BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

よこみち【真読】 №26 「ミクロコスモスマクロコスモス」

img_4 (504×401)

 何度か表明していますが私・管理人は曹洞宗に属するものです。どちらかといえばその方面の情報に多く触れて来ました。密教はまったく門外漢です。ですので真言密教者が編述した『真俗仏事編』に立項される項目のうち、密教的な説明が中心的なものはこれまであまり取り上げませんでした。が、今回本編の〈 六種供具=六波羅密 〉説を取り上げたのは、このような教説を禅宗系のみなさんにご紹介したいと思ったからです。

 おかしなもので私達には、一つの宗の考え方というのは、教理的方面(教相)と実際的方面(事相)のあらゆる分野を統一的かつ体系的に説明できるものだという〈幻想〉があります。それはミクロからマクロに至る一つのコスモスを同じように統一的・体系的に説くこと出来る説明原理があると思い込んでいることとよく似ています。

kn-mandara3-022.jpg (1000×1000)
 たしかに日本仏教の先駆的存在であった真言宗天台宗にはそれに近いものがあるかも知れませんが(実際の所は私は詳しく知りません)、少なくとも後発的存在であった鎌倉仏教各宗派には、そうした説明原理を求めることは酷ではないかと思っています。もっとも他宗との違いをより鮮明に打ち出そうとしている感のある真宗さんなどはその限りでないのかも知れません。でも曹洞宗においてはそのようなものはないと思います。
 道元という人そのものが台密の修行を経てお坊さんになった人でありますし、後の奉賛者たちが「純禅」というレッテルを貼ったこととはまったく関係なく、道元自身の中に密教的片鱗を見ることはたいしてむずかしいことではありません。
 ※たとえば以前「「塗香」のところでちょこっとそんな話題に触れました。
  http://ryusen301.hatenablog.com/entry/2015/05/20/090933
 けれども中には、道元さんの教えでもって、曹洞宗寺院の現場で行われているいろんなことを「説明」しようとする方がときどきいます。たしかにかなりの言動をテキストとして残した道元さんのことをいろいろ調べてゆくと、思いの外多くのことがらを「道元禅師の言葉」「道元禅師のお考え」と冠してなにかしらコメントすることは可能なようです。それは数多の刊行物の中で「道元禅師の△△観」「道元禅師における▼▼観」というものがやたらと多い、ということでもわかります。
 でもその考え方ってどうだろ、と私は思うのです。そんなトータルで全方位的なことを道元さんは意図していたのかなと思うのです。
 それがたとえば今回のような話題。
 道元さん自身、「六種供具」について何かしらコメントしたものは直接的にはたぶんないと思うのです。「そんな密教のものなんかについて何か言うはずないだろ!」とお叱りの方もあるでしょうか。そうじゃなくて、私はそんなあらゆることがらについて、全部ご自分の再解釈を施されていったわけじゃない、というごく単純で当たり前のスタンスに、曹洞宗の皆さんは立たれたらよいと思うのです。そのことがらによっては密教的なものもあるでしょうし、神道的なものもあるでしょうし、民俗的なものもあるでしょう。たとえば今ここに三つの「○○的なもの」を並べましたが、残念なことに曹洞宗の中には(お坊さんも研究者も含めて)、これらのことと道元さんとの間にまるで敵対関係のごとき大きな溝があると持っている方がいます。それもけっこうな数です。
 その方たちは、およそどんなことでも「道元禅師の純禅の立場」から説明しようとされるのですが、それは土台無理なお話しだと思います。

 いささかくどい言い方になってきたのでばっさりやっちゃいましょう。
 毛嫌いしないで、こんな言い方にも耳傾けてみませんか、ということです。

a06b.jpg (500×600)

 六種類の供養具にそれぞれ意味を持たせ、しかも相互に連関させる。こうした解き方は密教の得意とするところだと思います。曹洞宗ではこうした説明はそれほど多くないと思います。ただし、「大般若理趣分作法」のように密教由来の儀礼作法や、「切紙相伝資料」のように曹洞宗以外のいろんな要素が流れ込んできている資料においては、似たような説相を見かけることがあります。それはおそらく曹洞宗側の不得手な部分を他に求めた結果だと思うのです。
 ま、そんなわけで『真俗仏事編』、たまにそんな取り上げ方もしてまいりましょう。