BON's diary

「何考えてんだ、お前はっ!」 「い、いろんなこと」

よこみち【真読】№50「享楽と禁欲」

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 本編№46以来、「よこみち」でもいく度か触れてきたことだが、こと〈音楽〉という窓を通してみた時、仏教の特色の一つが露わになる。それは仏教の禁欲的傾向と云うこと。
 華やかな衣装をまとった天女や菩薩達の奏する音楽は、いかにも心を和ませ、編著者子登が列挙するところの、それを描写する表現には享楽的と言ってもよい含みがあった。それらを読み進めるうちにどうしても浮かんでくるのが、仏教って享楽的でよかったんだっけ?という不審の念。(この念の出所が前にも言ったステレオタイプ的仏教理解にあるというのは承知しているのだが)このことは、私以外の多くの仏教関係者にもにもたぶん通じるはずで、だから№49「よこみち」で述べた、「陽気なラテン系」という形容に違和感を抱いた人は少なくないと思う。
 この問題は『真俗仏事編』成立当初にもおそらく意識されていたもので、それを裏付けるのが、今回本編№50で紹介されたいた4つの典拠のうち第4番目『大智度論』の所説だと思う。今一度その文章を意訳して挙げてみる。

 問「諸々の仏である優れた賢者聖先達は、欲心を離れた人であるから音楽歌舞をこととすることはないはずである。しかるになにゆえに仏を供養するのに妓楽を以て行うのか」
 答「諸々の仏達は、すべてのあり方・行い方において、なにかに執着するということがないので、妓楽の供養を望むことなど無いのだが、諸々の仏は人びとの(いまだ未熟なることを)憐れんでこの世に出現して下さったがゆえに、妓楽を以て供養したいと願う人びとに対して、その願いを全うさせて福楽を与えてあげようとの思いから、その供養を受けるのである」

 あまりこなれない訳だが言うところはこうではないだろうか。この文意だとすれば、「ほんとはいらないんだけど、したいって言うんだから受けてあげる」というやや距離を置いた言い方。妓楽の供養そのものに対しては消極的肯定としか言えないことになる。
 このこと(苦しい言い訳という意味での)は、2世紀の人である龍樹の『大智度論』の所説であることによって、仏教が早くから抱えていた命題であることを示唆しているように思う。命題とはつまり〈享楽的か禁欲的か〉ということだ。この発想に至ると、問題はややおもしろい広がり持ってくる。
 どういうことかと言うと、人間が本来的に持っている二つの傾向〈享楽主義と禁欲主義〉の分岐点に〈音楽〉があるのではないだろうか、そんな発想を引き出すからだ。このように言うと、音楽=享楽というくくり方は乱暴だろうとお叱りを受けるかもしれない。たしかにそうかもしれない。だからここでは音楽が人間の情操を自然に開放する方向へ導くもの、という意味で〈享楽〉という表現を使うことにしておこう。当然その情操を抑圧制御する方向へ働くのが〈禁欲〉ということになる。
 この二つ、どちらか一方だけでは落ち着かない。享楽をよしとする者は、時に我が身を省みて禁欲的なあり方に思いを致したり、禁欲に徹しようと勉める者が、ふとした瞬間に享楽に惹かれたり。この双方の間をゆれ動くのが大方の人間のあり方のように思うし、また仏教もそれ以外ではないと思う。だからさっきの『大智度論』の問うところは正直な疑問だと思うし、これに対する答えのすっきりしない言い方もこれまた正直なものだと思う。
 
 このように考えてくると、「陽気なラテン系」はひとまず置くとしても、いやそれをも含めて、仏を讃歎供養する歌舞音曲というのはもっとおおらかに受けとめられていいように思うのだがいかがだろう。

 とある昔のお坊さんは「仏教者が歌舞音曲にうつつを抜かすと何ごとだ」と厳しく批判している。その流れを汲む人達の中には、かたくなにそうだと信じている人達もいるらしいのだが・・・。