BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

よこみち【真読】 №18「愛しき大黒さま」の続き

 よこみちに「続き」が付いたの初めてですね。それだけこのテーマが突っ込みどころ満載ということなのかな。

 さてfbにて佐藤善廣さんが寄せてくれて、さらにMeikoさんが発展させてくれた「梵嫂」の情報。とても興味深いものだった。そのままfbでコメントのやりとりにしようとも思ったんだけど、やや文章量ありそうな雲行きなのでこの扱いにしてみた。
 「梵嫂」という言葉、中村元『仏教語大辞典』にはなく、『織田仏教大辞典』には載せている。これは辞書の優劣の問題じゃなくて編集方針の問題でしょうね。思うに中村辞典は仏教教学用語に重きを置き、織田辞典は仏教語一般に目を向けているというくらいのことだろう。
 また諸橋『大漢和辞典』にもこの言葉は載せてある。
 ふうんと思ったのは織田辞典も諸橋辞典も「梵嫂」の出典に『輟耕録』を挙げていること。先のfbアップのページがそのまんまだった。
 で、話はMeikoさんが紹介してくれたこのサイトの解説。
 http://baike.baidu.com/view/6808742.htm
 じつは中国の禅宗文献なんかを調べているとよくここへ飛ばされるので、お!と思ったのだった。恥ずかしながら意味内容はほとんどちんぷんかんぷんだけど、ときどき読める字が出てくるとなにやら仏教に関係のあることだけはなんとな~くわかる。で、これもおぼろげだけど、問題になっているのは仏教僧と女人のことじゃないだろうか。こんな頼りない態でサイトの評価はできないので、冒頭にある次の文章だけ取り上げておきたい。
 《佛说四十二章经》云:“佛言:人怀爱欲不见道。”又说“人系于妻子宝宅之患。甚于牢狱桎梏锒铛。”故出家为沙门者,不得近女色、蓄妻子。
 この部分、「故出家・・」以下が解説者の地の文で、“ ”内が『仏説四十二章経』からの引用のようだ。この経典は、仏教修行者の初期段階における教科書のようなもので、その昔、日本でも仏教専修の修学所においては初歩的な入門として読まれていたわりとポピュラーなもの。ごく短い四十二章から成る文章で構成されている。
 引用の文は、第十六章
 「佛言。人懷愛欲不見道。譬如濁水以五彩投 其中致力攪之。衆人共臨水上無能覩其影者。愛欲交錯心中爲濁故不見道。水澄穢除清淨無垢即自見形。猛火著釜下中水踊躍。以布覆上衆生照臨亦無覩其影者。心中本有三毒涌沸在内。五蓋覆外。終不見道。要心垢盡乃知魂靈所從來生死所趣向。諸佛國土道徳所在耳」
 また第二十三章
 「佛言。人繋於妻子寶宅之患。甚於牢獄桎梏鋃鐺。牢獄有原赦。妻子情欲雖有虎口之禍。己猶甘心投焉。其罪無赦」
 以上がそれぞれもとの経文のようだ。
 「人は愛欲の心を懐けばほんとうの道が見えなくなる」
 「人が妻子や家庭に繋がれてしまう患いは、牢獄よりの手枷足枷よりもまだひどいものだ。牢獄ならば赦免の時もあるが、妻子の情欲は、そこに虎の口が待ち構えているとわかっていても誘われるままに自分の身を投ずるようなもので、その罪の赦されることがない」
 やはりどうも問題は「愛欲」や「情欲」のあたりみたいですね。
 『仏説四十二章経』にはまだ次のようなフレーズも見える。
 第二十四章「愛欲は色より甚だしきはなく、色の欲たることこれより大なるはなし」
 第二十五章「愛欲の人はなおタイマツを執って風に逆らってゆくがごとし、必ず手を焼くの患いあり」
 第二十六章「天神、玉女を仏に献じて仏意を破らんとす。仏言く“革嚢衆穢、なんじ来たるも何かせん、去れ、我用いず”と」※革嚢衆穢=穢れたものの詰まった革袋
 第二十九章「慎んで女色を視ることなかれ、またともに言語することなかれ」
 仏教がってこんなにも女性のことを意識しているんですね。
 今現在、女性と仏教を中心のテーマにしている研究もあると聞く。そのジャンル、自分はよくわからないが、いろんな意味において、女性が仏教のウィークポイントではあるような気はするね。
 いったい愛欲、情欲にたいしてストイックであるということに価値を見いだすということは、宗教に限らず多くの場面で見聞する。でもそれは今日的な意味でどのように意義づけられるのだろう。おいおい何を言いだすんだ、とお思いの方もあるだろうか。
 これについて思うこと二つ。
 一つは、とある恩師の言葉。その人は五十代半ばで急逝するまで独身で通した僧籍ある仏教の研究者(男性)。
 いわく「世襲とか、寺院財産の私有化とかいろいろ問題あるだろ。そして婚姻の一般化だ。だから俺は根本的な問題解決のためには、多くの尼僧たちが実行しているように、男僧も婚姻を禁止すればいいと思う。世界中で日本だけだぞ、結婚しても当たり前なんていう僧侶のいる国は」。
 いま一つは、浄土真宗が蓄積してきた婚姻に関するきわめてまじめな考察のあと。
 前者の言うことは既婚僧侶であればその意図するところはわかるはず。たとえ耳に逆らうともね。
 後者のことはおそらく他宗僧侶の皆さん、そうした業績をご存じない仏教関係者の皆さんにはあまり知られていないと思う。真宗では男性住職と女性坊守がともに僧籍にあって、協力して寺院業務にいそしんでいる例がめずらしくないという。すでに婚姻が一般している他宗の方々はそんな生活形態を支えている思想背景をもう少し勉強してよいように思うけどいかがだろう。
 じつは禅宗においても明治5年の婚姻が公許されて以後、寺院僧侶の家族論や結婚に関する考察もそれなりになされていた。でも今に至ってその資産が継承されていないというところに弱さがあるように思う。
 いまだに禅宗は出家主義だなんて言ってる人たまに目にするからね。
 で、この二つ。思うにわが恩師の提言は現実的には無理だろう。であれば後者の例を始め、婚姻する僧侶のきちんとしたモラルを作ってそれにしたがうことがベターなのではないかと思うのだけど、いかがなものでしょうね。
 本編が主題としたのは大黒天の変容だったけど、よこみちにそれたとたん男僧と女性のことがテーマになってしまった。管理人のキャラも当然反映しているのだろうけど、むしろこのテーマがかなりの拡がりと奥行きを持っている証拠なのかもしれない。今回はここまでにしておくけど、また繰り返しこれに触れることになるだろう。善廣さん、Meikoさん、ありがとうございました。