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BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

よこみち【真読】 №37 「 “ 金をばらまく ” 行為 」

 2015年4月にfbタイムラインにアップした件。

https://www.facebook.com/groups/286667194842778/permalink/427701390739357/
寺院法要で行道が始まると参詣者から僧侶に向かってお金(硬化)が「投げ寄せられる」(投げつけ・・じゃ変だしね)。秋田県大館市の例だったけど、コメントいただいたところ、他の地域でも少数ながらあるらしいとわかった。その際はこうした習俗の典拠がわからなかったけど、もしかすると今回の本編「散銭」が典拠の一つとなるかもしれない。

 ただし『真俗仏事編』が引いている韓愈の『論仏骨表』とは、唐代排仏論を代表する文献で、古来、聖天子によって平和な治世がなされていた中国に、「夷狄の法」である仏教が入ってきたために、善良なる中国の風俗が乱れてしまったことを指摘し、ゆえに仏教を国法もって禁ずることを上奏した文章である。くだんの箇所は
 「焚頂燒指,百十為群,解衣散錢,自朝至暮,轉相仿效。惟恐後時,老少奔波,棄其業次。若不即加禁遏,更曆諸寺,必有斷臂臠身,以為供養者。傷風敗俗,傳笑四方,非細事也」とある。
 手っ取り早い翻訳はないかなと探したらWikiが次のように訳していた。
「燃頂や燃指を行なったり、群れをなして衣服を脱いで金銭を散財して、朝から夕に至っています。このような習いは、ただ後生の報いを恐れて行なっているだけであり、老若の別なく奔走し、生業を怠っている有様です。もしも即刻禁圧を加え、諸寺に触れを出さなければ、必ずや腕を絶ち身を焼いて仏に供養するものが現われます。中華の風俗を損傷し、諸外国の物笑いとなることは、些細なこととは言えません」。
 お察しのことと思うが、省略されている主語は「仏教を信ずる連中は」である。ただこのWiki訳、気になるのは当の問題の箇所で、「散錢」を「金銭を散財」と置き換えているのはいかがなものだろう。
 先のタイムラインに投稿した画像は、いかにもお金を「ばらまいて」いた場面。多少の後悔の念を含みつつ反省する「散財しちまった」とは、かなりニュアンスが違う。Wiki危ないんだよね。
 そこで『諸橋大漢和』を尋ねると、「散銭」の項に、「一、銭をちらす」とあり、三つの典拠が挙げられている。第一は、『晋書』「沮渠蒙遜載記」の「銭ヲ散ラシ、以テ百姓ニ賜フ」。第二は、『北史』「王昕伝」の「悦テ数、銭ヲ地ニ散ラス」。第三は、今引いた韓愈の『論仏骨表』。こうなるとやはり「散銭」は「銭を散らす」でよさそうだ。念のために『論仏骨表』の解説本を調べてみた。
 この文章かなりの名文として知られていて、『唐宋八大家文』に採られていて、解説書はかなり多い。ここでは古典的なやつから『唐宋八大家文講義』を見てみた。「散銭」の解説は「金銭ヲ散ラシテ之(仏)ニ供養シ」とある。「散銭=銭を散らす」で確定していいだろう。
 
 ここで思い出すことがある。
 三十代の頃だが、中国の桂林に游んだ。今にして中国山水画の風景を目の当たりに出来る景勝地である。漓江と呼ぶ河を遊覧船にてゆったりと下る。両岸に広がる水墨画のような景色、自分達まで一幅の画に入り込んだように思える数時間。この船上でのことだ。

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 左右に展開するパノラマに目を奪われつつ行くと、時折川べりの集落に近づく。遠くから遊覧船の近づくのを認めて、その集落に住んでいると思しい四~五歳から上は十代くらいの子ども達が歓声を上げて船に寄ってくる。言葉はわからないが、その身振りや雰囲気からなにかの物乞いらしいことがわかる。子ども達は上半身裸の子、パンツ一つの子、すっぽんぽんの子といろいろ。岸から川の中に入り、ジャブジャブと船に近づいてきては何かを要求するジェスチャー。と、船客の一人、ヨーロッパ人らしい(ガイドの話である)女性が、ハンドバッグから一束の紙幣を取り出し、その子ども達の法へ向かってぶわっとばらまいたのである。ゆるい風に乗ってひらひらと空中に舞い、あるいは川面に落ちて流れに漂う紙幣の数々。ものすごい歓声、というよりは怒声にもきこえる雄叫びを上げてそこに群がる子ども達。ふふん、と鼻で笑うかのような仕草をして連れの男性と船室へ引き返してゆくかの女性。
 おそらく中国通貨の中では最安の紙幣だったと思う。観光客にすればさしたる金額ではなかったかもしれない。しかしそばで見ていた者にすればどん引きしそうな場面であった。
 この時、たまたま桂林市内の現地ガイドとしてついてくれた二十代前半の女性がいた。上海の復旦大学で日本語を習ったという彼女といくつかの接点もあり、デッキで親しく話し込んでいた時のことだった。「あの子達は学校行っていないの?」「今日は休みだから」「今の女性みたいにお金ばらまく人はときどきいるの?」「アメリカやヨーロッパの人はたまにこういうことをやる。ほんとは困る。日本人はこういうことしない」。漓江下りを終えて船を下り、ガイドは私を宿泊予定の桂林市内のホテルまで送ってくれ、そして別れた。
 なぜあの場面で引きそうになったのか。それは「お金をばらまく」という行為は背徳的であるという倫理観が私達に植え込まれているからだと思う。「お金をばらまくなんてとんでもない」という気持ちだ。それが儀式の中で許されるというところに「散銭」の特徴があるのではないだろうか。
 その夜、食事を終えてホテルの部屋に帰るとフロントから電話があり、昼お世話になったガイドが部屋まで訪ねてきてくれた。
 本編でちらりと触れていた「賽銭」のことは、『真俗仏事編』第四巻で登場する「六道銭」の項であらためて取り上げる。ここでは賽銭のように特定の箱へ入れたり、あるいは香奠のように仏前に供えたりする行為とは根本的に違う「散らす」「ばらまく」という散銭の意義についてもう少し考えてみたい。
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 あるいは「くす玉」。祝賀会やパーティー会場にしつらえ、時が至ると割れはじけて中から小片の色紙やリボンが「撒き散ら」される。

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 あるいは仏事法要の「散華」。仏・菩薩の登場を荘厳するために天から降ってきた花々に見立てて、彩色鮮やかな花びら用の小片を空中に「撒き散らす」。

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 あるいは、これまたずっと後にとりあげることになるが、葬送の野辺送りの際の「花籠」。小さく刻んだ色紙や、米、そしてそこに混ぜた小銭を「まき散らし」ながら死者を葬場(埋葬地)へつれてゆく。

 まだ個人的な見通しに過ぎないけど、「散銭」はこの系列に属するものじゃないだろうか。この系列に共通するのは「ハレの儀礼」「祝」という要素。寺院法要における散銭も、見聞している限りではお金を撒く側の方がなにかの法楽を期待しているように見える。
 しかもモノは「お金」であるところが散銭の特徴だろう。桂林の体験で確認したように、お金をまき散らすらすことは日常的な倫理のもとではご法度。ご法度なことほどしたくなるのは古今変わらぬ心理。散銭の際に、参詣者達の間に垣間見える嬉々とした空気がそれを察知させる。いわば「散銭」は「ふだんできないからやってみたいこと」という要素も持っている。

 数年前にたしかテレビで、どこかのお寺(あるいはお堂)のまん中で、読経する僧侶めがけて、四方に詰めかけた参詣者から、どしゃ降りの如く撒き散らされる散銭の場面が放映されたように憶えている。今になって検索してみるのだが、どこかに消えたのかまだ見つかっていない。
 韓愈からは中国の公序良俗に違背するとんでもない行為、と批判された散銭だが、今なお各地に伝えられているところ見ると、この習俗には人間の「やってみたい願望」が反映されているからではないだろうか、と考えている。

 部屋に来てくれたガイド嬢は、私とお茶を飲みながら翌日の行程を打合せ、帰って行った。水墨画のような淡い思い出である。

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