よこみち【真読】№45「愛のゆくえ」
インド仏教専攻のさる大学教授。
教え子の結婚式に招かれるとスピーチによくこんな話を披露していた。
「お釈迦様も、夫は妻に宝飾品を買い与えることを勧めています。新郎もこれからかくあらねばなりません」
なるほど。結婚生活とはかくも一方的なものだと得心した経験がある。はたして実践している人が(その先生も含めて)どれくらいいるかは知らないけど。
本編、ここまで「厳具部」のあれこれを採りあげてきた。このうち「装身具」に通ずるものも少なくない。
身体を装飾するアイデア。それって時代とともに発展するのだろうか。
以前、近在の縄文遺跡に関わる学習会でいくつかの見聞をしたが、たぶんこのアイデアって早くも縄文時代にはほぼ出尽くして、あとはいろんなはやりすたりで今日まで来たのじゃないだろうか、と思った。
たとえば「装身具」を単純説明するサイトにはこうある。
人間の身体に着装する装飾品。頭,耳,鼻,口,首,胸,腕,手,腰,足など,着装する部位によって独特の形態やスタイルがある。材質は金属,石,ガラス,骨,角,牙,亀甲,貝,木,焼物などさまざまである。
つまりは古今東西を問わずその身を飾り立てるすべは共通しているということだろう。
そしてこの「すべ」はまた仏像にも共通する。
たとえば仏像の説明をしているサイトの一節に次のように見える。
衣服や飾り
上半身はほとんど裸で,左肩から右側の腰にかけて,薄い帯状の布(条帛<じょうはく>)が掛けられ,また両肩から,細長い布(天衣<てんね>)が軽やかに垂らされています。下半身にはロングスカートのような着衣(裳<も>)をつけています。
体にはイヤリング,ネックレス(瓔珞<ようらく>),上腕の腕輪(臂釧<ひせん>),ブレスレット(腕釧<わんせん>)など豪華な装飾品を身につけています。
たしかに仏像の各パーツを見ると女性の装飾品と重なることが認められる。
たとえばこれはセミヌードと首飾り。
宝冠と首飾りやイヤリングなど、これらも基本的には一致の要素。
臂釧(ひせん)、腕釧(わんせん)なども一緒。
こうした例を見てくると、仏像を飾り立てる心理というのは、女性を美しく見せようという心理と重なり合っているのじゃないかと思えてくる。
女性を称賛する言葉に、時に「崇高」などと混じることがあるが、このあたりは仏像にも通じるところ。不可触にして不可侵の聖なる存在として距離を置く。
しかし距離を置いているままではなく、女性の場合はその距離を縮めたい、そして触れたい、さらにはそれ以上・・
と、おのが占有欲に組み敷きたいと思うのが大方だが、仏像の場合はこの点どうか。
愛する者に手出しできぬがゆえのねじ曲がったベクトルはどこへ向かうのだろう。
仏の言葉をより子細に詮索して教義の大系を生み出すか、あるいは仏を頂点とする巨大な宗派・教団を作り出すか、閉じ込められた禁欲は、いつのときもなにか他の思いもよらぬものを創り出すエネルギーになる。