BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

よこみち【真読】 №5「沐浴と禊ぎのあいだ」 

 河で沐浴と言えば “ガンジス”。

 ガンジスで沐浴と言えば “秋吉久美子”。

 この連想に共感してくれる人は話が合いそうなので今度一緒に呑みましょう(笑)

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 『深い河』。

 アラーハーバードの飛行場からヴァーラーナースィに向かうバス。ガンガーとジャムナー二つの河の合流点にさしかかる。ヒンズー教徒たちがここで沐浴をするのだと添乗員が説明する。

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「川はきれいなんですか」

 と誰かが質問をした。自分の存在を示すための三條の高い声だった。

「日本人から見ると、お世辞にもきれいとはいえません。ガンガーは黄色っぽいし、ジャムナー河は灰色だし、その水が混じり合ってミルク紅茶のような色になります。しかし、綺麗なことと聖なることとは、この国では違うんです。河は印度人には聖なんです。だから沐浴するんです」

「日本の禊と同じですか」と三條は、またかん高い声を出した。

「違います。禊は罪のよごれ、身のよごれを浄化するための行為ですが、ガンジス河の沐浴はその浄化と同時に輪廻転生からの解脱を願う行為でもあります」

「今の時代に輪廻や転生なんかを、信じているんですか」と三條は聞こえよがしに、「本気なのか知らん、印度の人たちは」

「本気ですとも。いけませんか」(中略)

「本気でなければ、何十万の人がこの河原に集まるもんですか。今からみなさんの到着するヴァーラーナースィでは毎日、死体を灰にして流したガンジス河で、体を浸し、口をそそいでいる人たちを、あまた御覧になるでしょう」

「不潔ねえ」と三條の妻が驚きの声を出した。

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 この添乗員の説明がすとんと腑落ちする方はどれくらいいるだろう。

 この手の説明にはいくらかなれているつもりの自分だけど、沐浴を「浄化」と受け止めることにはさほど違和感がないが、「輪廻転生からの解脱」という言い方はなかなかなじめない。

 まだきちんと周辺の事情を調べていないので、あまり踏み込んだことも言えないのだが、今後修正の可能性充分ありとの条件付きで、とりあえずぶっちゃけておこう。

 それは今回のテキスト『真俗仏事編』を読んだ時に感じた違和感と通じる話しだ。

 本編の前半『不動使者秘密法』の引用部分「江海大河の深さ頸(くび)に至る處に入り」。この場面を想像してみた。その河はかなりゆったりした流れではないか。首まで浸かるくらいの深みで、毎日三〇万回も念誦できるっていうのは、ほとんど流れを感じさせないような大河を思わせる。ほんの少しの水流でもそんなに深かったら体が流されてしまう。

 一方、後半の高雄神護寺・文覚の話はそんなもんじゃない。那智の大滝に打たれて、あわや絶命かと思われたところを、金迦羅・制多伽の二童子によって救われる、命がけの話である。

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 『平家物語』以来人気のこの話は、ご覧のように江戸時代の絵師たちの格好の素材となっていた。しかしこれ、大河の沐浴とはかなり違うよね。

 けれどもこれを『真俗仏事編』編者・子登の間違いとか牽強付会とも言えない。なぜかというと『平家物語』の該当箇所を読むとわかる。

 「われこのたきにさんしちにちうたれて、じくのさんらくしやをみてうとおもふだいぐわんあり」(我はこの滝に三七に打たれて、慈救の三洛叉を満とうと思う大願あり)『平家物語』巻五

 つまり二十一(3×7)日間、慈救呪を「三洛叉(30万回)」唱えんという大願は、くだんの『不動使者秘密法』の所説と同じもなのだから。

 それではこの二つの違い、つまり、ゆったりした大河の沐浴と切迫感満載の滝打ち修行の違い。これってなんだろう。

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 狐狸庵先生はガンジスの沐浴を「輪廻転生からの解脱」と説明させるのだけど、これもよく検討してみなくちゃいけないと思っている。でも今のところ、さっきの二つはそれぞれ別の方向にベクトルが向かっているということは抑えといてよいのじゃないだろうか。

 この着想をベースに考えてみると、子登は、いや文覚にさかのぼる日本宗教は、滝行をベースにして「河水の沐浴」という修行儀礼を受容した、と考えられないだろうか。「滝行を」というよりも、もっと幅広く「水垢離」とか「禊ぎ」とか神道的観念もそこには大きく関わっているような気がする。

 『深い河』が、ガンジスの沐浴を日本の禊ぎと対比させて説明するくだりはなかなか鋭いと思う。で、そのあたりもう少し掘り下げてみると、日本仏教と印度仏教との間の「深い河」にも気づいていけそうな予感がする。