BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

【真読】ちょっといっぷく(一) 「子登とは、どういう人?」

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 いつも【『真俗仏事編』読書会】をご覧いただいているみなさま、ありがとうございます。
 おかげさまで全六巻のうちの第一巻「祈祷部」を終わりました。と言っても、全部で46項目あるうち、取り上げたのは19項目でした。(ナンバーは20までカウントしていますが、途中№10で、巻五「雑記部」から「彼岸」を取り上げたので、巻一からは19項目でした)
 はじめにお断りしたように、あまり専門的な教義に立ち入ったものや、陀羅尼の紹介が中心になっているもの、また今日的視点からは関心が薄いかな、と思われるものは触れなかったのでこうなっているわけです。
 もとより全冊全頁公開webとなっていますので、ご関心の方はどんどん読み進めて下さい。
 これからもここでは、原テキストの読み下しである【真読】本編と、ちょっとずれた話題を好き勝手に展開する「よこみち」の二本立てで進めてまいりますので、おつきあいいただける方はどうぞこれからもよろしくお願いします。
 ところで今回「ちょっといっぷく」と題してアップしたのは、第一巻が終わってやれやれということもあるのですが、そもそもこの本の編著者、子登なる人はどんな人かと言うことを考えてみたいと思いました。
 「そんなの辞書見ればいいんじゃない?」とか「ググればヒットするでしょ?」というご意見もあるでしょうが、そればがなかなか簡単にいかない。たとえば『日本仏教人名辞典』(法蔵館)にはこの人の名は見えません。ネット検索しても普通のエンジンでは『和漢真俗仏事編』の作者であるという程度で、子登その人についての説明には行き当たらない。全十四巻という大冊の『国史大事典』(吉川弘文館)でも見えないのです。ちなみに『日本仏教典籍大事典』(雄山閣)にはこの本の収録もされていない。
 これは、この本が江戸時代より何度も版を重ね、明治になっても平成になっても刊行され続けている超ロングセラーであることからすると、ちょっと不思議なこともでもあるわけです。
 じゃ、どうすればいいかというと、この本自体の中に編著者の面影を探ることになります。ただこれまで読んできた中では、本文の中で執筆者がプライベートなことに触れているところはありませんでした。そこで序文や跋文の中にそれを探すことになるわけです。
 ところがこれも、現在テキストにしている明治19年版では、巻初、巻末のいずれにもそれに当たるものがない。そこでこの本の最初の版だと思われる享保11年版に載せられた「序」を参考にすることにしようと思います。
 ここでご紹介したいのが、稲谷祐宣氏の『密教仏事問答 新訳真俗仏事編』という本。さっき「平成になっても刊行され」と言ったのは、この本のことです。たぶんご存じだった方も少なくないと思うけれど、平成6年に青山社から出版されています。これは『真俗仏事編』を現代文に訳したもので、書名・人名などは簡単な解説もされているので、ご関心の方には便利な本だと思います。私もお世話になっているけど、webテキストの明治13年版とやや違うところもあり、参考程度にさせてもらっています。この稲谷さんが底本にしているのが享保11年版。じつは私の手元に享保11年版の原本がないので、今回は稲谷氏訳の「序」をご紹介することにします。いずれ原本入手した時点で原文と照合することも予定にいれておきましょう。
 
 むかし、ある比丘が村に住んでいた時、たくさんの鳥がしきりに鳴くので心を乱し、比丘は鳥に「我に二つのつばさを与えよ。そうすればすぐ用いて飛ぶことができる」と言った。すると鳥はたちまち去ってしまい、もう帰ってこなかった。
 また、恒水のほとりに、螺髻の梵志がおり、竜のためになやまされて珠を乞うたところ、竜は再び来なくなった。
 いま、人に教えるものもまたこのようである。あえて従わせようとすれば、心から受け取ってはくれない。つまり、これに由らしむべきで、知らしむべきではない。
 そうであるから、私は平生、僧俗を問わず、応対した時に日用の仏事の問いがあると、これに答えるのに必ず典拠をもってして、私解をもちいることはないのである。
 さて、私がひそかに記して、あつめて「真俗仏事編」と名づけたものがある。ただ恨むべくは見聞が狭く、周備したものではないのであるが、そうであるとはいえ、これを住居の片隅に朽ちるままにしておくのは善からぬことではないかと思い、上梓する次第である。欠けたり足りないところを補い、誤謬を訂正することは、後の博達した人の手をまつものである。
 享保丙午(十一年、1726)の秋
      浪花生玉の沙門 子登 筆を真蔵密院に執る

 以上がその全文。
 まずは末尾に注目。浪速生玉とは、今の大阪府大阪市天王寺区生玉町(いくたまちょう)のことでしょう。
 「真蔵密院」に当たるお寺は今は見えないようです。だが次のような情報がヒットしました。

 生玉十坊
 生國魂神社には、「生玉十坊」と呼ばれた高野山宝性院の末寺で「志宣山宝案寺」と号する南坊を貫主として、医王寺、観音院、桜本坊、真蔵院、遍照院、曼荼羅院、地蔵院、覚園院、持宝院という社僧九ヶ寺が隷属していた。しかし、明治維新廃仏毀釈によって境内にあった神宮寺が境外へ分散撤去され、1871 年(明治4年)官幣大社に加列された。
 http://www.city.osaka.lg.jp/tennoji/cmsfiles/contents/0000021/21991/09.pdf

 生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)とは大阪市天王寺区生玉町13-9にある神社ですが、上の情報はその来由に関する一文。傍線を引いた「真蔵院」がおそらくは、真蔵院という密教寺院という意味の「真蔵密院」でしょう。これによれば高野山系の寺院に所属するとあるから、真言宗ということになります。
 子登がここで「筆を執る」という意味は、ここで執筆したということでしかないから、はたして子登はここの院主にあたる立場だったか、あるいはたまたまここで執筆作業をしたという意味であるのか、そこまではわかりません。
 ただごく自然に考えて、真言宗に属する僧侶(「沙門」と言っていますからね)と考えてよいと思います。
 次にこの序文で注目したいのは、「私は平生(中略)必ず典拠をもってして、私解をもちいることはない」という一文。
 このことは、
 よこみち【真読】 №18「愛しき大黒さま」
 http://ryusen301.hatenablog.com/entry/2015/04/20/085225
で私もそう感じていたことでした。きわめて客観的であり、勝手な憶測を振り回すことに禁欲的な人、という印象があります。子登という人の学問態度にちょっと敬意を表するところであります。
 と、まずはこの二つが子登のプロフィルの手がかりとなる、とわかったところまでにしておきます。
 ほんとはもう一つ、自前で見つけてきたレアな情報があって、アップしたくてうずうずしているんですが、もうしばらく温めて確かなものにしてからご紹介しようと思います。次回の「ちょっといっぷく」までしばしのお待ちを。