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BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

古茂田信男『雨情と新民謡運動‐藤井清水・権藤円立らと共に‐』ふるさと文庫(1989、筑波書林)

奥付の著者略歴によれば、古茂田は明治40年茨城県生まれ。野口雨情に師事したと見える。

詩集、論考などの著作あり。雨情の研究家でもあるようで、刊行当時は雨情会会長。
内容によれば、藤井・権藤らとも個人的に親交のあったようで、3人(雨情と共に三羽鴉とよばれていた)の交流について情報豊か。また「権藤の日記」の引用なども見える。

飛鳥寛栗 http://ryusen301.hatenablog.com/entry/2014/06/30/221818 の参考資料と思われる。
pp76-79
 仏教音楽協会
 日本民謡教会が生まれた同じ年(昭和3年)の1月仏教音楽の必要から文部省宗務局内に仏教音楽会が設立された。設立とともに雨情、藤井、権藤の三人は直ちに評議員に推され、仏教音楽の制作指導にあたることになった。その時白秋もともに評議員に推された。評議員には、仏教各宗派代表、仏教学者、教育家、詩人、音楽家、その他各方面の権威が網羅されていた。音楽家としては藤井清水、権藤圓立、山田耕筰小松耕輔、などで、詩人は雨情、白秋の二人だけである。詩人として雨情、白秋だけが選ばれていることは、当時の歌曲作詞者としての二人の地位をうかがうことができる。
 協会事業として、旧仏教音楽研究に加えて「新仏教音楽の創作」「発表及び普及」の二項目があり、教会はその方に大分力を注いだ。なかでも藤井、権藤の寄与が大きかった。作曲、演奏講習会等に活躍し、新作の仏教聖歌の作曲などは山田耕筰小松耕輔とともに藤井のものが多く、それを演奏するのは殆ど権藤であった。また作詞では、雨情が依頼されることが多く、「迷い鳥」「るんびに園の春」「うつし世」その他を作っている。「うつし世」は藤井の曲ではなく、権藤の郷里延岡の仏教婦人会でうたわれていたご詠歌を、権藤がその節を雨情に聴かせたところ、雨情がその節に合わせてすぐに作詞したものである。このご詠歌は、明治の初中期にうたわれそれがそのまま伝えられていたものだという。
 
pp92-93
 こうして三羽烏は権藤一人となってしまった。(中略)
 権藤はやがて声明の研究家として有名になるが、仏教音楽については、おそらく、藤井とともに仏教音楽協会に加わって仏教音楽の普及につとめたころから研究は進めていたものと思われる。もともと権藤は圓立という名から想像されるようにお寺の生まれであったので、(父は権藤圓海といった)仏教についての知識は豊富であったが、あらたに音楽的立場から仏教音楽の研究を深めて行ったのである。
 殊に昭和30年前後から、ご詠歌の研究を続け、各宗のご詠歌を比較研究し、また金剛流、吉水流、梅花流等の歴史的研究を行い、更に梅花流の指導者として各地をまわった。私も一度あるお寺の集まりにおともをして、その指導の模様を見せてもらったことがあった。31年11月には解釈学会主催の「平曲、今様、その他を聴く会」に講師として出席、和讃、声明、朗詠等実演を交えて講話をしている。34年1月にはハワイの曹洞宗信徒の招きでハワイへ渡り、5月まで滞在し、曹洞宗別院10ヶ所でご詠歌の指導を行った。
 そのうち権藤は作曲もするようになった。作曲といっても一般の詩に付曲するのではなく、仏教の儀式用のものや讃仏歌のようないわゆる仏教聖歌で、僧侶で詩人としても名の知られた赤松月船のものに作曲したものやその他の曲を何曲か聴かせてもらったことがあるが、私にはなかなかいい曲に思えた。梅花流の詠歌の作曲はかなりの数にのぼっていたようである。新作詠讃歌をビクターレコードにも吹き込んでいる。
 そのころ私は、あるとき権藤に、キリスト教の葬儀では、参列者で永眠者の愛唱していたものをはじめその他の賛美歌を歌うので、皆で行う葬儀という感じがするが、仏教の場合は、お坊さんひとりがお経を読み、他の人はそれを聴いているだけなので、お坊さんの葬儀みたいような(ママ)気がするといったことがあった。すると権藤は、じつは自分の作曲したものが、葬儀の際、賛美歌のようにうたわれ皆によろこばれているのだといって、二,三曲聴かせてくれたことがあった。これもなかなかよかった。

 

※飛鳥の著作にも感じたことだが、古茂田の著書によっても、権藤の曹洞宗における業績はあまり知られていないようだ。