷記』

 かくて願いごとかない、仏師の所へ行き、言葉通りに造らせたのが像高六センチに満たない小さな観音さま。

 この観音像、その後、瑩山の母は一生涯「肌身離さず」護持礼拝し、結婚した後も、瑩山誕生の際も、養育の時も、出家得度の時も、修行し、住職となり、人々の救済活動に力を尽くすようになるまで、祈願の本尊となり続けた。瑩山自撰の記録にはこうある。

「しかしてのち、万事、予のことにおいて、この尊に祈誓す。いわゆる、成人して難なく、出家、学文、修道、発智、ないし嗣法、住持、人天を利済するまで、ことごとくみな、この尊に祈念す」『洞谷記』

 ちなみにこの観音像、母の逝去の際に瑩山に預けられ、瑩山は母が一緒に持っていた自分の生まれた時の髪の毛とへその緒をその台座に納め、母を供養するための円通院という寺を建て、その本尊とした。今にいたって円通院の建物は失われたが、能登の永光寺宝物館にこの観音像は現存する。

 ここにおいても「異界の存在(あるいは力)を肌身離さず」という〈しくみ〉が認められる。これまたポケモンの場合と同様、僧伝や説話史料のなかに数多のバリェーションがころがっていそうである。

 さて、ソウルジュエリー、ポケモン、瑩山の母の観音と三つの代表的な例を通して〈肌身離さず〉のしくみを見てきた。もとより学術考察などではない無責任なエッセイblogである。簡単にコメントして終わっておこう。

 この世に生きる者が、自分たちの力だけではどうにもならないと観念した時、異世界からの守り、あるいは助力、をこいねがう。それが祈願だと思う。三つの事例に通じる第一はそれだろう。

 その際、祈願対象となる異世界の存在を、「遠く」に感じるのか、「近く」に感じるのか、その違いは小さくないと思う。庇護の力はその距離が短ければ短いほど大きいのではないだろうか。私達が自分を支えてくれる者に対して「近くにいてほしい」と願うことが、それを証明しているように思う。

 このたび取り上げた〈しくみ〉について、じつは人の「恋心」との関連から興味深い事例があるのだが、いささか本題から離れてしまうのでここではやめておく。そのことはまたいつか。