BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

よこみち【真読】 №34 「気まぐれな由来譚」

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 今回の「常燈」、これまたいつもとちがう説き方だ。特に一つ前の №33「燈を滅(け)すに口をもって吹くことを禁ず」の由来の説き方とは好対照だとも言える。 №33の場合は、具体的な挙措動作が理由だったが、№34の場合は、釈迦の聖人的資質に依っている。「お釈迦さまには明と暗を分け隔てするようなことはないのだから、昼夜の別なく明かりを灯すのです」と言っているわけですよね。
 これまで30以上の仏事習俗の由来をひもといてきた。まだまだ3分の1も進んでいないけど、ここまででもご一緒に読んできてくださった方達はすでに気がついていると思う。
 『和漢真俗仏事編』に収められているそれぞれの仏事の由来は、全て同じスタンスから均等な説き方で展開されているものではない。インド原典と思われるかなり釈迦の時代に近いらしい文献を持ち出す時もあれば、インド・中国・日本それぞれ時代も場所も違う文献から複数の説を持ってきて並列していることもある。また今触れたように釈迦の万能性を強調する立場から説かれる場合もあり、ぶっきらぼうにその理由を示さずに終わっているものもある。つまりそんなT・P・Oに応じてさまざまな説相のものを寄せあつめたものがこのテキストであると言ってよさそうに思う。
 それゆえに私は、ここに書かれてある由来が正しいものですよ、と主張する気持ちはさらさらない。むしろ、仏事の由来譚って、けっこういろいろなんだね、と相対的な視点を確保することを勧めているつもりである。
 往々にして仏事の由来というのは、「あとから造られる」場合がある。 №33をはじめ、いくつかの項目でそれを指摘してきた。あまり語呂がよくないのだけど№22ではアゲ由・サゲ由なんて表現も試みた。つまり、こうした由来譚は、それ自体「変わってゆく」ものだと考えていただければありがたい。
 そしてその変わり方は、それぞれの時代の人口に膾炙しやすい方向へ、言い換えれば「ウケやすい」方向へ流れてゆく。その甚だしい例が「天上天下唯我独尊」の解釈だと思っているのだが、これについてはいつかきちんと取り上げよう。
 やや身近な例で言えば、釈迦のへん平足についての説き方がそうだ。
 以前、これについて幼児の保護者向けの文章を書いたことがあったが、
http://ryusen301.hatenablog.com/entry/2015/04/06/102536
 こういうことを繰り返して、どんどんお釈迦さまは偉い人になり、段階的に形成され発展してきた仏教は、そのすべてがお釈迦さまのつくったものだと語られてゆくようになるんだろうな。
 
 さっき「相対的な視点を確保すること」と言ったけど、私はこれが仏教そのものを考える時に大事な点だと思っている。そのこともいつかきちんと取り上げよう。
 
 こんな状況を想像してほしい。いろんな事柄について物知りなおじいさんがいるとしよう。自分はそのおじいさんからいろいろ教えてもらって成長している。
 子どもの頃は、すべて鵜呑みにしても大丈夫なしっかりした知識だった。
 けれども自分が成長してきていろいろ学習してみると、おじいさんの言い方はこの間と今では違うことを言っているようにも聞こえるし、あまり一貫性がないように思うことも出てきた。
 そしてもう少し自分は歳を重ねる。たとえば自分にも子どもが出来て、その子に多くのことを教えるんだけど、ときどき子どもから自分も教え方の矛盾を指摘されたりするようになる。
 と、こんな状況だ。
 そうなってはじめて、おじいさんの教え方は、矛盾というよりも、そのときどきのスタンスの違い、ポイントの置き方、対象となるものの理解度への対応などなど、多くの条件に応じようとしたためのものなんだということに気づく。そして時にはほんとに言い間違えていることもあったりするかもしれないけど、そのおかしなところに性急に突っ込んだりせず、やわらかい弾力性を持って「聴く」姿勢が自分の側に養われる。
 そこ、大事だよね。