【真読】ちょっといっぷく(二)「編著者・子登について その2」
というわけでここまでで「供養部」が終わった。巻一と同様、拾い読み(抄出)だったので、全23項目中、19項目を取り上げた。これまた前回と同様のご案内になるが、読み飛ばしたところは各位ともwebでお読みいただきたい。
巻一を終えた時に、「ちょっといっぷく」と題して本編の内容からやや離れた話題を扱った。今回も、そのスタイルで行こうと思う。もっとも題材はまたしても編者・子登についてだが。
「いっぷく(一)」では、享保11年版(もっとも依ったのは平成の訳出本だったけど)の序文をもとに、子登の人とナリを推察してみた。そこでは二つのことがわかった。http://ryusen301.hatenablog.com/entry/2015/05/05/082311
1) 『真俗仏事編』の執筆が行われたのは大坂の生國魂神社(現在、大阪市天王寺区生玉町)内にある真蔵密院。ここは高野山系真言宗に属していることから、子登はこの系統の真言宗僧侶と推定される。
2)執筆態度は、必ず典拠を示し、勝手な私解を持ち込まない。
そこで今回も編著者・子登に関する考察の続き。前回「レアな情報」と、もったいをつけていた資料をご紹介し、考えてみたい。
それは『世説故事苑』というもの。
あまり知られていないのだが、子登のもう一つの編著書である。全五巻より成る。こちらは『真俗』がいろんな仏事の由来を説く書だったのに対して、いろんな言葉の由来を説いているもの。では国語辞書の類かというと、必ずしも網羅的な語彙を収録しているわけでもない。その内容たるや、なかなかおもしろいのだが、これについてはそのうち全文紹介するような機会を得たいと思っている。
で、この『世説故事苑』に子登による序文が掲載されているので、それを二つ目の手がかりとしてみたいのである。
序文にある年記は「宝永七庚寅(1710)」。
『真俗』の序文はというと「享保丙午(十一年、1726)秋」だったから、これよりも16年ほど早い編述ということになる。
ただ今回画像にあげた本は、その第五巻末尾にある奥付によれば、「享保十三戊申年(1728)九月十八日」に出版されている。これは秋田県立図書館蔵本なのだが、国立国会図書館にこれが所蔵されていて、そちらは正徳六年(1716)の出版になっている。http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000007299812-00?ar=4e1f
つまり秋図本は、国図本の後刷と思われるのだが、ここでは序文の年次がわかればよいので、そのあたりの書誌的なことは今回は立ち入らずにおこう。
それでは、享保十三年版『世説故事苑』序文の全文を挙げる。
貧道が居、嘗て大聚楽に接せり。このゆえに雨晨、月夕に茶を以てあい簪(あつま)る者は、多くは素客なり。炉に椅(よっ)て団座し、壁に靠(よっ)て雑話す。動(ややも)すれば輙(すなわ)ち、率爾(そつじ)として疑を発して問うことはみ咸(みな)俗事なり。
余、これがために答えるに必ず典拠を以てす。間(まま)試みに左右に命じてこれを記せしむ。積みて軸となり、名づけて『世説故事苑』という。
古(いにしえ)にいわく、「善く問いを持つ者は、鐘を撞くがごとし。これを叩くに小を以てすれば小(すこ)しき鳴り、これを叩くに大を以てすれば大いに鳴る」と。冀(こいねがわ)くは、後の覧(み)ん者、その俚語を解くを以てその鄙拙を嘲(あざけ)ることなかれ。
宝永七庚寅の秋
世説故事苑の首(はじめ)に書す
浪花生玉沙門子登
以上である。
かつては大聚楽のそばに住んでいたという。大坂の中心街であろうか、定かにはわからない。そこには雨降る朝や月の明るい夕べに、よく人が訪れていた。素客とあるのは、坊さんではなく在俗者ということだ。淄素(しそ)という言い方があって、淄は黒、黒衣を着た僧侶を、素は白、白衣の在俗者を言う。その寄り集う客人達が子登に聞く。なべて俗事だという。こうして見ると、子登は当時、博識で知られていたようだ。
そして「これがために答えるに必ず典拠を以てす」とある。これは『真俗』序文で確認した2)と同じ。典拠主義は徹底していたようだ。
この質問への応答を、そばに持する者に筆録させたところ、かなり貯まってきたので『世説故事苑』と名づけた。
こうして見るとまだ確かではないが、以前「大聚楽のそば」に住んでいた頃の在俗者たちとの交流から生まれた本書の原稿を、生玉社に住むようになってから刊行した、ということなのだろうか。
これが本書成立のてんまつ。「古にいわく」以下は、子登の情報はあまりない。
末尾の「浪花生玉沙門子登」。これまた『真俗』と同様。『真俗』では「真蔵密院」の名があったが、こちらにはない。
「生玉沙門」について今一度触れておこう。生国魂神社について、とりあえず手元で調査出来る資料のうち、詳しいのは次の『日本歴史地名大系』の記述。
[現]天王寺区生玉町
四天王寺の北西、地下鉄谷町たにまち九丁目駅の南西にあり、通称は「いくたま」神社で、「生玉」とも書く。生島神・足島神を主神とし、相殿に大物主神を配祀。旧官幣大社。(中略)
(引用者注:戦国期、秀吉が生国魂神社とその神宮寺を現在の地に移したこと。神宮寺は法案寺と言ったこと、があって近世の記述になる)
なお法案寺は一〇院の塔頭を擁した真言宗の寺で、南坊が別当であったので俗に南坊とよばれた。社蔵の寛文九年(一六六九)の境内図によれば神社北に南坊・医王院・観音院・桜本坊・新蔵院・遍照院・曼荼羅院、南に持宝院・覚園院・地蔵院があった。神社から北へ下る道を真言坂というのは、この道の西に南坊・医王院・観音院、東に遍照院・新蔵院・桜本坊の真言宗の寺坊があったからである。これらの院は明治の神仏分離により社周辺から撤去されたが、南坊は現南区島之内二丁目に法案寺として法灯を守り、医王院・遍照院は青蓮寺として生玉寺町に、観音院・新蔵院は正祐寺として上之宮町に、桜本坊は円正寺として現奈良県生駒市に、覚園院は宗恵院として生玉前町に移り、曼荼羅院・地蔵院はそれぞれ生玉町持明院・藤次寺に、持宝院は南区三津寺に併合された。遍照院にあった浄瑠璃作者竹田出雲の墓は青蓮寺に移されている。
この中に「真蔵院」の名は見えないが、「いっぷく(一)」で引いた
http://www.city.osaka.lg.jp/tennoji/cmsfiles/contents/0000021/21991/09.pdf
このページで紹介されている「生玉十坊」が、法案寺の塔頭十院とほぼ一致することから、「新蔵院」から「真蔵院」へと名称が変更になったと考えられる。とすれば、新蔵院=真蔵院は、観音院とともに上之宮町・正祐寺に継承されたと考えられる。いずれも資料上の予測であって、実地調査を踏まえていないので現段階では未確認である。
ともあれ、現在の生玉神社は、明治の神仏分離以前、真言宗寺院を境内に擁していたのであり、それも塔頭十院から成る相当規模のものであった。
※写真は明治時代の生玉社
子登が当時の生玉社においてどのようなポジションにいたのか、これまでの資料だけではわからない。
以上『世説故事苑』の序文から若干のことを考えてみたが、「いっぷく(一)」とも合わせて、ポイントを整理しておこう。
1)子登は、宝永7年(1710)と享保11年(1726)の二つの時点で、「生玉沙門」と称する真言宗僧侶であった。
2)『世説故事苑』は、主に生玉社へ入る以前の、子登と在俗者たちとの交流から生まれたもの。
3)典拠主義的執筆態度。
というところかな。