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BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

よこみち【真読】 №32 「マッチ売りの少女・・・、じゃなくて!」

 たいへんフラチな連想で申し訳ないが、「燈」のよこみち・・と思いめぐらしてまっ先に頭に浮かんだのが、野坂昭如の『マッチ売りの少女』だった。

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 あんなところでマッチ燃やしたらやけどするんじゃないかな、と心配した高校時代。今の歳になって同じシチュエーション考えてもやっぱりそれが心配、ということはまだまだ若いってこと?

 などとバカはほどほどに。われながらお恥ずかしいかぎりだが、浮かんだものはしょうがない。この話を広げると、もっとしょうがないのでもうやめておく。

 

  本編、冒頭の『文殊問経』の引用は文章の導入だからとカウントしなければ、本文は『燈指経』、『賢愚経』、『譬喩経』、『超日三昧経』と、それぞれの経典の四つのエピソードからなる。このうち第二と第三の話が、「いったいいかなる前世の因縁で、今こうして恵まれているのだ?」という話し。いわゆる前生物語のジャンル。これまでにも本編の中でこの手の話しはあったが、今回ちょっとよこみちしようとしているのはここ。

 「“前世にこうだったから、今こうなのよ”という話の説得力」である。

 じつはこの手の話し、現在の曹洞宗教団ではとてもナイーブになっていて、現在の状況を決める何かが前世に関係のあるなんてことはぜったいご法度!みたいな空気が教団のなかにある。これは誤った業論を誡めるためにこうなっているんだろうけど、ときどき、なんでそんなに臆病になっているの?と気にかかることもないではない。

 たしかに差別の問題や肢体の問題など、こうした説き方をしてきた事実はあるわけで、そうした自分たちの間違いを痛烈に反省しようということには賛成だ。けれど『真俗』のみならず伝統的な仏事由来書が頻々と繰り広げてきた「前世物語」の類が、曹洞宗布教現場の言説からごっそりと消えている状態は果たしてどうなのだろうと思う。

 「前世物語」「転生譚」はやばいからやめとこうぜ、みたいな風潮は教団が主体となって言っているものではないと思う。おそらく現場の二番手、三番手あたりのクチコミで広がっているのだろうが、そんな風潮って確かに感ずるのだがどうだろう。もしそれがあるとしたら、やばいことには触れない、というよりも、仏教文献の中で無視できないボリュームを占めるこのジャンルに、どう向き合うかというギロンをした方がよいと思うのだが。

 とと、よこみちの本題に戻ろう。

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 おそらくずいぶん前から読み物としては親しんでいたいはずの「前世物語」だが、そこそこ歳喰ってから、おお! と思った経験がある。

 それは『法華経序品』だった。別にかっこつけてるわけじゃない。ある時、もっと身を入れて勉強しないといかんな、と思ったのを契機に、『法華経』ちゃんと読んでみようとした。でも読み下し文だとしても漢文ベースではなかなかこなしきれない。で、いくつか覧ていくうちに三枝充悳の現代語訳が読みやすいな、と読んでみた。

 

 もう業界の皆さんには「ああ、あれね」の世界だろうからわざわざお披露目しなくてもよさそうだけど、意外に一般の方も読んでくださっているかもしれない(??)ので、ここにネタバレさせていただく。

 仏が眉間から一条の光を放った。

 弥勒菩薩文殊菩薩に質問する。「どうして仏はこのような光を放ったのか?」

 文殊は弥勒およびたくさんの人々に語った。その長い語りの中で、二万代におよぶ日月灯明如来という仏の、最後の日月灯明如来の時に今と同じ現象があって、如来が『法華経』を説き、その時に妙光という菩薩がいたが、それが今の私だという。そして妙光の弟子の中にデキの悪い求名という菩薩がいたが、それが弥勒よ、お前だよという。

 このくだり、その時の私にはかなり「来た」。あとから思えば、伝奇ものにはよく出てきそうなシチュエーションだが、はるか過去世の話からいきなり現在の話者と聞き手に、どんっ、とつながるというのがなぜかその時は衝撃だった。

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 どうしてこの話がその時の自分に大きく受けとめられたのはよくわからない。でも何となく思うのだが、世の中に別々に存在しているもの、しかも空間的に別の場所、というだけでなく、時間的にも接続しそうにないほど離れて存在しているもの。その別個のもの、あるいは人、あるいは事柄が、じつはつながっていたんだよほら! しかもこんなに直結して! 

 と見せつけられたらたいがいの人は驚くだろう。そして疑う間もなく「信じる」という飲み込み方をする人もあるかもしれない。私の経験した驚きは、その辺りに近いものだったような気がする。

 そして、「転生譚」による何かしらの由来の説明も、その周辺のものじゃないだろうか。われわれに気がつかないところに、じつはこんな親密な回路があるんだよ、と見せる手管がこの種の由来譚にはありそうな気がする。

 いまだ整然と言葉で説明するほど練れていないのだけど、「転生譚」のからくりって、なんかありそうだ。もうひとつ、なかなか近づけない。

 もう少しよく見たい、と目をこらすとふっとマッチが消えてしまうんだ。