よこみち【真読】№35 「♪心の闇を照らします~」
「心の闇」という言葉がある。
標題は曹洞宗の詠讃歌にあるごくポピュラーな曲の一節。釈迦が衆生の救済を胸に誓った時の言葉をもとにしたものだと言われている。この場合、「心の闇」が意味するのは、人びとの心の中にある悩みや迷い、あるいは仏の教えをきちんと理解できない不明さ、あるいはこの二つの複合領域、ということだろうか。なんとなくわかったような気分になっているが、はっきり言葉にしようとするとなかなかむずかしい。
一方、テレビのワイドショーなんかで見かける「この度の殺人事件を犯した女子高生の心の闇に迫ってまいります!」などという場合もある。こうなると「心の闇」とは、なんだか急に陰惨な色調を帯びた禍々しいものに聞こえてしまう。
さらには、あるジャンルのキャッチに見かける「貞淑な人妻がひたすらに隠す心の闇」みたいなやつ。こちらの方はとたんに淫靡な匂いが漂ってくる。
いったい本編で言うところの「愚癡の闇」とはなんだろう。
すぐに思い浮かぶのは「無明」と言うことだが、これと同じ意味だろうか。
ということで、ごくオーソドックスな辞書をたしかめておこう。(中村元『仏教語大辞典』に依りました)
まず「愚癡」。
1)愚かなこと。
2)無知。真理に対する無知。
3)迷妄。迷い。錯覚。
4)愚迷な。
5)煩悩の迷い。ものわかりの悪いこと。
6)凡夫。
7)十二因縁の第一、無明。
8)愚かな凡夫のこと。
9)通俗には、心愚かなため、言っても効果のないことを並べ立てるのを愚痴をこぼす、という。
次に「無明」。
1)無知のこと。われわれの存在の根底にある根本的な無知。十二因縁の第一支。
2)説一切有部では大煩悩地法の一つとされ、唯識派では根本煩悩の一つとされる。
3)唯一絶対なる心の真相に達することが出来ないので、心の本性に相応せず、忽然として種々の煩悩が生起すること。
4)明らかでないこと。
5)無知に同じ。
1)天台では三悪の一つとし、非有非無の理に迷って中道の妨げとなる惑をいう。
教学的な説明になるとむずかしいね。あまり詳しくは知らないのだけど、「無明」をめぐる議論というのも専門の研究者の間ではあるみたいで、とても「よこみち」程度のアタマではフォローできない。
けれども、とりあえず確認できたのは、冒頭にあげた「陰惨な」とか「淫靡な」という方向へのベクトルはここではあまり考えなくてよさそうだということ。そしてまた「バカ」「アホ」の類とも違うもの、ということになりそうだ。
その昔、「基礎仏教学」みたいな授業で聴いたように憶えているけど、無明とは人によって有ったり無かったりするものじゃなくて、誰しもに「ある」もの、という説明が印象的だった。それゆえに「根本的」「根底」という言葉があったけど、私達の根っこに抜きがたく横たわっているもの、それが無明であり、愚癡なのだろう。本編の引用する『羂索経』は「暗障」という言葉を使っていた。
燈明で照らすと闇が消えるというふうに言うのかもしれない。しかし、明るくすると、闇の中に紛れて見えなかったものの正体がはっきりと見える、ということも言えるだろう。自分の中の「愚癡」を消すためにではなく、そのありさま・かたちをはっきりと見知っておくために燈明は必要なのかもしれない。