〈玄楼奥龍〉考 はじめに
「高嶺」の原作者・玄楼奥龍師について、これから時折綴っておこうと思う。
おそらくは弟子風外本高の描いたその頂像が彷彿とさせるように、一筋縄ではいかない傑僧がこの人。
1720年に生まれ、1813年、94歳で没した。当時としては破格の高齢と思われる。
数年前、一緒に梅花を学ぶ数人と、その生涯のうちで中心的な活動拠点となった但馬の龍満寺を訪れた。折から本堂改装中ということであったが、堂頭老師の計らいで庫院に移し出していた木像の尊像を拝観できた。いつ頃の作なのだろうか。頂像絵の矍鑠かつ豪壮な印象が、木像からは感じられない。むしろ穏和にして物腰の柔らかそうなたたずまい。これには違和感があった。
違和感の理由は、その頃読み始めていた奥龍の著作から受ける印象とのズレにあった。『道用桑偈』のほか、かつて『臨在家語』を閲していたが、当時は『蓮蔵海五部録』を読み始めていた。奥龍の語録である。その足跡、ことに青年~壮年期の言動は「破天荒」と呼んでもおかしくないくらいの行状である。そこに風外の描く本師像はぴたりとはまっていた。
だがそんな印象の違和感は些細なことで、始めて訪れた龍満寺の風致に自分は高揚していた。
それは、後に上洛し宇治・興聖寺の山門にそれを似せて作らせたという竜宮門形式の山門だ、などとは別の話だ。
龍満寺のありようを、奥龍自身が『蓮蔵海五部録』に次のようにいう、
「吾が此の所在は、北海の辺隅、千山萬壑之を三面に帯たり。世間の消息、濫りに通ぜず、浮遊の賓客終に窺うこと無し。只海上波濤の聲のみ有て十萬の雷霆昼夜に闘ふ。諸人者、遠渉易からず」と。
四方のうち、一方を日本海、残り三方を千山萬壑が隔て、世間の消息はおろかふらりと訪れるものさえいない。届くのは雷鳴のごとき波濤の音だけだという。
明和4年(1767)2月28日、この寺に進山。時に48歳。爾来26年間の在住。ここにおいてかの『道用桑偈』は開版された。
龍満寺在住期の奥龍の言行がまた興味深い。
それらについては後の機会に触れることにし、いまこの初回において注目したいのは「海」である。
奥龍は海に対してなにか特別な思いを抱いている。そんな気がしている。
龍満寺から歩いてまもなくのところに浜がある。さきほどの風致の描写の通り、ぐっと陸地側に湾曲している。この浦浜に寄せて、奥龍は八首の歌を詠んでいる。
其一 雪の白濱を眺望して
名にしをふ 雪の白濱ふき過ぎて 風さえわたる岡の松原
其二 同
千歳なる 松もみどりの色そへて 一しほふかし岡の松原
其三 千歳松
城山の麓にたてる千歳松 みねよりたかく 名こそきこゆれ
其四 浦暁
ちどりなく波諸寄の浦のとを をし明方に出る釣ふね
其五 絹巻
朝まだきおきつしら波たちさはぎ 磯のきぬまききても社みれ
其六 為世永蝉
なく蝉の聲こそたへね水無月や 日もゐよながの森のこずゑに
其七 諸寄河春水
春風におくの山々雪とけて もろよせ川のみかさまされる
其八 岡谷風月
月さゆるみねの松よりかよひ来て ひかりふきそふ岡の谷風
なんの予備知識もなくこれらの歌を詠んだ人は、あのいかつい頂像の奥龍師を想像できるだろうか。雅趣に富んだ歌詠み人、と連想するのがごく自然ではないか。
追々明らかにしてゆくつもりだが、舌鋒鋭く、年長の師家に対しても突き倒し、蹴飛ばし、鉄拳を喰らわす、むちゃくちゃな面を具えているのがこの人である。
「海」に向かうことは、この人の外へ発散する気を軟化させるのだろうか。
まだまだ見通しめいたことは言わないようにしよう。
ただ、この人と海の関連を考えようとすれば、どうしてもその出生地、そして初め済門で得度し、やがて衣を永平下に改め、まもなく生涯で初めての地獄絵図を見た場所、「志摩」から考え始めなければいけないと思う。
明日、そこへ出発する。