「いのり」について
昨日は311。
あふれるほどの被災地情報が静かになった今日、自分のために書きとめておきたいことがある。
かつてこのdiaryにメモしていたダライ・ラマの次の言葉である。
「また、儀式やお祈りばかりしていても、そこに救いはありません。
正直に申し上げれば、チベット人の中にも儀式ばかりを重んじて、本当に大事な勉強や修行をおろそかにしている人が多い。これは我が国だけではなく、他の国でも見られることです。
たとえば中国人は、立派なお寺を建てたり、大きな仏像を建てたりすることにとても熱心です。もちろんお寺や仏像を建立するのは良い行いなのですが、それで仏陀になれるというわけではありません。いくら仏像を作ろうとも、仏像はあなたになにも語ってはくれません。
日本でもこうした状況があるのではないでしょうか」
(『傷ついた日本人へ』2014、新潮新書)
この文章、被災地へ向ける祈りの活動を評したものとは違うだろう、という指摘を下さる方もあるかもしれない。しかしこの本の主旨は、東日本大震災を経験した日本人に対して、苦境にあってもその苦の原因をしっかり見つめ、智慧によって苦を克服することを勧めるもの。著者の意図は、私達のそうした懸念に正面から向き合っている。
注意したいのは、この文章(著書全体ではなくこの箇所)は仏教者、直接には日本の僧侶に呼びかけているのであって、被災者たちへ向けたものではない。犠牲になった人の冥界での安らぎや、行方知れずの近親者との再会を懇願する祈りに向けた言葉ではない。
ダライ・ラマの言葉に触れた人ならわかってもらえると思うが、その強調するところは仏教は智慧の教えであり、悲しみという苦悩から救われるためには、その原因を見極めて行く深い洞察の力(=智慧)が必要であるということ。そのうえでさらに言うのは(今度は被災者一般へも向けられた言葉です)、
「仏像も僧侶もあなたを救ってくれるわけではありません。あなた自身が自分の心と向き合わなくてはならない」
「仏教に神さまはいません。自分を救えるのは自分だけです。自分で心を鍛錬し、自分で答えを見つけなくてはならないのです。誰かの助けに逃げたり、自分の努力を怠ったりしてはならないのです」
災禍に見舞われた人を前にしてこうした物言いは厳しすぎるように思う人がほとんどだろう。しかし自分の同胞たちが迫害を受けた、そして受け続けているその人の言葉として、私は簡単に別事としてかたづけられない。
くどいかもしれないが、こうした言葉を借りて仏教儀礼による祈りの活動が無意義だと私が思っているわけではない。ただ私達にはもっと真剣に取り組むべきことがあるのだと、ダライ・ラマは言っていると思う。その指摘は少なくとも私には当たっている。
傾聴、傍らに寄り添う、一緒に悲しむ、汗をかくetc.そうしたことどもの大切さはささやかながら教えていただき、また体験させていただいた。その大切さは(少しだけかもしれないが)わかっているように感じている。
被災地へ行って仏教教義を説くことが大事だとか、そんなことを思っているわけではさらさらない。
しかしそれでも「儀式やお祈りばかりしていても、そこに救いはありません」という言葉に、私はとらわれている。
救いの方法を伝えるものとしての僧侶。その資格を持つための鍛錬をダライ・ラマはかなり積んでいる。『仏教哲学講義-苦しみから菩提へ』などはその一端を窺わせるものだ。しかしたった一度、それも広い会場における公開講演という場所ではるか後ろの席から見ていただけだが、実際のその人はユーモアにあふれ、初対面の子どもや女性の質問に、専門用語を介さない平易な言葉で丁寧に答えていた。
きっと「傾聴、傍らに…、一緒に…、汗を…」という行為のその先に、仏教の救いというものは展開されるべきではないだろうか。
被災地での僧侶のボランティア活動やケア活動を、マスコミや宗教研究者たちが取り上げる。そうした活動に私自身も心から敬意をもっている。一緒に参加できる時はそれなりの達成感とともにほっとする気持ちさえある。出来ない時は忸怩たる思いが湧いてくる、というのが正直なところ。
ダライ・ラマの指摘するところは、もしかするとまだ日本社会はそこまで求めていないものかもしれない。だが裏を返せばそのことは、多くの日本の僧侶がまだそういう活動のあり方を示していない、ということになりはしないか。