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BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

【 玄楼奥龍 】 考 1 「志州安乗浦」 

 尾鷲市法念寺住職・佐藤誠晃師のご厚意が、今回の志摩行のきっかけだった。
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 朝5時頃、自坊で出がけの支度を調えていた時は気温4~5度。ストーブで暖を取りながらだった。9時過ぎのANAで秋田空港を発ち、名古屋セントレア中部国際空港に着いたのは10:40。名鉄近鉄を乗り継いで、伊勢湾東側からいったん北へ登り。西側を南下する。天気は晴れ。外気は20度を超えている。いくつかの電車経路があったが、近鉄名古屋駅から12:10発の特急賢島行き。これが途中乗り換えなく、14:22には志摩市阿児町の鵜方駅に着くという。

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 伊勢・志摩へ行くチャンスがあればぜひ訪ねてみたかった二つの場所。伊雑宮と安乗浦。
 伊雑宮は、『先代旧事本紀大成経』編纂の遠因となったと云われるところ。
 安乗浦は、少年期の奥龍ゆかりの場所。おそらくはその生涯を方向付けたとも言える決定的な経験をしたところだと考えている。
 時間の余裕はあまりない。伊雑宮はあらためて、ということにして安乗に向かうことにした。

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 「はじめに」で触れた『蓮蔵海五分録』。全十巻からなる大冊。
 その第一巻が、奥龍の生い立ちから始まる伝記的記述、そして各ゆかりの寺院における言行を編集したもの。その編輯者には「門人・遊月」の名が記されている。
 その第一巻の初めは「出家游方分」と題する。奥龍の修行遍歴の足跡を記した部分。
 その出自を次のように記す。

 師、名は奥龍、字は玄楼。蓮蔵海を以て号となす。あるいは一茎草といい、あるいは爍迦羅という。これその別称なり。
 東海道志州英虞(ふぐ)の郡、鵜方(うがた)村の人にして、父の氏は上村(うえむら)、母の姓は北条なり。
 享保五年(1720)庚子の正月七日を以て生まる。
 九歳にして勢州方座の海徳寺の祖屋長老に依って出家せり。これはこれ済門なり。
 十三歳にして宗を洞門に改めて、志州安乗浦・長寿寺の齢峯和尚の弟子となる。

 英虞郡鵜方村とは、現在の志摩市阿児町鵜方に当たる。
 「英虞」の文字は現在は「あご」と訓んでいるが、刊本『蓮蔵海』では「ふぐ」とルビを振っている。
 鵜方は「うがた」。その駅に着いたのは午後2時過ぎ。駅前のレンタカー店で軽乗用車を借りる。

 「あご湾遊覧」のポスター。凪いだ海上の小さな島々をめぐる外国船の写真。「スペイン村」なるレジャー施設のポスター。もったいないと思う。しかしおとなしい海。この湾に遊んで奥龍は育ったのだろう。

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 安乗へ向かう。途中、国分寺に参拝。志摩の国分寺とすれば、この地域が当時から重く見られていたことの一つの証し。軒の造作、彫刻に風格を感じさせる。
だが掲示板の説明にある、応仁に兵火に遭い伽藍を焼失、再建は天保だとすれば、奥龍の在世期には無かったことになる。

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 安乗崎の灯台公園へ。映画「喜びも悲しみも幾年月」の舞台となったという灯台は改装中。潮風の吹きすぎる高台の広場にカップルが二組。志摩半島の突端。ここから左手・北側が内海・的矢湾、右手・南側が外海・太平洋。公園は外海側に面している。海面から約20メートル。断崖に打ち寄せる波。岩礁に取り縋るように白い波頭が何度も形を変えて現れる。

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 十三歳で曹洞宗長寿寺に入ったその年の夏、奥龍が見た光景はこの海原で起こったものだろうか。

 今茲の夏、難風あり。海客、これがために船を壊り、身を喪う者の勝て計(かぞ)うべからず。

 この短い一文から想像する事態は決して小さなことではない。「不可勝計」という表現が伝えようとする人数ははたしてどれくらいか。数十人、あるいは百人を超えるか。この地方の海難史記録はまだ調べていないのでまだ定かなことは言えない。外海の波は荒い。至る所に岩場もある。浜に打ち寄せられる船の残骸、そして夥しい溺死者の身体は相応のダメージを受けていただろう。頃は夏である。腐敗する時間も早い。海棲類や浜鳥に仕業されたものもあったろう。集まった親族たちの嗚咽と慟哭が止まない修羅場。十三歳の少年がそれを目の当たりにしたのである。この時、奥龍は次のような思いを懐く。
 
 師、私かにおもえらく、万物の世界におけるや、譬えば人のこの船に上るが如く、然り、船に成壊あり、人に生滅あり、それ万物各々代謝あるときは、世界もまた始終無くんばあるべからず。知らず、その始め以て何の時とせんや。

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 早熟、という言葉が過ぎる。今で言うなら中学一年生の年齢。目前の累々たる死人の向こうに、世界の始終を観じているこの子供はいったいどういう人間かと思う。

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 少年僧・奥龍の器はすぐにまわりの知るところなる。「出家游方分」は続けて次のエピソードを語る。

 

 偶々(たまたま)、老僧の客あり。鐵綱と名づく。因みにこれを以て問う。
 答えて曰く「無始よりして始まる」。
 曰く「それわずかに始まるときは無始ここに終わるなり。終わりあって始め無きものはものは、遂に有ること無し。無始、既に終わり有り。始め、無くんば有るべからず。無始の始は、そもそもまた以て何れの時となるや」。
 答えて曰く「汝、以後自ら悟り去ること有らん」と。
 
 鐵綱なる客僧、最初はこざかしいことを言い始めた奥龍に対して当惑しただろう。しかしその言い様が、自分でははっきり言葉に出来ぬ深い部分に突き刺さっていることを察知して「お前はいつか自分で悟り開くことができるだろう」と、言わざるを得なかったのだと思う。
 伝記記述の上では、奥龍が最も早くその機鋒を現した場面である。

 安乗の道は狭い。幹線から枝道に入り込んでゆくと車一台がやっと通れるだけの巾しかない。レンタカーを軽にしてよかったと改めて思う。漁師町に特有というのだろうか、軒を連ねる家並みを縫うように路地が張りめぐらされている。奥龍当時はもう少しまばらだったろうか。
 難破船の殉死者の中に地元の漁師もいた。「出家游方分」は続く文章でそうした漁師の一人について語る。

 また娼家に彦六なるもの有り。
 漁父の児の耶須という者を乞い得て、以て己が子となす。
 今茲、漁父もまた船を砕きて以て溺死せり。
 その霊、娼女に託して曰く「我、ここに至ることは、別事有るにあらず。希(ねが)う所は、公が憐れみを耶須に加えて、以て成長せしめたまわんことを。これを以てのゆえに来たりて嘱するのみ」と。
 六、深くこれを許す。しばらくあって辞して去る。
 師、これを聞いておもえらく、去って悪(いず)くにか如(ゆ)くや。於戯三界の茫茫たる、升沈以て測るべからず。人人もまたかくのごとしと。
 これよりして私かに生死を厭うの志を懐く。

 娼女の口を借りて漁父の霊が語った相手「公」とは彦六をさすと読んでいいだろうか。だとすればこのやりとりを奥龍は間近で見聞して、ややあってからその場を「辞而去」ったということだろう。そして思う。この世の脆弱さと不測さを。そして人間もまたかくの如しと。
 「生死を厭うの志」とは、その文字面から「厭世的気分」にあてはめてよいものとは違うように感ずる。脆く不確実な生死に無抵抗に翻弄されてしまうことを厭う、そんな気がするのだが。
 そんな奥龍に、師、齢峯が偈を示す。
 
 齢峯和尚、示す所の偈に曰く「頭上鉄石、脚下氷渕、我心没地、他見懸夭(天カ)」。
 師、これを寮舎壁上に貼在して、以て日用の鍼石となす。

 メメント・モリ。少年奥龍にとって、この時、「死」の大きな烙印が言葉をして示されたのだ。そして爾来、死を忘れぬことこそがこの人にとって日々の一大事となったと言える

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 ところで長寿寺という曹洞宗寺院は、現在、この地域の寺院名鑑に見えない。他宗寺院となった可能性もあるが、いずれにしてもこの名前の寺院はないようだ。廃寺となったか、改名したか、別寺へ吸収されたか。

 地元の歴史資料を訊ねようと、カーナビで「図書館」「歴史記念館」という名称を検索。近くに示されたそこへ行くと、それらしい建物は何もない。ナビが古いのか。

 この地方の昔話には「長寿寺の和尚」が登場しているので、実在したことはほぼ確かだ。

https://www.tumblr.com/search/%E7%87%88%E6%98%8E%E5%B1%B1%E3%81%AE%E4%B8%89%E5%90%89%E3%81%A8%E3%81%8A%E3%81%95%E3%82%93

よく解らないままにレンタカー返却の時間が迫り、鵜方へ引き返した。

 駅前のビジネスホテルへチェックイン。フロントで近くの居酒屋を訊ねると、「すぐそばの“漁場”が評判いいですよ」と。暮れかかった駅前通を歩く、隣接したビルの間をくりぬいたような小路があり、両側に飲み屋看板が軒を並べている。今日は定休日が多いと聞いた通り、ほとんどの店は閉まっている。「漁場」大きな看板を見つける。扉を開けるとカウンターに常連らしい先客が二人。大将とたぶん女将さん。カウンターに並び、ビールと地魚の造り。世間話に加わるともなく相づちを打っているうちに、秋田から何しに来たんだと話題はこちらに振られる。「長寿寺という寺を探しているんだが」と言うと、隣のおやじさんが「ん?聞いたことあるぞ、チョウジュジ!」と。知人らしい相手に電話してやや話していたかと思うと、こっちに向き直った。
 「俺の思った通りだ、あのな昔、神社の下にあった寺だそりゃ。その寺とあと二つの寺がアンジョージへいっしょにまとまったんだよ」。聞けばこのおやじさん、安乗漁港の水産会社社長だとか。アンジョージって安乗寺のことですか、と問う私に、「そうだよ、あのりでらと書いて安乗寺だ。俺の一つ下だったんだよ前の住職は。今はその息子が嗣いでいるんだがよ。ちょっと待てよ」。と携帯で電話をかけたかと思うと、私に「ほれ、住職だ」と渡す。え? と途惑うまま電話に出ると若い声のご住職。かくかくしかじかで、と事情を告げる。どうもおやじさんの言う通りらしく、長寿寺に関する資料は特に残っていないと言う。

 だが思わぬ展開から長寿寺の消息がわかった。礼を言う私と、「俺は安乗寺の檀家なんだがよ」といろいろ地元の情報を繰り出すおやじさん。話の中で、地元の図書館も、近年市役所か支所かの行政施設に移ったかもということも聞いた。杯を重ねる。すっかり意気投合してそのうちおやじさんのボトルの焼酎を二人で飲んでいた。「こんど来る時は俺に言ってくれ!」と気のいいおやじさんに辞去を告げ、店を出る。

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 こんなことあるんだなあ、とこの店を紹介してくれたホテルに感謝してあらためて店の看板を見た。

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 ん? 今出てきたのは「漁場」じゃないぞ。別の名前の表札の寿司屋だ。小路に大きくせり出した「漁場」の看板は、向かいの店のものだ。のれんに「漁場」と書いてある。ありゃあ、入る店まちがったんだ。いや、結果的にはよかったのか。と独りごちて、結局「漁場」ののれんもくぐった。

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  なるほどこちらは明るくてアットホームな雰囲気。店主が自分で釣ってきた魚を供するということで、地魚の種類もいろいろ。空いているカウンターに座り、ホウボウの造りを頼んだ。横にはやや親切すぎる東京から来たというにいさん。いろいろ話しかけて来てくれたのだが、さっきのおやじさんとの話が頭に残っていて、翌朝にはにいさんの話の内容はすっかり忘れていた。
 なんだか酔っぱらって居酒屋をたずね歩く某番組みたいなことになってきた。ま、いいか。