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BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

〈 ねはんだんご 〉考 -聖餐あるいは鏡餅-

  聖体拝領のシーンと言えば秀逸なのは、ゴッドファーザーⅢ。

 って、そのことは今回の話題となんも関係ない。ただアル・パシーノファンだってことで (^_^;)

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 たくさんのおかげさまでかたちになった当寺の涅槃だんご。なかなかなできばえにけっこううれしいのだけど、これを契機にいままで考えていたことをまとめておこう。

 いろんなことに通じると思うけど、何かモノを作るというのは、そのモノ自体のできばえの善し悪しよりも、作ってゆく過程における失敗ややりなおし、協力や文句ぶーぶーという「わいがや感」がなによりの財産になると思う。今回始めて取り組んだ「涅槃だんご作り」がまさにそうだった。

 うちの梅花講のおかーさんたち約20名弱による共同作業。お手本とするお寺への研修見学、用具を揃えての実作、涅槃会の供物としておそなえ、そして参詣者への分与。一連の作業がくったくのない笑いに包まれていたことが一番の収穫だったと思う。

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 作業工程についてはここでのテーマじゃないので写真のアップだけで簡単にとどめておく。

 問題は〈涅槃だんご〉とはそもそも何か、ということだ。

 はじめに「聖体拝領」の件を振っておいたのは、ごく最近まで〈涅槃だんご〉は仏教版の聖餐として考えてよいのでは、と思っていたからだ。

 キリストが自らの身体と血をパンとワインに託して弟子たちを分け合った最後の晩餐。これに由来する儀式を聖餐と呼んでいるらしい。これによって当面の司祭を介して、キリストとその身体と血(パンとワイン)を受けた者が、またそれを受けた者同士が統一的連帯感を持つというもの。キリストと自分が一つになる。言い換えれば無力なる自分がこの儀式を経てキリストの神秘的霊力を付与される。神と一体になると言うことはそういうことだ、と考えている。

 キリストの最期と釈迦の涅槃は、教義的意味づけも違うのだろうが、臨終を控えてそのいのちを象徴的に弟子たちに分与する、という意味ではパン&ワインと涅槃だんごはきわめて近い間柄にあると言えないだろうか。

 くわえてここで重要なのは涅槃だんごの「色」である。写真で示したように緑・黄・白・ピンク・紫の五色で出来ている。これは青・黄・白・赤・黒に相当するもので、仏教で言う「五輪」を表している。つまり空・風・火・水・地を色で表象したもの。万物を構成する五つの要素だが、ここでは端的に仏体、すなわち釈迦の身体を象徴するものだ。だから涅槃だんごを〈聖餐〉と見るのはごく自然な観察だと言えるだろう。

 歳神のもたらす新年の福徳を「餅」という依り代を介していただくのが鏡餅〉であったが、涅槃だんご〉はこれともよく似ている。

 松の内を歳神の前に供えることによって、充分にその神徳を吸収した鏡餅〉を配分しいただく、お年玉(歳神の魂)の由来でもあるこの神事、涅槃像の前に供えて如法の供養儀式を経て、その後参詣者に供与する〈涅槃だんご〉と構造は同じと見てよいだろう。

 涅槃だんご〉とは釈迦の〈いのち=魂〉を移譲した聖なる食物なのである。

 だがここで気になったのは、うちがお手本とさせてもらった大館市のお寺のお檀家さんの話し。「これもらったのを山へ行く時持っていくんだ」と言う人がいたという。

 この地方、涅槃会正当の2月15日は冬の厳寒期にあたる。ゆえにお檀家さんを招いての法要は一月以上遅れた3~4月に行うことが昔からの習わし。この時期は里山の雪もかなり消えてきて、春の山菜の出盛りを迎える。「山へ行く」というのは春の山菜採りを主に指している。里山とは言え、注意しないと迷って道を失ったり、がけから滑落したり、マムシや毒虫の害など、それなりの危険は伴っている。〈涅槃だんご〉に期待されているのは、そうした災いから護ってもらうという霊力にほかならない。そうして現実的には空腹時の食にもなる。

 これは聖餐〉や〈鏡餅〉という範疇を超えて発展した形態と言えないだろうか。超常者の霊力が備わった依り代〈=涅槃だんご〉が、それを持つものに降りかかる魔障を祓除してくれる、そう期待されているのだ。

 以前「やしょうま」について述べたことがあったが、

 http://ryusen301.hatenablog.com/entry/2015/04/01/213347

涅槃だんご〉と同様、涅槃会に供えるものと聞いているが、はたしてこうした例はあるのだろうか。

 こんなことを考えていてふと思うことがある。

 キリスト教の聖餐・聖体拝領の儀礼はゴッドファーザーⅢの例のように、きちんとした儀礼構成が整っている。一方、仏教の場合、成道会の五味粥をいただく場面などはそれなりの場面が用意されているが、涅槃だんご〉についてはそうした儀式作法が整っていないように思う。あ、そういえば大館市のお寺では昔、餅撒きのようにしたとか言っていたっけ。いずれにしてもそうした「場面」設定が、〈涅槃だんご〉に込められた釈迦の威徳(遺徳)をより強く発現させることになるかもしれない。来年のお涅槃で考えてみようかな。