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BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

よこみち【真読】 №29 & №30 「 ♪ 供養花もいろいろ咲き乱れるの~」

 というわけで『蘇悉地羯羅経』を読んでみた。 

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 なにが「というわけ」かと言うと、本編 №29と №30のことである。仏を供養するために、トゲのある樹に咲く花、ムクゲの花、臭い花や辛かったり苦かったりする花はいけないとある。でもなぜダメのなのかその説明はない。
 しかもさらに問題なのは、好き嫌いやえり好みすることを誡めるのが仏さまだと思っていたのに、ここではあれはダメこれはダメとダメ出しの連発。いいのかな?本編№29にコメントしてくれた酒井泰生さんの疑問も、きっとその辺に引っかかってのことだろう。
 これは一度ちゃんと『蘇悉地羯羅経』を読んでみなくちゃいけないな。「というわけ」なのである。

 そんなことで今回の「よこみち」は、№29 & №30を一緒にカウントするというイレギュラー回とさせていただく。
 ところで禅宗畑の私にはとんとなじみのないこの経典。大正蔵経第18巻に収録されてはいるものの、白文を読み通すのはどうにも歯が立たない。いきおい国訳本を求めてくだんの「花」について調べてみた。
 密教では『大日経』の胎蔵部、金剛部とならぶ蘇悉部の第三部のものだそうで、そちらのみなさんにはポピュラーな経典だという。書誌に関するあれこれは各専門サイトに詳しいのでここではスルー。
 ごく大づかみにどんな経典かというと、「諸仏諸尊に祈祷するための所作経典であり、所作を周到に整備するための儀軌書である」(新国訳大蔵経・解題)という。上中下の全三巻に、34種の品(「ほん」とよみます。ま、章みたいなもんです)があって、そのうちの第七が「供養花品」。めざすはここ。
 
 まず供養花には三品の法があるという。
 扇底迦法(息災法)。補瑟徴迦法(増益法)。阿毘遮嚕迦法(降伏法)の三つ。
 そしてこの三つにそれぞれ三等の真言があるという。
 聖者説。諸天説。地居天説の三つ。
 で、この三品・三等の解説が続いて、その後に花のことが出てくる。

 「三種の法を作す中に、倶に當に等しく水陸に所生の諸種の色の花を用うべし。名色の差別は、各、本部に依り、善く之を分別せよ。
 以て花を眞言して當に之を奉獻すべし。是の願を發して言く、此の花は清淨なり、生ぜし處も復た淨なり。我れ今、奉獻す。願わくは納受を垂れて、當に成就を賜うべし」

 と、花を献ずる時に真言を唱えるべきことを述べている。その真言
 「阿歌囉 阿歌囉 薩嚩 苾地耶馱囉 布爾底 莎嚩訶」
 ※読み方わかりません。「アーカラ アーカラ サラバ ビチヤタラ ホジテイ サバカ」とでも読むのでしょうか? 密教の方よろしく。

 そしてこの後、諸仏諸尊に献ずる花を挙げていく。
 仏には、白花の香りを用いて供養すべし。
 観音には、水中に所生の白花を、
 金剛には、種々の香花を、
 地居天には、時に随いて取る所の種々の諸花を、とある。

 続いて献ずべき花の具体名を列挙する。やや煩雑になるけど、この経典の雰囲気を伝えるために挙げてみよう。

 「應に獻ずべき花は、忙攞底花、簸吒羅華、蓮花瞻蔔迦花、龍蕊花、嚩句藍花、倶物頭花、娑羅樹花、末利花、擧亦迦花、喩底迦花、勢破理迦花、句嚕嚩劍花、迦淡聞花、末度擯抳迦花、怛㗚拏花、彦陀補澁波花、本曩言花、那嚩忙里迦花、阿輪釰花、母注捃難花、那莽難花、注多曼折利花、勿勒芻鉢羅花、迦宅嚂花、建折娜藍花、擯抳釰花、優鉢羅花、得蘗嚂花、捃難花、迦囉末柔等なり」

 これ、きっとしかるべき植物辞典など調べるとそれぞれどんな花かわかるのだろうけど、それはもう誰かにお任せします。だって、経典の文章はまだまだ続くんだもの。

 この後はというと、さっきの三品・三等の別に対応して、それぞれどんな花がふさわしいかを延々と述べる。花の名前からその姿がイメージできないので読んで行くのに忍耐力が必要。
 で、いろんな献花の名前が続いた後に、次のように出てきた。

 「諸花の中に、ただ臭き花、刺樹に生ぜる花、苦辛の味ある花の、供養するに堪えざるものを除け。前に広く花を列ねるに、名無きものをば、また用うべからず。また木菫花、計得劍花、阿地目得迦花、瞢句藍花、佞簸花等、またまさに用うべからず」

 これが問題のところ。本編 №29と №30の出典箇所だ。計得劍花、阿地目得迦花、瞢句藍花、佞簸花というのもなんだかよくわからんけど、とにかく供養花には不向きなものらしい。

 で、おもしろいなと思ったのは、この箇所に続いてこんな文章もあった。

 「如(も)し、この類の諸花の獻ずべきもの無くば、ただ白き粳米の爛碎なるものを擇(えら)んで用いて、之を供養せよ」

 うちの方でも仏前に白米を献ずる風があり、全国あちこちで「仏供米」の例が見られるようだけど、これはてっきり稲作文化を背景にした日本の民俗習慣だと思っていたのだけど、ちゃんと仏教経典の典拠もあるんだなあ。

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 さて経典の本文はさらに献ずべき花のない時は、献花の真言だけでもいいし、枝葉でもいいし、枝葉のない時は根っこでもいいよ、と続く。
 そうして、
 
 「若(も)し、如上の花葉根菓の獻ずべきもの無くば、かつて見、かつて聞きし獻供養の花、或いは自らかつて獻ぜし花を、應ずる所に隨いて、想運して供養せしめよ。最も勝上の供養尊法と爲す。前の如き花菓等の獻有りと雖も、若し能く至心に虚虔に合掌し頂奉して、本尊に花菓を供養せよ。
 是の如きの心意の供養は最上にして、更に過ぎたるもの無し。常に應に是の如きの供養を致すを作すべし。疑惑を懷くこと勿れ。則ち成就を得べし」

 と結ぶ。この箇所は本編№28の典拠とする所で、よこみち№28でもコメントした所だった。

 以上が、『蘇悉地羯羅経』第七「供養花品」の全体像だ。原文にあたりたいという方はこちらをどうぞ。
http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&useid=0893_,18,0668c09&key=%E4%BE%9B%E9%A4%8A%E8%8A%B1&ktn=&mode2=2

 ここでもともとの問題に戻るんだけど、そもそもこの経典にあたってみようとしたのは、すべてものみな分け隔て無く受け入れオッケーと思っていた仏さまが、供養の花の種類に善し悪し言うなんてアリなのかな? と疑問に思ったのがきっかけだった。
 でも実際に経典の内容をたどってみると、とても体系的に記述されていて、しかも具体的かつ詳細にわたっている。その文意をたどっているうちに、ふむふむはるほど、となんとなく納得させられ、「そんなのアリかい!」と突っ込みたい気持ちはふにゃっと萎えてしまった。これを読んでくれた方はいかがだろう。
 たしかに「ダメ花」に関しては、詳しい理由も記していないのだけど、この経典の文脈であればさしたるひっかかりは感じなかった。
 そこで思うのだけど、私達は「仏」「釈迦」に対して聖なる偶像としてイメージしてしまうクセがあるんだろうな。「何でもわけへだてなく平等に」というのはじつは特定の時代社会の中で作られてきたひとつの理想像で、それを私達は「仏」「釈迦」に投影しているのだろう。

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 そしていつのまにか自分たちが投影してこしらえた偶像を、ホンモノと思い込んでしまう。だから時に古い経典の中で描かれている釈迦像と、自分のイメージの中の釈迦像の「ズレ」に出くわすと、おや?と思うのじゃないだろうか。 

 少なくとも私の「引っかかり」の正体はこれだったように思う。泰正さん、あなたはどう?

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