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BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

よこみち【真読】№48「歌声に包まれて」

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 本編の「梵唄過まり唱う」とは、唱える文句を間違うということではない。定められた「音」を間違える、ということだ。
 このこと、私のように仏教声明の音楽的詠唱に不慣れな者にとっては少なからず驚きがあった。
 日本における禅宗、就中曹洞宗教団には中国禅以来の声明音楽はほとんど伝わっていない。黄檗宗にはそのいくつかがあるらしいが、曹洞宗における声明は日本天台宗真言宗の流れを汲むものらしい。実際、私たちが声明を習う場合、古参の先輩僧に指南してもらうことがほとんどだが、多くは地域的、あるいは特定の僧堂に伝承された詠唱法を相伝しているもので、その源を辿ると曹洞宗オリジナルというものはほとんど無く、他宗の伝承にしたがっているように思う。

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 〈天台宗「云何唄」の博士です〉


 曹洞宗オリジナルとしては面山の『洞上唱礼法』が知られているが、これは江戸時代に考案されたものである。そういえば、永平寺で「羅漢講式」を修行した際に瑞相の現れたことを道元が記しているが、この講式は比叡山流のものだったのだろうか。少なくとも道元以来、声明は他宗の伝承に依っていたと見てよいのではないだろうか。
 今年5月、三重県の友人の寺院で、曹洞宗の梅花流詠讃歌と浄土真宗の声明とのコラボという珍しい法要に随喜することが出来た。

https://www.youtube.com/watch?v=wpz-BLiVDyE

 その真宗のお坊さんとしばし茶話の次いでのことである。真宗の僧侶仲間で本式の声明講式に臨む時は、必ず調子笛で音の調子を確認し、場に臨むのだと聞いた。これはそちらの方々にすれば当たり前なのだろうけど、曹洞宗ではそのように声明に臨む場合に音程を確認することはほぼないと思う。あるとしても、主讃と言われるパートリーダーが「これくらいでいいかな」と開始前にちょっと声あわせをする程度である。あとは出たとこ勝負。主讃の声の調子になんとなく合わせてみながそろえる。その真宗のお坊さんが言っていた。「でもね、天台宗の人達はすごいわ。十人でも二十人でもそれぞれのパートびったりだよ。あれはプロの音楽家だね」と。梅花流詠讃歌の師範だなどとときには呼ばれるこっちは恥じ入るばかりだった。
 
 仏伝図を模した絵画や彫刻を思い出す。

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 仏の周りを舞う天女達が手に手に持っている楽器の数々。そう、彼女たちは奏楽のプロだった。おそらく声は聞こえないが、図像の彼女達は仏を讃歎する歌を歌っているのだろう。釈迦の生涯は歌声に包まれていたのだ。

 さらに言えば阿弥陀来迎図のモチーフもそのもっとも大きな要素は「音楽」だった。「かぐや姫」はこの点、よく見ていたよね。

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 高度に洗練された音楽が、欠くべからざる仏教の大きな要素であったことにいまさらながら気づく。なるほど、本編で釈迦が誡めたのは、そうしたハーモニーを乱す行為だったということになるのだろう。

 ん? てことはもしかして、釈尊伝の舞台化ってミュージカルがふさわしい!?

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